不二

 

こんなところから見えるのかと、びっくりしたことがある。
いまは名前が変わったらしいが、長野自動車道の小諸のインターチェンジで、広尾山の家を出て、軽井沢の夏の家に移動するのに、いったん小諸まで足をのばして、贔屓の蕎麦屋で、天盛りを食べて、と策略して小諸へ出た午後のことです。

あとで調べてみると、小諸から富士山は、頭のなかの印象と異なって、意外と近くで、110kmほどで、それならば東京からの距離とそれほど変わらないので、小さな小さな富士山が見えたことは、そんなに不思議なことではない。

富士山頂の測候所をつくったときに、東京の気象庁から富士山頂がみえるかどうかがデータ伝播の要で、あいだにホテルニューオータニの高層ビルが立つ計画が判明してパニクったとかなんとか、有名な話をおもいだすまでもなく、100kmならば、距離をものともせず、富士山の山容は望見されることになっている。

ものごとは、正直に答えることにしていて、小さいときからの習慣になっている。

富士山と桜は難物で、「富士山は好きですか?」「桜は好きですか?」と訊かれるたびに、相手の気持ちを考えてヒヤヒヤした。

どちらも、好きから嫌いか、いったいどっちなんだ、と訊かれれば「好き」なほうに入るが、それほどの特別な称賛の気持ちはなくて、桜なども、空をおおうほどの桜の森で、花びらが乱舞しているような光景に出会えば、「ちょっといいな」とおもうが、正直にのべて、プタカワやマグノリアの満開の美しさと較べて、ひどい言い方をすれば、まあ、ふつう、としか言いようがない。

富士山も、実をもうせば、というような古い言い方は、いつ使ってもカッコイイとおもって痺れるが、もうせば、浅間山の山容のほうがずっと好きで、いちどだけ、深夜に富士急ハイランドに近いホテルに到着して、「あれ?ここは富士山が近いはずなのに、見えないね」と不思議におもって、周りを見渡して、ふと、誰かに見られているような気がして、後ろを振り返ったら、巨大な、黒々とした、怪物じみた山がこちらを見下ろしていて、巨大な山塊というものがもつ特有の迫力を感じて、富士山を尊敬した。

鎌倉山の、左に行けば林間病院にいたるY字路を右に折れると、七里ヶ浜におりる富士見坂にでる山間の小道があるが、ここの雑木林のすきまから、やはり夜更け、皓皓と照らす月の光に浮かぶ、小さな富士山がみえたことがあって、この富士山も美しいと感じた。

西田幾多郎は、由比ガ浜から稲村ヶ崎、七里ヶ浜をとおって腰越につづく海岸の道を散歩するのが好きで、それを理由に鎌倉に住んでいたというが、歩いてみればわかって、あの道を夕方に歩いて見える富士山は、空気の屈曲のせいで、実際よりも遙かにおおきく見えます。

もちろん日にもよるが、ときに、茜色に染まった富士山が、巨大な姿で聳えていることもあって、なるほど哲学者は、これが好きだったのか、と納得したことがある。

もっと日常に愛好していた富士山は、逗子の、いまはカラオケスナックだかなんだかになってしまった、「売り上げ日本一」のデニーズの、海に面したテラスから、相模湾越しに見える富士山で、江ノ島の向こうに見える、ちいさなちいさな富士山は、鎌倉ばーちゃんの家に泊まれば、必ずでかけて、メニューもレシピもおなじであるはずなのに、なぜか他のデニーズの数倍もおいしく感じられる朝ご飯を、幸福な気持ちにひたりながら食べた。

なんだ、そんなに好きでもなかったといいながら、結局、好きだったんじゃないか、と言われそうだが、富士山という山は、日本語がわかると、現実の山なのか日本語世界のシンボルなのか、どっちかわからないところがあるんですよ。

その頃、日本にいた外国人友は、ひとり残らずと言いたくなるほど、みんな、いちどは富士山登頂にでかけていたが、わしはいちども出かけたことがない。

そもそも歩くのは平らなところだけにする、という家訓にしたがっているのだとも言えるが、なんだか宗教儀式への参加のようで、抵抗する気持ちもあるようです。

フジはニッポンいちの山、というが、高さでいえば、ながいあいだ日本では二番目の山だった。

日本のアメリカに対する開戦の決意を現地部隊に通達した「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の「新高山」は台湾を征服した明治天皇が付けた名前で、ほんとうの名前は玉山といって、標高3978m、日本が軍事国家として、ぶいぶい言わせていたころは日本でいちばん高い山だった。

台湾生まれの日本人たちを描いた傑作ドキュメンタリ「湾生回家」を見ると、差別は抜き難くあったものの、他の土地での苛酷を極めた、どころか無法支配に近かった日本の海外領土/植民地と異なって、台湾での帝国支配はゆるやかで、台湾人を日本国民として遇したことが、いまの台湾の人の日本に対する柔らかい気持ちをつくっていることがよくわかる。

その源は、要するに新高山を日本国内と考えた、民政長官後藤新平に端を発する、日本がただひとつ成功した植民地経営であったことによるのでしょう。

むかしのアメリカ人が書いた本やフランス人が書いた本を読むと、
「日本は、フジヤマ、サクラ、ゲイシャのほかは何もない国だ」とひどいことが書いてある。

注釈を加えると、この「ゲイシャ」は日本の人がイメージする芸達者な芸妓とは少し異なって、要するに「売春婦」という意味です。

 

わしなどは、相変わらず、日本のことになると、やや「おセンチ」なところがあって、近代日本に衣替えして、あんなに頑張って、食うや食わずで、西洋に負けない軍隊をつくって、自分たちが一生をまるごと捧げる日本を輝かしい国にして、欧州人やアメリカ人に羨ましがられるのは無理でも、せめて、アジア諸国からは羨望の眼で見られたい一心で頑張ったのに、戦後になっても、あっさり「フジヤマ、サクラ、ゲイシャ」で、ほかには何もない、と言い捨てられるのをみると、他人事ながら憤りを感じるというか、なに言ってんだ、無知の輩は、これだから困るのだ、とおもって、日本文明の、歴史を通じての深い孤独をおもうが、富士山に登って、満開のソメイヨシノを見て、きらびやかなねーちゃんとイッパツやって、やあ日本を堪能してしまった、と上機嫌でズボンをずりあげながら故国へ帰る欧州人新聞記者の姿を考えると、笑われてしまうが、彼が歩み去った先にある、この世界の悲惨さ、ということを考えてしまう。

英語ではviciousという。
この世界の容赦のない無惨さは、このごろ一層ひどくなって、権勢と冨がなければ人間として扱ってもらえないところまで来ていて、さて、もしかしたら、自分が日本の文明に感じるempathyは、これが理由か、と考えることがある。

世界は日本に似てきているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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