いのちみじかし

 

1983年生まれだが、なあんとなく32歳くらいだと思い込んでいた。

そんなバカなことはありえない、という人がたくさんいそうです。

ところが、わしは投資家というアローナーな商売であって、むかしは
冷菜凍死家と称していたが、最近は、やや零細でなくなってきたので、やむをえず物理的なオフィスを持つ会社をつくっている。

そのうちに会計や不動産管理の都合から、いくつかの国にオフィスをつくらざるをえなくなった。

そうなると、一見、まともなひとみたいだが、あにはからんや、おとうとたまらんわ、社長であって、ガハハのおっちゃんカテゴリーだが、それにしても、プー太郎そのまま、履歴書なんて書いたこともなく、ひとに「おいくつですか?」と聞かれることもないので、32歳で不都合はなかった。

ところがですね。
このあいだ、ものの弾みで、1983に32を足してみてしまったのですね、頭のなかで。

1983+32=2015

あり?
足し算まちがえたかな?

1983+32=2015

今年は2021年なのに。

ぐおおおおおお!

人は中年男になるのではない。
中年男であることを発見するのだ。

なんちて。

到頭、井之頭五郎(←「孤独のグルメ」というドラマの主人公です)と同じ種族になってしまった。

ラーメンをズルズル音を立てて食べねば。
焼き肉をくっちゃくっちゃ言わせながら頬張らねば。

Shall I part my hair behind?   Do I dare to eat a peach?

うしろで髪をわけようか、桃を食ってみようか。(註)

ガビンガビンガビン伊藤ガビン

と衝撃をうけたものの、おもいあたることがなくもない。

ツイートさえしなければ、良い書き手であるとおもいます、と昔から言われている、そのツイッタを読んでいる人は先刻承知であるとおもわれるが、
Dua LipaとAngèleのFeverという流行り歌が好きであって、

現状、曲がヒットチャートに姿を顕してから4ヶ月が経っているが、
いまでも好きです。

ときどき、聴く。

前は、バランスシートを読んだりするときに、ときどきよりも、もっと頻繁に聴いていたので、歌詞もすっかりおぼえてしまって、

Peut-être qu’avec du temps, ça partira
Et pourtant, et pourtant, et pourtant, je ne m’y vois pas
Comme un médicament, moi, je suis rien sans toi
Et je sais que, je sais que jе perds du temps dans tes bras

などと口ずさんで、きゃああ、手ブラだって、などと喜んでいて、益体もない。

ところで、英語とフランス語で出来ているこの歌詞の途中で、

I’ve got a fever, so can you check?
Hand on my forehead, kiss my neck
And when you touch me, baby, I turn red
I’ve got a fever, so can you check?

というところが、あってですね。

わたし、熱があるみたい、診てくれない?
デコに手をあてて、首にキスをして

ちゅうところで、若い女の人の、noviceな性的欲望を
「か、かわいい。若い人はいいなあ」
とおもってしまったのですね。

若い人は、いいなあ。

そう思う人は、若くないに決まっているではないか。

おっちゃん、いいとしこいて、デュア・リパ聴いとったら、あかんでえ。

人間の一生は宇宙の一生に似ている、というか、本質的に人間も宇宙の部分で、生成の前のことがわからず、不可逆的に、一方向に生命が進行して、老いて、やがて病んで、死に至る。

あさって死ぬか、30年後に死ぬかは判らないが、昨日寝たときよりも、今朝起きた時のほうが老いているのは確実です。

そういういいかたをすれば、30歳をすぎれば、毎日、どんどん死んでいる。

そのうちDNAさんが転写に失敗して、「げっ、写し間違えてんじゃん」ということになって、癌になったりして、決定的に死んでしまう。

 

32歳でなくて37歳だとわかっていれば、トロルの可視化とか、日本語への最後の御奉公とかいって、のっけから頭が悪意で壊れたクソおやじたちなんて相手ににしなかったのになあ、とおもってもあとの祭り。

階段の途中で、ふり向いて、「もう、わたしには、そんなことをやっている時間はないんだ」と述べる「生きる」の志村喬ではないが、そろそろ、やっていることを整理して、自分にとって、より価値があるとおもわれるものの順番に並べて、優先順位をつけて、上から5%もやりとげることが出来るのかどうか。

日本語は、なにしろ愛しているので、優遇されるが、日本の社会のおかしなところを述べるヒマはないであろう。

英語でしか社会の話はするヒマなさそう。

モニさんと、あんないけないことをしたり、こんなひとに言えないことをしたりするのは順位も高いが、それ以外は知力が元手の作業にしぼらざるをえないのではなかろーか。

アフリカの子供たちの面倒を見ないわけにはいかないでしょう?
ハイチから眼を離したりはできない。

めざせエミリー・ブロンテ

めざせセルバンテス

めざせニュートン、は、いまさら、もう無理だが。

かんがえてみると、やりたいことが犇めきあっていてボーゼンとしてしまいますね

自分が都合良く70代くらいで死んだとして、死の床から、逆に、いま生きている時間を眺めると、人間の一生はいかにも須臾の間で、なにごとか形があるものを残すには短すぎることがよくわかる。

だからといって急げば、急いでいたあいだやったことは、やることなすこと、一見よく出来ていても、たいていは安普請に終わってしまうことは、人間は早い段階で学習する。

毒のある蛇は急がない、というでしょう?
自分のちからに自信があれば、かえって、ゆっくりと獲物を追及するものであることは、おおげさにいえば、宇宙の理であるようです。

黒澤明の「生きる」の主人公は、暗渠公園をつくることを自分が生きた証にしようと決心して、なしとげようとする。

わしは「なにごとかなしとげる」や「なにごとかを形にして残す」は考え方として苦手なようです。

時が満ちて、というが、どちらかというと、自分の一生のタイミングで生まれてくる潮目にあわせて、あますところなく時間とエネルギーを使えたときに満足を感じる。

それにしても、ほんとうに、もう、ほんのわずかしか時間が残っていないではないか、と考えて、抑えがたく早足になりそうな自分に、ダメダメ、もっとゆっくりいかないと、転ぶよ、どこにも着かないよ、と言い聞かせているところです。

 

註:上田保訳 アルフレッド・プルーフロックの恋歌

 

 



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