続ビンボ講座 その4 英語という出口

英語ができることが収入の増加につながる国、というのは年々減っているはずです。

かつてはシンガポールがそうだった。
マレーシアやインドがそうだった。

それが、どんどん「英語が話せる」のが普通になって、このごろでは、つい最近まで日本の人と並んで「多分、聴き取りにくい英語しか話してもらえないだろうな」という先入観があった韓国の人も、彼らから見た海外であう若い世代ならば、まず「普通の」英語を話せるものだと安心して会えるようになった。

したがって、韓国でも英語が話せることが高収入につながる、という事例は少なくなっているのではないか。

おなじく、どんどん準英語国化に向かって、素晴らしいスピードで動いていっているように見えるフィリピンの人に聞くと、理由は地球のオンライン化であるようで、その話をフィリピン人のナースから聞いたときは10年以上前だったので、いまはマイクロソフトが用済みにして紙屑箱に捨ててしまった観のあるskypeだったが、彼らはどんどんskypeを使って、あらゆる機会を逃さずに英語を話して、表現をまね、アクセントをまねて、わやわやわやと英語を身に付けていったもののようでした。

最後まで取り残されてしまったのが日本の人で、理由はあきらかで、英語をオベンキョーの対象ととらえ、わざわざ生きている英語を生身のまま解剖台の上で切り刻んで、血塗れのバラバラ屍体にしたあと、肉体パーツを並べ直して、はい、これが右前腕、これが左の大腿部、

あ、きみ、その部品を女性の身体につけちゃだめだよ、それはチンチンといって、男の肉体に特徴的なものです、というような手間がかかるだけでバカみたいなことをやって、あまつさえ、それを学生に教える教師までいた。

構文解析とかなんとか。

そんなことばかりやっているうちに、日本の人は英語教育を受ければ受けるほど英語能力が根本から破壊される、という不思議な国民になっていった。

田舎秀才には一徹なよいところがあるが、ダメなところもあって、
気楽にかまえることができないので、「知」が日常化されない。

順って、理のおもむくところ、自分が最も熱心に打ち込んでいる学問においてセンスがない。

センスもなにもないまま、ゴリゴリゴリ、ゴリ押しに押して、文句がつけようがないセンスゼロの完璧な論文を書き上げます。

勉強においてエネルギーを注いだものは、本人にとっては特権でなければ自分の努力がもったいないので、英語などは、この一種の知的吝嗇の好餌で、たかが言葉なのに、いつのまにか威儀をただした特権に頭のなかで変わっている。

英語が特権などといったら、いまどきの世界の若者はふきだすだろうが、現実は現実で、日本では生身の英語をぶち殺して並べ直す技術で食べている連続殺人鬼な教師までいる。

そうやって日本のひとびとが殺人にふけり、おおおおおー、心臓は内部では動脈に静脈血が流れるというわけか、英語は深いなどとバカなことを言っているあいだに、フィリピン人たちは、どんどん、「はあーい。わたしがJudyです。先週は東京のクラブ行ってきたよ。
東京はへんなやつも多いけど、クラブ最高だよ!

ゴーゴーゴー!

今度一緒に遊びに行けるといいね」

と浮かれて話すたびに英語が身についていく。

いま書いていて気が付いたが、日本の人が英語を出来ないおおきな理由のひとつは、新しい言語、というよりも新しいこと全般を身に付けるのに向いていない社会文化ということもあるのかもしれなくて、とにかく、ちょっとやってみて失敗しては学んでゆく、という人間にほとんど唯一の学習方法がとりにくい。

自分でもおもいだすと、なんであんなバカなことを言っちゃったんだろうというバカっぽいことを教師の質問に対して述べて、教室中から散々笑われる、という、おっそろしい悪夢的経験が、誰にでもあるというくらいの頻度で、身上に起きるらしい。

教室が15人くらいなら、よく考えてみると、生徒の少なさ自体が抑止力になりやすいが、義理叔父などは日本でも指折りの「名門校」の出身であるはずなのに、1クラスに50人という、とんでもない数だったそうで、それで全体主義的な残酷さを中学生たちが発揮しなければ、そっちのほうが不思議であるとおもう。

このへんで方針を定めよう。

英語に接する機会を増やす、とよく言うようだが、もっと話を簡明にわかりやすくするために「日本語に接する機会を減らす」と考えたほうがよさそうです。

 

新聞も、よく素晴らしい記事を書くヒゲヒゲスペイン語男岡田玄記者ごみんねだが、朝日新聞はやめて、香港のSouth China Morning Postであるとか、シンガポールのThe Straits Times、あ、いけね、日本にも、あれはまともな記事がおおいThe Japan Timesというのもありますね、なんなら、「知的なイギリス人」が、どのくらい現実を見ずに頭のなかで理屈をこねくりまわすバカ揃いか知りたければ、The Guardianでも構わないのではないか、とにかくニュースは日本語で読むのはやめよう、とおもえばいい。

ちょうど昨日、近所のおばちゃんと、北米のアジア系人差別の酷さについて話していて、談はたまたままたまた言語に及んで「なぜレッドネック(←差別的で心が偏狭な白いイナカッペのことです)は、外国人の英語が聞きとれないか」というわし疑問に、おばちゃんは、「あれは、そもそもアジア人などに興味がないからであるとおもう」と卓見を述べていた。

アジアの人の顔を見た途端に好奇心も興味も消滅するので、もうそこから先はなにも聞いてない。

ミン・ジン・リーさんという人は、素晴らしい声で美しい英語を話す人だが、おなじように話す東アジア人はたくさんいても、「なんども聞き返された」経験がある人がおおぜいいて、ずっと不思議におもっていたが、おばちゃん理論によって、解明されてしまったと言っても可なり。

そこで、ふと考えたが、日本の人は、もしかしたら日本語世界以外のことに興味をもっていないのかも知れません。

その場合は、なにを試みたって、結果は、S+V+Cなはずで、バラバラ屍体で、なにをかいわんや、お手上げになるしかないので、まず世界に興味をもつ、ということから自分を訓練、というか脱洗脳するしかない。

洗脳はたいていの場合テレビ番組から来ているようなので、テレビを5階の窓から投げ捨てるしかない。

捨てる前に、下にひとが歩いてないかどうか確かめてね。

80年代の香港人は高層階の窓から生ゴミをどっちゃり窓から捨てていたが、なかなか良心的であって、商店街の屋根がある通りに面している窓でしかやらなかった。

窓から壊れたラジオをぶん投げるニューヨーク人より遙かに文明的です。

「例文があって日本語で解説がある」スタイルはダメだとおもう。

いちど、酔っ払ってロシア語の教本を買ってきて、家で開いてみたら、日本語ばっかり書いてあって、あきれてしまったことがある。

酔っ払いの頭で日本は昔からロシアと特別な関係があるので、もしかして、すごいアイデアでロシア語を教えているのではないか、けっけっけ、日本語とロシア語と両方学べて一挙両得一石二鳥と考えたわしがバカであった。

付録のCDまでほとんど日本語で、いま考えてもカネカヤセと考えます。

わしは日本語もほかの言語も、ほとんど個人教授でおぼえた。
それもかーちゃんの考えで、大学の教授であったり、一流の研究者/通訳であったりして、たいへんよかったが、イタリア語やなんかは面白がって10人程度のクラスに出たこともあって、初心者のクラスだったが、英語で説明してくれたのは一日目だけで、二日目からは殆どイタリア語でした。

判らなくても、まさか怒りはしないが、このローマ人の女の先生がこわい人で、なにしろ、わからなくて、あれ?あれ?とおもっていると、みるみるうちに機嫌が悪くなってゆく。

しかも口には出さないが、おまえはこのわたしのイタリア語はわからんと申すか、という勢いです。

いや、そうでなくてわたしにとってはイタリア語そのものが….と言い出せる雰囲気では到底ありません。

そうこうして、七転八倒しているうちに四日目くらいには、広場から、どうやったら博物館に行けるか道順を説明できるようになって、そのくらいになると初めて文法の必要性が理解されて、2週間目には文法書を、ぐわああああ、とおもいながら最後まで読み終えることになった。

ところで、あとで振り返って面白かったのは、なにしろ動転して、パニクっているので、無我夢中で、その2週間、英語に接した記憶がない。

そんなはずはなくて、通りで、家のなかで、いつものように英語を使ったはずなのだけれども、印象としてはイタリア語だけにしか触れていなかったように印象されている。

おお、だから。

「日本語を減らす」のが良いのではないかとおもうのです。

ついでにいえば、zoomでもTeams でも「英語と話したい人は、わしと話そう」という奇特な英語人はたくさんいます。

オンラインで、検索してみればいいだけね。

誰かが、むかし、skype講座は安いと述べていたが、自分でみたかぎりでは、オカネを払う必要があるともおもえません。

Fortniteでもいい、War Thunderでもかまわない、テキストチャットやボイスチャットで、「えええい、くらえ30mm。死ね。死ね死ね死ね。あっ、やばい? ぎゃあああああー!!」というような自然な英語を先におぼえるのもよいのではなかろうか。

言えますか?
英語で。

はい、ご一緒に
ぎゃあああああああああー。

そうやってジタバタしてるうちに、あっというまに「自然な英語」なんて身につきますよ。

思うに(←かっこいい日本語)、文法だの和訳だの構文解析だのは、アクセス可能な情報量が極端に少なかった20世紀末くらいまでの状況から生まれた、なけなしの、ビンボ臭い方法であって、英語もなにも、ドバッとオンライン上にあふれているいまの環境では、過去の遺物なのではないか。

玄人でも素人でも、英語研究者になってブンセキしたければすればいいんだけどね。

残念ながら、そういうケンキュウは相対的に価値がさがっていそうです。

英語が身についたら、英語という(日本語社会では)特殊技能を身に付けたひとの目で、新たに日本の求職を見渡すと、だいぶんオカネについての風景が異なってみえるはずです。

ひとつだけ余計なことを述べると、英語が身についても教育そのものに情熱があるのでなければ、教師はやめたほうがよい。

教える者の立場から見る言語は教える者自身を助けてくれないからで、これは、事情が言語に限らないことでもあり、また、ややこしいので、ここでは書かないが、たとえば英語社会の会社で日本に出張ってきている、というような職場のほうがよさそうです。

なにより英語が「判る」のではなく身の一部になってしまえば、最もよいのは「日本語の呪い」とでも呼びたくなる思考や感情の癖が洗い流せるmindの状態になるところで、あ、あれ?世界って、こんなところだったのか、知らなかった、

もっと厳しい、つらい場所だとおもっていたのに、と十人が十人ともにぶっくらこいてしまうのを、わしは見てきた。

息がしやすい、というか、ビンボですら、一直線上の経済競争に落伍した結果ではなくて自分の考えと好尚による選択なので、そうか、そういうことだったのか、と人間の一生の「ありのままの形」とでもいうべきものが見えてきて、日本語人にとって、安心立命に、これほど良いことはない。

それなのに折角の英語を日本語に変換して理解するなんて、はっきり言ってしまえば愚の骨頂なのですよ。

英語、やってみると、いいですよ。
日本で定着しているヘンテコリンなやりかたじゃダメだけど。

英語の世界の風景に、ずんずん入っていって、きみが、ふと振り返ると、なんだかやさしい感じがする世界が、片隅にひっそりとうずくまっている。

ああ、あれが、日本語なんだ。
あんなに苦しい嫌な世界だとおもっていたのに、なんだか、心細げな、切ない世界だったんだなあ、と

きみがおもうまで。

 

 

 

 

 



Categories: 記事

1 reply

  1. 読ませていただきました。
    私は、成人式や入社式とかでよく使われる「社会人として」という決まり文句が苦手です、
    もちろん大事な部分も在りますが、それ以上に薄気味悪くて堪らない。
    そして今回の記事で日本の社会で使われる「社会人として」を纏っている限りは
    ビンボーからは逃げられないんだなと確認しました。

    「社会人として」の土台になっているはずの教育が、歪になっているのに改められないでいる。
    英語教育の酷さは顕著に表れているところで判り易いです、同じ方法論でやっているので
    他の教科も散々です。だから国語も良い筈がない。 「知」の日常化が成されない。

     色々と動き出すには少し年寄りな私ですが、もう少し英語を頑張って見ます。
    英語という出口、本当の日本語への入り口、やさしい故郷へ帰り着けるように。
    いつも楽しい記事、有難うございます。

Leave a Reply

%d bloggers like this: