続ビンボ講座 その2 さよなら、ラットレース

 

マンハッタンには、さまざまな有名人が住んでいる。
例の、トランプタワーをおったてたトウモロコシ頭のおっちゃんも、そうですね。

ニューヨークは田舎者を惹きつける強力なマグネットのような町で、田んぼから這い出、会社を流れ、豊作を夢みてやってきた、高田渡の歌みたいなひとたちが、日夜、わたくし、まだニューヨークは3代目ざあますのよ、おほほほほ、な見せかけの暮らしを送っている。

なあに、だんな、わっしは、あの奥方、むかしから知ってやすがね、3代目じゃなくて、30年前にニュージーランドのケンブリッジってド田舎の町から流れて来たんでさあ。
ウォール街の足軽で稼ぎやしてね、槍働きでアパートを買って、なんだかずっとマンハッタンに住んでいるような具合でして、気立てはいいが、ただのイナカモンの小娘のなれのはてでさ。

まあ、みんな知らん顔をしてやっているんですよ。

ニューヨークはいろいろな結び付きで出来たコミュニティの町で、だいたい会話にでてくる属しているコミュニティを、さりげなく聴き取って、その人がどんな人か判断する。

毎年、盛大に大宴会をひらくロシアン・コミュニティのようなおおきなおおきなコミュニティもあれば、数人で集まって餃子を一緒につくって、代わる代わる詩を朗読する台湾の詩人のコミュニティのような、ちいさなコミュニティもあります。

そういうコミュニティの集まりのなかで、いろいろな名前が取り沙汰されて、少しずつ、ニューヨークという大都会のあちこちにAR風に名前が付いていく。

多少ともアートに興味がある人が出入りするコミュニティで、Vogel夫妻の名前を知らない人はいないでしょう。

 

あとでは、2008年だったか、Megumi Sasakiという日本の映画監督がHerb とDorothyのVogel夫妻の存在を聞きつけてドキュメンタリをとって、ニューヨークじゅうのひとびとどころか、英語世界全体、欧州にまで名前が知られてゆくようになったカップルです。

え?
ビンボ講座じゃないの?
ビンボから抜け出せると聞いたから読んでるのに、アートの話なの?
わたし、アートは嫌いなんですけど。
アートコーヒー、商社の経営に変わってから、おいしくないんだもの。

ダイジョブ、待ちなさい。
もらいが少ない乞食はあわてて転ぶ、というではないか。

言わないか。

この夫妻のアート・コレクションは、何十億円というようなのでは利かないくらいの価値を持っている。
どれも、みんな世間に注目されないときに、場末のギャラリーで、ためつすがめつして、ふたりで買ったものなのだけど。

Herbert Vogelは、高校を中退した郵便局の事務員で、Dorothy さんはシラキューズを出て、あとでデンバーから修士号をとった司書で、1990年に退職するまで、ずっとブルックリン図書館の司書という薄給が容易に想像出来る仕事をしていた人です。

夜の、ニューヨーク大学の社会人向け公開講座のアートクラスで知り合って、意気投合して結婚した、このふたりは、無論、投資として絵を買っていったわけではありません。
この絵、いいね。
無名の人だけど、なんだか気持ちのよい絵であるとおもう。
少し変わったところがあるしね、と言い合いながら、ちょっと値が張るから来週からは夕食をもうちょっと簡素にしよう、と笑って買ったような絵が全部を占めている。

でも、このカップルは、ビンボ人にとってはおおきなヒントになるというか、絵を、ちょっと下品だが投資と置き換えると、重要な示唆を与えてくれる。

まず第一にfrugalであること。

意外というかパッとしないというか、そんなんじゃハウトゥー本にしても全然売れないじゃない、というか、ラットレースから抜け出す、最良の、最も確実な道は、質素に暮らす、ということ。

言葉を変えると、オカネモチになるにはビンボでいるのがいちばん良いのです。

ライフスタイルの問題なのね。

厳然たる事実として、パリッとした服を着て、ちょークールなファッションの相手とデートをしたりするライフスタイルの人は、よっぽど運がよくなければ困窮のうちに一生を終える。

なあんとなく風景に溶けこんで、にじんで、消えてしまいそうな、やさしい服を着た人が富貴に向かって歩いている。

統計上も、おどろくべし、オカネモチのなかで圧倒的な数の多さを誇るのは
「本を読むビンボ人」なのです。

ふたつのパターンがある。

ひとつは、Herb &Dorothy Vogel夫妻のように自分が興味が持てる投資(←さっきも書いたように彼らにとっては投資では全くなかったが、ここではオカネの観点から見ている)をコツコツと積み上げて、冨を蓄積する行き方がある。

もうひとつ。

ヘンテコリンなニュージーランド在住のイギリス人が書いたブログのファンで、読み耽って、書いてあることはなんでもやってみようと決心した、やっぱり客観的には、この人も十分ヘンテコリンな人が、すっちゃったって別にいいやとおもってbitcoinを買ったら、ほんとうは決済手段として買って、チンプンカンプンなブロックチェーン理論を少しでも理解しようとして買っただけなのに、ある日、口座をのぞいたら億単位のオカネに化けていた。

こういう人は、このブログを昔から読んでいる人には何人もいたようで、どういうタイミングなのか、ここに来て、ガ、ガメ、オカネモチになってしまった、ぼくはどうすればいいの?
税金とか、すごいの?
税金が払えなくて、クビをくくらなければならなくなったら、どうしよう?

相談が、おおげさにいうと、相次いでいる。

青天の霹靂。

アブク銭、というやつですね。
宝くじであたった10億円、などもこれに相当する。

そんなの自分に関係ない、とおもうかもしれないが、人間の一生は長いので、意外のことにやありけむ、ひとりの一生に一回は起きることのようです。

ここでも、残念ながら、マジメに、忙しく会社員をやっている人には、こういうことは金輪際起きない強い傾向がある。

なんでだろう?と前に考えたことがあるが、多分、あれは「余剰時間」が関係しているのね。

時間がいっぱいある人は、要りもしない余計なことを考えて、ヘンテコなブログを読んで、ヘンテコなアイデアを持って、忙しい人なら考えない普及しだしたばかりの仮想通貨って、どんなんだ?と好奇心をもったりする。

忙しい人が省いて捨ててしまった「ムダ」のなかに、ブルーダイアモンドは眠っているのだと言われている。

貧乏暇なし、というが、ビンボはカネモチの始まりだが、暇も捨ててはビンボはビンボの始まりでしかない。

時間をつくらないと、ダメなんです。
extra moneyは、膨大なヒマのなかから生まれる。

なんでかって?
経験則だから、知りませんよ、理由なんて。

推測はできるけどね。

さよなら ラットレース

の実体はライフスタイルであることは、オカネがもう出来てしまった人は、振り返って、みんなが知っている。

ところで、おもしろいこともあって、誰でも知っているオマハのじーちゃん、Warren Buffetからガメ・オベールとかいう怪しいガイジンに騙されて買ったbitcoinが爆騰がりしてビビりまくっている、わしビンボ友たちまで、共通しているのは、どの人も、「本をたくさん読む人」であることです。

オカネがないのに、おもしろそうな本を書店でみつけると、後先を考えずに買ってしまう。

し、しまった、明日のお昼ご飯のオカネがない! と気付いても後の祭り、
月末の自分の部屋でお腹がすいたなあ、とおもいながら本をぱらぱらとめくっていると、いつのまにか本のおもしろさに熱中してしまう。

説明がつかなくはない。

テキストに対する感受性があって、というのはつまり言葉の感覚が醸成されて出来上がっていて、本をたくさん読む人は、どうしても自分の周りとは距離ができてしまう。
違和感があって、右に行きなさい、右に、と言われると、なんだか、われにもあらず、人は知らず、おもわず左に歩いて行ってしまう。

そうやって協調性がないから、きみのいままでの一生は、ずっと四面楚歌だったんでしょう。ざまあみろ。

いいんですよ、わたし、楚の歌が好きなんです。
自分のために歌ってるんじゃなくても、みんなわたしを抹殺するために集まっているんでも、それでもやっぱり、うっとりしてしまう。

で、ね。

神様は、そういうヘンテコリンな人が好きなのですよ。
みんなが右に向かって殺到しているときに、ひとりだけ左にふらふらと歩いてきてしまったきみが、ふと顔をあげると、褐色のローブを着た人が立っていて、よく来たね、と微笑んでいる。

ちいさな、どんぐりが入っていそうな袋を渡して、あとで開けてごらん、というので、家に帰って、ヒモを解いて、さかさまにして炬燵の上にあけてみると、bitcoinがコロリンと落ちてくるのさ。

余計なことを付け足しておくと、Herbert とDorothyのVogel夫妻とBuffetじーちゃんを初め、正統投資家には、いくつも興味深い共通点があるが、そのひとつは額面が増えているだけで、投資の結果、ゼロがいっぱい並ぶようになった資産を使わないという共通点があります。
じゃ、なんのための投資なの?
と言うなかれ。
投資はラットレースから離れて、人間らしく暮らすためのライフスタイルであって思想なのだと何度も述べたでしょう?

贅沢な生活というのは、実は、ラットレース思想のゴールにしかすぎない。
あのとき、右へ行ってしまった大集団の先頭を走っている、というだけのことで、シナジーでアントレプレナーでアグリーな起業家のひとびとは過労死という戦死で倒れた気の毒な一兵卒トヨタ社員と変わらない。

きみは、なんだか銀行口座に何億円もあるって、自分のことじゃないみたいな気がするものなんだなあ、それが判っただけでもいいか、と考えながら、ずっと見向きもされなかったのに、なぜか最近出版された「岩田宏 詩集成」を読んでいる。

むかしなら、ずいぶん逡巡したはずの4500円という本の価格を、見もせずに、きみはその本を買ったのね。
でも、いまのきみは、自分が価格をみないで本をレジにもっていったことにも気が付いていない。
払うときだって、あんまり書棚にあるわけではない本が見つかった嬉しさで、いくら支払ったのかも意識しなかった。

家に走るように帰って、もどかしい気持ちで本をとりだして、開いている。

西日のなかで
電話が鳴った
ぼくが出た あのひとの
声がきこえる それからぼくが
電話を切った ぼくとあのひとの
予定がつながった

という詩句で始まる「土曜の夜のあいびきの唄」で、
もう、のっけからやさしい気持ちになっている。

そのやさしい気持ちが由来する、きみの豊かな人間性こそが、いまの、
きみの冨の起源だと、気づきもしないで。

 

 

 

 

 

 

 

 



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1 reply

  1. 貧乏で本が好きだから、わしは大金持ちに違いないぞ。

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