続ビンボ講座 その3 クロノスとプルートス

 

ひまなやつだなあ、という。

褒めてもらっているのかとおもって喜んではいけないので、これは日本語世界では、冷笑されているんですね。

忙しいやつだなあ、ともいう。
ひまであると冷笑されるのだから、今度こそ称賛されているのかというと、これも冷笑されている。

なんだ、どっちでも冷笑するんじゃないか。
あんたは、それでも人間か。

日本に住んでみて、最もひどい、と観察されたのは、社会がほとんど無造作に個人から時間を収奪することで、本末転倒な会社になると、同僚や、わけても上司が帰るまで、もう本日の仕事は終わっているのに、遠慮をして家路につかずに待つ、という会社まである。

日本で会社に職を得ると一生の破滅につながる、おおきな理由のひとつで、出社するたびに毎日「懲役3時間」というような刑罰をくわえられているのと等価で、もし、これを読んでいるきみが、そういう職場にいるとしたら、悪い事は言わない、脇目もふらず、一目散に辞職すべきであるとおもわれる。

おとなに限らない。

かーちゃんシスターが、80年代後半の日本社会をみていて、いちばんぶっとんだのは、頑是無い子供が、学校から下校したあとに、また学校に行っていたことで、当時なら、台北では特に女のひとたちは昼と夜と、ふたつ仕事を掛け持ちするのは当たり前だったが、驚くべし、その台湾のひとびとが自分たちの一歩先を行っているとみなしていた日本の社会では、子供が学校をふたつ掛け持ちするのが当たり前のことだった。

なんで、そんなことになったのか、わしは、よく知らない。
最近、英語世界では「高校生に3時間以上の自宅での学習を強いるような宿題をだすのは人権の侵害であるとおもう」という保護者の意見が主流になっている。

なんでも人種差別のたねにするのね、というか。
だいたい子供が学校から帰ってまで3時間も勉強しなければならないような愚かなシステムに陥ったのはアジア系の子供が、バカのひとつおぼえみたいに勉強するからだ、ともいう。

インターネットのブラウジング1時間
宿題2時間

それ以上は、子供の頭をダメにする

オークランドの午後の渋滞は初めが3時で、これは下校する子供をクルマで親が拾いにくるからです。

なんど失敗しても学習しないジェームズ・Fというような人は、なぜか出かけるタイミングになる午後3時に、ガッコがある方向の道路に曲がって、曲がった途端に大渋滞に巻き込まれて、げげげげ、になる。

これを週3回は繰り返すのだから幸せな人です。

次は午後4時半から始まって、こっちは高速道路が主に渋滞になる。
帰宅ラッシュですね。
午後5時くらいになると、オークランドにも文明が到着したのだと思い知るべし、クルマでモーターウェイいっぱいに広がって、停止したりして、まるで三菱の工場から小牧ヶ原に零戦を運搬する牛車のような様相を呈する。

ここでも、なぜか午後3時くらいに校区のすごい渋滞を抜けて、ヨットの塗りかえの続きをやって、帰宅の途についた、ジェームズ・Fが、高速道路に乗った瞬間、げげげのげ、を毎週やっているが、仕方がない、もう放っておくしかないのでわ。

 

しかしですね。

考えてみるとオークランドのニュージーランド人は、かなり都会にかぶれてボロくなったが、まだ健全であるとも言えて、だって、子供は3時には家に帰るし、父親と母親も5時には帰ってくるので、忙しい生活になったとはいっても、のおんびりしたものです。

一家で、つれだって、あるいは父娘で、母息子で、午後の散歩にでかける。
あるいはボードゲームに打ち興じる。
冒頭の画像は、そういう午後の1枚で、よく見るとわかるが、原っぱを、父親が娘の自転車を一反もめんが紐になったような一反紐で牽引して、娘は、きゃっきゃっと喜んでいる。

時間ですよ、時間、
時間なんだよ、きみ!

とクロノスさんが息せき切って述べにくることには、いわれがある。
深い理由がある。

前にも書いたことがあるが、ラテン語を理解できるようになって、最もよいことは、時間が文字として記録されていることです。

ギリシャ語は、もっとよいのではないか、と想像するが、もとはフェニキア文字であったんだかなんだか、あのデザインが好きになれない。

なかなか始められない言い訳ですけどね。
老後の楽しみでよいのではないか。

ラテン語が公用語であったころの文章は、隣の犬がうるさい、という話から、神を頂点にいただく様々なエティカに至るまで、どう読んだって、流れる時間が現代とは異なるのです。

え?
それは、あんたがラテン語の劣等生だった名残では、だって?
うるさいな、きみ。
あれはね、あのハゲの教師と相性が悪かっただけなんだよ。

ひとには、それぞれ、事情があるのだと言われている。

俺のことならほっといて、と中村伸郎も述べている。

1時間にぎゅっと詰め込んだ意識と、8時間の箱に、ゆったりと広がった時間がおなじであるわけはない。

ひとによって異なるだろうが、困ったことに、現代の

睡眠8時間
労働8時間
個人の時間8時間

という配分は、人間にとっては、やや早回しで、あれは中国の若いひとたちが始めた習慣だが、2時間の映画を忙しいので2倍速で1時間で見てしまうと、「風立ちぬ」も「風ピュッ」になってしまって、全然異なる映画になってしまうのではないか。

社会が個人から時間を収奪するなんて、とんでもないことだが、日本やアメリカのような国では、これが堂々とおこなわれている。

アメリカ社会では、例えば過労死するのは起業家と決まっていて、自発的な意志による時間と成功のバーターという形をとっているが、本質的にはおなじことでも、日本の場合は、いったい、あれでどうやって自分を納得させているのか、と誰でもが訝るていたらくです。

時間給というのは、テキトーで悪魔的な雇用主のおもいつきで、おれの時間をおまえの持ち金で測るなよ、バーカ、という感じがする、そもそもシステムとして悪辣なシステムだが、日本より衣食にかかるコストが低いニュージーランドで法定の最低時間給が20ドルで、これは通貨として換算して1500円、実感で換算して2000円でしょう。

ところが、いつか見てみたら日本では時間給が1000円に満たない仕事まであるらしい。

ラットレースどころではない。
競走をはじめるまでに、ひもじくて死んでしまうのではないか。

わしは、日本社会を覆う慢性の宿痾、低賃金は、時間の価値の軽視から来ているとおもっています。

あんたの時間なんて二束三文にもなりゃしねえよ。
時間があったら、なにするの?
くだらないバラエティショーみて、げらげら笑ってるだけなんじゃないの?
きみの無価値な時間に、100円でも200円でも、きみが会社にいるあいだじゅう払わなければならない、おれの身にもなってくれ。

オカネが買える究極の価値は時間だが、それを日本の社会は認めてくれない。

では、どうするか。
どうやって、自分という存在そのものである、自分の時間を守ればいいのか。

 

さっき話に出てきたラテン語のひとびとは、どうやって時間を購入していたかというと、殆どの場合、ひらたく言ってしまえば「大家さん」です。
欧州では、いまも似たような生活の人はおおぜい存在する。
エリザベス女王なんちゅう人は、たとえばリージェントストリートをまるごと所有している。

あのお、わたし、持ち家がないんですけど、という、そこのきみ、ここからは、きみのために書きまする。

個人の経済上は、時間とオカネは、要するにおなじものです。
時間を売ってオカネに換金する。

義理叔父は時間を売る効率の極大化を求めて、学生のときは、医進予備校の講師のアルバイトをしていたそうです。
一日6時間、週4日、枯れてくる声、喉の痛みに耐えて100時間近く夏期講習で教えて、100万円だったというから、一時間1万円ですね。

時間+オカネの定規のようなものを思い浮かべて、まんなかのスライドを動かして調整するようなイメージを思いうかべるとよい。

むかしむかしにはスコットランド人が考案した計算尺というものがあったが、それを知っている人は、ちょうどよい、あのイメージ。

時間を減らして、オカネを増やして、ちょうどいいバランスを見つける。

そういうとりあえずの「その日暮らし」を構想するにあたって大事なことは、

1 将来まで続くような仕事には手をださない

2 有能であると重宝されるような罠に陥らない

3 絶対労働時間を6時間以上にしない

4 いつでも、でっかい声で、きっぱり「NO」を言えるように心の準備をし    ておく

 

だろうか。

そうしておいて、ここはけっこうたいへんではあるけれども、さっさと自分が得意なものを見つけて、そっちは初めはオカネに全然変わらなくてもいいから、それが中心になるようにライフスタイルをつくっていく。

人間の、最もたいへんな過渡期だが、こればかりは、仕方ないのではないだろうか。

そうやって暮らしていると、ときどき、明け方まで机の前に座り込んで、なんにも希望がないようにしか見えない自分の未来を見つめて、
暗然とした気持ちになって、われにもあらず涙ぐんでしまう時があります。
そういうときは、世界中で、おなじように不安におちいって涙ぐんでいる仲間たちのことを思うのが、最もよい。
自分はひとりぼっちだけど、ほんとうは、まだ会ったことがない友達がいっぱいいるのだと判るのではないか。

オカネは、どうしても必要だが、さして重要なものではない、という背反な性格をもっている。

要は、オカネに自分の時間を食い物にされないことですよ。

人間にとって時間は意識そのものなので、感情をおだやかにして、世界と距離をとることも必要であるとおもう。
職場でも家庭のなかでも、お節介な人間とは、あまり関わりにならないほうがいい。

「あなたのためをおもって」などという恐ろしいフレーズを聴いたら、家出になってもやむをえない、脱兎のごとく逃げ出さなければ危ない。

自分の時間というものは、他人に指1本さわれせられないくらい、大事なものです。

そのことを忘れないで。

またね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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1 reply

  1. > 80年代後半の日本社会をみていて、いちばんぶっとんだのは、頑是無い子供が、学校から下校したあとに、また学校に行っていた

    ああ、まさにそれ年代的にも小学校の頃のわたしのことです。
    とはいうものの、小学校ではだいたいわかってることしか先生は話さないので勉強にはならず、
    放課後学習塾に行って受験勉強をしていただけのこと。

    でも今から考えたら人生で一番机に向かっていた。どうしてかというと、今から思えば、こんな同級生と同じ学校にいてまた同じような時間を過ごすのが馬鹿らしかったためだと思われます。実際進学した中学は高校までの一貫校でのんびりとした6年を過ごせました。

    親からしてみればその後医者や弁護士、一流企業とかに努めて欲しかったようですが、まともな思考をしていれば、親と同じような世の中が続くはずがないことは自明だったので、そうはならず。僕はその時得た算数の力で今でも日本国外でプログラミングで食べています。

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