個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。
漠然としすぎているかい?
例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。
医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。
わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。
医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、
あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。
絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか?
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう?
でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。
商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか?
ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。
でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。
そういうとき、きみなら、どうするだろう?
ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。
足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。
むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。
奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。
食事を抜いても、読みたい本を買った。
ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。
あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。
この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。
東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。
日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。
英語国でも、割とマッチョな業界だけど。
ああ、そうなんですか?
要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね?
と述べて、舌をだして笑っている。
わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。
日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。
受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。
おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか?
日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。
文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。
わたしなんか、それで、英文学ですから!
もう最悪で。
ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう?
教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。
旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。
だから。
ケーキをつくるのが上手なひとで、あのケーキにつられて、結局、二年間ばっちり通ってしまったけど。
ともかく、英文学科の学生が英語が頭のなかでどんどん日本語に変わっていってしまうんだからサイテーですよ。
でも、英語、ふつーに話してるやん。
ああ、ここのインドの人達を見ていて!
わたしたちと同じというか、大学を出てるマネージャーたちは英語で苦労しているのに、高校だけで、こっちへ来てしまったひとは英語をたいして習得する努力もしないで身に付けてしまうのをみて、考えたんです。
もうひとつ、日本で知らなかった表現は、発音からもうちゃんとした英語になってるのに気が付いて、少し、へへ、コツがつかめました。
これから、どうするか決めてないし、方針も立ってないけど、この頃ね、朝、起きると、さあ、いっちょうやるかっ!
と、思えるようになったんです。
世界は、面白い!
と思う。
もしかしたら、ガメさん、びっくりするかもしれないけど、日本にいるときは、どうしても、そう思えなかったんですよね。
世界が自分にチャンスをくれる気があるとは、どうしても思えなかった。
それに、わたしは25歳なんですけど、日本では年齢がとてもおおきなものなんです、おおきなもの、というか、はっきり言って人間の人生の邪魔なんですよね。
もう結婚しなきゃいけないんじゃないかとか、会社にいて昇進がのぞめるだろうかとか、そんなことばかり考えていた。
毎日毎日、自分が否定されているような気がして、なんとか世界に認めてほしくて、つらかった。
わたし、へへへ、こんなこと言うの恥ずかしいんだけど、ある朝、電車に乗れなくなってしまったんです。
いつもとおなじように電車に乗るための列に並んで、いつもと同じように電車がホームに滑り込んできて…ところが他の人はみんな、例の体当たりするような勢いで身体をねじこんで乗っていったのに、気が付くと、わたしだけがホームに残って立っていた。
自分でも何が起きたのか判らなくて、しばらく、ぼおーとしていて、やっと、ああ、自分はこの社会に負けたんだなあ、と気が付いた。
わたしは敗北者になってしまったんだ、と発見した。
家に帰ったら、驚いた顔の母がドアを開けてくれて、その顔を見たら「わっ」と泣き出してしまったんだけど、そしたら、おかあさんが、「もう会社、やめちゃえばいいじゃない」と言ってくれたんです。
遊びにいってらっしゃい。
中国でもアメリカでもいいじゃない。
あなたは小学校のときから頑張って頑張って、勉強を一生懸命やって、他人がうらやましがる大学に入って、ううううーんと頑張ってきたんだから、少し遊ぶくらいなんでもないじゃないの、と言われた。
おかあさん、おとうさんには内緒だけど、案外、不良だったのよ。
鳥居坂にある学校からね、店の主人と示し合わせて、制服で入っても怒られない店にいって、そこで着替えてみんなで渋谷に行ったりしていたの。
あなたは、おとうさん似で、マジメにやりすぎるのよ。
それで、そこで、母親はびっくりするようなことを言ったんです。
「マジメにやる、ということは、案外、世の中がこうしなさいと決めた決まりに従っているというだけのことで、その世間自体がくだらないことになっているときには、知らずに、ずいぶんくだらない人生を歩いているということもあるのよ」
会社をやめるときに、「やっぱり女はダメだな」と言われました。
バイトをして、オカネを足して、60万円で世界一周切符を買ったら、残りは20万円しかなかったけど、わたしはラッキーで、おかあさんが「オカネがなくなって困ったら、おとうさんには内緒で私が送ってあげるから」というので、たいして心配しないで出かけてこられた。
出てみると、日本て、刑務所みたいな国なんですよね。
決まりがいっぱいあって、やりたくないことを山ほどやらされて
少しでもふてくされると、つまはじきで独房入りですから…なんちゃって。
ガメさんに「差別だぞ、それは」と言われそうだけど、わたしはやっぱり日本人と結婚したいんです。
おなじ日本語のほうが判りあえるとおもうし、…それに… ガメさんたち、毛深くて、なんだかおおきくて、…あっ…ウソウソウソッ!いまのはウソ! 取り消しです。
ガメさんて、目の前にいると、なんだかあったかい壁に向かって話しているみたいで、なんでも話しやすいんですよね。
いろいろなことを言ってみたくなる。
(わしは、ぬりかべ、ちゃうぞ)
この人の場合は、「世界」という一冊の高価な本を、いまでも読んでいるさいちゅうなわけだけど、そういう大規模な読書に踏み出す前に、文庫をポケットにねじ込んで、公園のベンチで、木洩れ日がさしてくるページを繰りながら、プルターク英雄伝を読む、というようなことを積み重ねるのでもいいと思う。
旅行と読書じゃ、ぜんぜん別じゃん、と
きみは思うかもしれないけど、英語の世界では、むかしから、あんまり変わらないものという位置づけで、つまりは「自分が知らない考えに出会いなさい」ということなのでしょう。
良い本や、良い旅は。「え?」と思うことに出会わせてくれる。
なぜ、そんなことが可能なのだろう。
世の中には、そんなことを考える人がいるのか。
なるほど、そんなふうに考えても、ちゃんとやっていけるものなのか。
ヨーロッパの若い知識人たちは、むかしから、イタリアへ北アフリカへ、あるいは遠く東アジアにまでも足を延ばして、見知らぬ文明にぶっくらこいたり、思わず理解してしまったりして、自分の考えをいったん解体しては、再構築することを繰り返してきた。
インターネットは従来のマスメディアよりも遙かにすぐれたメディアだがメディアである以上、マスメディアにもあった欠点を受け継いでいて、平たくいうと「低きにつく」という重大な欠点を持っている。
ページビュー、というでしょう?
あるいはtwitterみたいなSNSではフォロワーという。
100万を越えるフォロワーを持つアカウントよりも、500くらいのフォロワーのアカウントのほうが、遙かに深い思索を述べていることは、よくあること、というよりも、常識であると思う。
テレビの視聴率と似ていて、人間の知性の平均は、びっくりするほど低いところにあって、その「平均」に近いところに受け身で言葉に接するひとたちは蝟集する。
近い将来、仮想現実が現実より優位に立つのは疑いようがないし、仮想現実の都合にあわせて現実がデザインを変えてゆくことになるだろうし、また、そうならなければ、この世界が世界として生き延びていける可能性はゼロだが、いまは過渡期も初期で、TOTOの研究所では新しいデザインのトイレがうまく汚れを流し去るかどうか味噌を使って研究するのだと聞いて大笑いしてしまったが、ミソもクソも一緒で、まだ原始的な段階を出ていない。
だからコンピュータのスクリーンの前に座っていても、新しい考えはなかなかやってきてくれないのですよ。
向こうから来てくれないものは、仕方がないので、きみのほうから出かけてゆくしかない。
本を開いて、ストリーミングのプレイボタンを押して、あるいは空港のセキュリティゲートをくぐって、自分のほうから世界を見にいくしかないでしょう?
そのためのさまざまな方策を、これから、きみとぼくと、一緒に考えてゆこうというのです。
(この記事は2016年12月11日の「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」の記事の再掲載です)
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働き過ぎで自死なさった、高橋まつりさんという女性の事を思い出しました
(この記事より前の事件なのか、後だったのかもう思い出せない)
彼女も、電車に乗るのをやめてしまえたら良かったのにね。本当に。
私、あなたのブログ記事を通読したことがあります。編集友というお方が何度も!目を通したというのはプロのなせる技と思いますが、私もすべて読んだので、なんだか嬉しい、編集友さんと戦友のような親近感に似た敬意を抱いております。編集友さんがブログ記事を40本選んで再構成した本というものが私の手元に届くかわかりません。でもでも、いま、編集友さんに、ありがとうございます。と言いたいのです。
私、1800本ほどあるらしいブログ記事(私は記事数はカウントしておりませんで、ただただ順番に読んだだけで)のなかでは、heartstrokeのリズムが好き。それから、最初の2年くらいに顕著だった、詩歌のリズムも心地よかった。へへ、あの頃の記事は少年が走り回るような音ですね。
きっと、編集友さんは「陽だまりに休む権利」を選んでくれたのではないかな。違うかな?私、泣いたよ、陽だまりに休む権利を読んで。
そう、だから編集友さんにはありがとうございます。を伝えておいてね。
そーのーうえで、出版社はクソなので出版やめちゃえよ。ありえないよ。編集友さんのことは棚上げすべきだよ。許されないよ。クラウドファンディングならお金少しだけど出すよ。納得いかない出版はよくないよ。ツイッターではみんな「出版してよ、読みたいよ」って言うだろうけど、そうじゃないよ。
これはIntegrityの問題だよ。
編集友さんと菊地信義さん。
出版おめでとうございます。出版されたとなれば購入して読みます。
編集友さんへの手紙
はじめまして、TWICEと申します。私は時折ガメさんブログにコメントを書いておりまして、何より仕事でもないのにブログ1800本超をすべて読んだ者です。編集友さんのことは全く存じ上げず、ガメさんのTwitter世界に生息する架空の生き物なのかもしれませんが、本を手にして、編集友さんが実在することに喜びを感じ、その旨お伝えしたいとこのコメントを書いています。そう、これはガメさんではなく、あなたへ向けたお手紙として書きます。ガメさんは読者からの反応がたくさんあってhappyなご様子なので、この際ほっときゃ良いでしょう。署名なき編集者であるあなたも主役であることを私は知っているのです。
自己紹介に替えて、私が編集者としてガメさんブログの概観図を本にするとしたらどのような目次構成にしただろうかと考えました。
1章は時間を取り戻すことについて。靴紐を結び直す時間はTake your time。反サバイバル講座。陽だまりに休む権利。
2章はうつ病について。ケイトスペードとBe kind. の話。再び、汚れた髪について。セミコロン。
3章は手は差し伸べるためにあることについて。BK。寒い空。ふたりの車夫。A girl can do anything.
4章は戦後日本の社会構造について。具体的なブログ記事タイトルを思い出せないのですが、産業政策について。最後に、貧乏の足音。
5章は日本語について。タイトルは覚束ないのですが、80年代以降のウケ狙いコピーライター語と化した日本語より以前にガメさんが好きだという日本語が存在したことについて。
6章は声のする方向に行けばいいんだねについて。シャーリーズ・セロンの場合。アスペルガー人とゲーマーズ。とても単純だが言葉によっては説明できない理由。ラットレースから抜け出す。
あとがき。
出版された本では、汚れた髪の直後に陽だまりがあって、それもそうかとなり、上述のように私は陽だまりをかなり全体主義と個人の話として読んでいたのだろうかと気づきました。
3章では、手を差し伸べるためには、善意とintegrityを持つこと。手の差し伸べ方にはいろいろあること。通りに出ることは、善意からくること。鏡像として、日本には善意はあるのかということ。
4章と5章が一見別のようで繋がった問題だということ。
ここまでがTWICEの自己紹介です。
さて、編集友さんへのお手紙として、出版された本について感想をお伝えします。
目次構成で3章と4章がぬわーーーってなりました。私にはこのように組めません。17歳をここに置くのですね。
1, 2, 5章は私の興味も強かったのでしょう。そうそうこれこれと思いながら読みました。3と4章はいまもう一度読んだのですが、ほーーとまたお茶をすするような思いでいます。
なにより日本語に興味が出てきました。不思議ですね。母国語ではあるのですが、読めてなかった日本語がたくさんあって、日本語で読む人がいて、知らなかったことが増えました。
私は詩を読めないことを自覚しました。ガメさんが数学と詩は読むのに高みにのぼる必要があると言ったような記憶がありますが、詩を読む、より広範なテキスト、日本語を読むということについて考える他ありません。
この3と4章は何度も読みます。10年後も読んでいるでしょう。
編集友さんへ。
こんなにも楽しませてくれてありがとうございます。プロの編集者が本をつくるということをリアルタイムで垣間見たようで、じわあじわあと喜びを感じております。
もしかしたら、このガメさんの本を読んで、自分の日本語を取り戻すことになるのかもしれません。
あなたの日本語にも出会う日が近いと嬉しいです。
あなたの幸福を願っています。
でわ。
TWICE