象眠舎・小西遼さんへの手紙

 

ひさしぶりに遼さんの手紙が届いたので、おおお、今年はいいことがあるかな、と喜びました。

この前は年末に象眠舎プロジェクトのビデオリンクを送ってもらったときだったかしら?

読んでみたら

『「いい音楽」と「消費物の音楽」については僕も最近ずっと悩んでいます。僕はきっと意味のある、大事な音楽を作ってみたいと悩みながら作っています。』

と書いてあったので、遼さんみたいに才能がある人でも悩むのかあ、と驚いてしまったが、考えてみると、ぼくが滅多に悩まないのは才能がないからなので、ちゃんと符丁があっている。

素人であることのよさは、あっと驚くような大胆なバカなことを自覚もなしに言えることで、遼さんは普段音楽人しか会わないので、少し、そういうところから離れて、ゲゲゲな方へでかけて、一緒に「消費物の音楽」を訪問してはどうだろう、と考えました。

60年代の日本語記事を読んでいて、びっくりするのはポール・マッカートニーの「Yesterday」がほとんど神格化されていることです。

「モーツアルトの小曲より、ずっと素晴らしい」なんてのはunderstatementなほうで、恥ずかしくて、ちょっとここに書く気にならないような絶賛がつらなっている。

あの曲は、固より、1600以上のカバーがある曲で、多分、世界でいちばんカバーが録音された曲だとおもいますが、ではあれが、最高の「いい音楽」かというと、そんなことはない、とおもう。

ぼくの頭のなかでは失礼なことに「すごくうまくいっちゃった流行り歌」なのですよね。

英語人でも歌詞を聴かないで曲だけ聴いている人は、たくさんいるが、彼らに幸いあれ、歌詞を聴いてしまうと、ちょっと困る歌でもあって、

Yesterday
All my troubles seemed so far away
Now it looks as though they’re here to stay
Oh, I believe in yesterday
Suddenly
I’m not half the man I used to be
There’s a shadow hanging over me
Oh, yesterday came suddenly

って言われたって、なに言ってんだか、さっぱりわからない、というか、
チョーひどい言い方をすると「バスタブにつかって、いい調子をこいているだけなのではないか」という気までしてくる。

ビートルズの曲は、いちど何ページも使って歌詞をベタボメしている日本の作家の人がいて、へえ、とおもったけれども、一般に歌詞がダメで、
初期は鼻歌の曲、後期は、例えばヘルタースケルターというイギリス英語ではただの螺旋滑り台の呼称にすぎない単語を題名にした曲をリチャード・マンソンが語感から誤解して、曲全体をサブリミナルなメッセージだと考えて、妊娠8ヶ月だった女優シャロン・テートをお腹の子供もろともナイフで16箇所を刺して惨殺した事件に典型的にあらわれているように、わざと曖昧にして、あるいはときには曲間に意味ありげな、それでいてほんとうはまったく意味をなさない呟きをいれたりして、ひたすらファンを惑わせて自分たちを神秘化することに言語を使ったせいで、いま聴いても、到底、歌詞とは言えない「ただのおもわせぶりな言葉の列」になっている。

遼さんの「流行り歌の魅力はどこから来るのか?」という悩みは、多分、流行り歌のひとを惹きつける力が、そのときどきの社会の光の反射で出来ているせいで見えにくいのではないかとおもいます。

なんだか笑い話のようだけれども、70年代や80年代のイギリス社会は自己解決能力がゼロに近い社会で、すべては曖昧模糊のなかに投げ込まれ、なにごとも、こうともとれるああともとれる、いやだって、これだって、こっちから観ればこんなふうに見えるではないですか、で、それこそほんとうにヘルタースケルターで、現実のヘルタースケルターと異なるのは、着地しうる地面がなくて、どこまでもどこまでぐるぐると、ゆっくりと下降してゆく社会だった。

曲をつくるがわの役割が「消費物の音楽」は「いい音楽」に較べると小さいので、いま遼さんが、よく作っているような質が高い「いい音楽」が「消費物の音楽」としては劣作でしかないことは現にありえても、それは音楽自体の問題であるよりは、社会の受容するがわの問題だとおもいます。

言い換えると、いい音楽が消費物としての音楽としてもすぐれている、という曲にとって幸福な状態は、まず社会の側の文明度が高いという必要条件が前提で、そこに良い音楽という十分条件が加わって、必要十分的に「音楽としてもすぐれた流行り歌」が出来るのだとおもう。

なんだか鹿爪らしい、じーさんの説教のような口調になってしまった(^^;)

ぼくは、このごろ、どんな曲を聴いているというと、Hatik

 

 

 

たちのような中東移民の生活を背景にした歌や、

英語とスペイン語の文化的な核融合が起きていることを背景としたLauren Jaurequiたちの歌をよく聴いています

大ヒットになっているBillie EilishとRosalíaの、Billie Eilishがスペイン語で歌っていることで話題になっているLo Vas A Olvidarも、これに含めていいとおもっている

遼さんが、それこそ、よく知っているように、マンハッタンには、まるでお互いには不可視のふたつの町が共存するようにして、英語のマンハッタンとスペイン語のマンハッタンがあって、スペイン語のマンハッタンのほうが、ずっと快適で、親切で、善意に満ちた、暮らしやすい町なのですよね。

英語とスペイン語が混淆した歌詞の曲が増えたのは、トランプ大統領以来顕著になった、そういう社会の潮流を反映している。

同じように、特に裕福な家でなくても、週末には学校のホッケーやフットボールの交流試合でフランスに出かけていたイギリスの子供たちが、おおきくなって、特にかまえなくても週末の夜更けのロンドンの下町でフランス語を話したりしている現実が、Dua LipaとAngèleの、例の大ヒット曲、
Feverには反映されているとおもいます。

 

(ところで、あの曲のプロモーション・ビデオのなかで玄関から飛び出してきて女の人がShut the fuck up!とDua Lipaたちを怒鳴りつけるシーンは演出ではなくて現実の「録画事故」だったというので、笑ってしまった)

 

あと、これはなんでだか、なぜ好きなのか、さっぱり判らない人なんだけど、Paulo Londraも、相も変わらず、チョーよく聴いている

 

こうやって書いていて、いまのいま、頭のなかで、ぐるぐるまわって鳴っている、こういう曲たちは、もう3ヶ月もして遼さんが、「ガメさん、いま、なに聴いているの?」と訊いてみると、まるで異なる名前が帰ってくるのは判っています。

音楽としては「いい音楽」のほうが価値が高いのに思考や感情に対しては「消費される音楽」のほうが遙かに影響力がつよい。

その不思議さ。

いつか、遼さんと、ゆっくり話し合えたらいいなあ、と心からおもっています。

では

 

 



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