友情と恋と

 

友達なんて、いないほうがいいんじゃない?

と言うとギョッとしたような顔をしている。
こちらは単純に「最もほんとうらしいとおもわれる」ことを、そのままの形で述べる、というネオ写実主義に従って、観察したことを述べているだけだが、言語に拠らず、言われた側は過激思想と受け取っているように見えます。

ブログでもtwitterでも繰り返し繰り返しのべているので目にした人も大いに違いないが、なんど、どう考えても、上から見たり、左から見たり、斜め上方から見たり、下から見ると、場合によっては盗撮容疑でつかまるかもしれないが、ともかく、くるりんと、あらゆる角度から見て、友達も、もっといえば恋人も、いなければ、それに越したことはない。

では自分には友達はいないのか、というと、いっぱい、います。
話がおかしいではないか、ときみは言うであろう。

しかし、ここでも写実主義に従っているにしか過ぎないので、友達は「出来てしまう」もので友達をつくろうとしてはいけないのだと言い直せばいいのかも知れません。

わしにはいま、たまたま友達がたくさん生じてしまったのであって、もう数年もすれば、またモニだけが友達で、いったいあの友達で過飽和な状態はなんだったんだ、ということになっているのではないか。

 

最近、卓抜な言語能力をもった、しかも日本の人には珍しいunderstatementで、端的にいえば「言うことよりもやっていることのほうが常に上廻っている」友達/知己がインターネットを通じて立て続けに出来たが、そのうちのひとりが、年長友と呼ぶには、やや畏れ多い、巖谷國士、という人で、別の記事で、必ず、文学史上の十分には評価されていない巨人として紹介するとおもっていますが、この年長の新しい知己が、ずいぶん「出会い」に恵まれている。

なにしろ「100%シュルレアリスト」瀧口修造の年若い友人であったことだけでも、ぶっくらこいちまうのに、母方の叔父さんである吉村二三生を通じて「Sexual Politcs」のケイト・ミレットとまで面識がある。

このひとなどは、みずから積極的にすぐれた才能を持つ人を探し歩き、まるで才能の狩りをするように貪欲に友情を追求してきたように見えるが、注釈の仕事をみればすぐにわかる、誠実な無私の人柄で、どういえばいいか、出会いの場をつくるには積極的で貪欲だが、人間との付き合いにおいては受動的で、言いたいことの半分も言わないで過ごしてきた人のようで、そうした「抑制の利いた積極性」とでもいうべきものが、友達の多い半生に豊穣をもたらしたのだと思えます。

もちろん、巖谷國士さんのようなひともいる。

しかしですね。

巖谷さんが築き上げた友達のネットワークは、最も似ているものを探せば、欧州の上流階級のサロンです。

サロンの条件は知的なdecencyであって、第一、ビンボ講座を書き継いでいる一方で、サロンのつくりかたを述べていても、なんだか仕方がないような気がする。

きみやぼくは「ひとりでできるもん」の方角を目指すべきである。

英語世界で特におおいのはGirls Clubなどと呼称して、60代や70代の「Girls」が一緒に観劇に行ったり、ティーパーティを開いて交友をあたためる。

男のほうも似たようなことをやりますね。

媒介が紅茶とケーキの代わりにエールであったり、ボーティングであったり、ヨットであったりするだけの違いで似たよーなもんだ、と言える。

しかし、これは友達であるよりも自分の葬式に参列してくれる人間を確保しているのだ、とよく連合王国人が述べるとおりで、つまりは「体面」の一部にしかすぎない。

keeping up appearancesというが、連合王国人の頭の大半を占めているのがこれで、日本の人にも似たところがあると観察される。

弾みで、出来心が重なって、おもわずしらず友達が出来てしまったら、どうすればよいのか、というのは重大な問題だが、正解は「なにもしない」であるようです。

え?
それでは折角できた友達が離れていってしまいますよね?
と、きみは言うが、離れていってしまう友達は、黙って背中を見送ればいい、と、わしは述べている。

愛惜をこめて、友達でいてくれてありがとう、と心のなかで述べて。

なぜかって?

人間の一生は、正直にすごそうと思えば、そういうものだからですよ。

いつのまにか友達が出来て、いつのまにか友達が去ってゆく。
いつのまにか恋に落ちて、いつのまにか恋は消える。

きみだけが、ひとりで、時間の稜線を、砂に足跡を残すひとのようにして、いつかはやってくる死に向かって歩いている。

あるときは、いつのまにか現れた人と肩を並べて歩いて、時に笑い声をあげて、時に肩を抱き合って泣く。

ところが、その人も、いつのまにかいなくなって、辺りを見渡しても、影もない。

しかも「よりよい死」は常に孤独なものだと決まっている。
よりよく死ななくてもいいから、せめて、おれは愛する人の腕に抱かれて死にたいという場合もあるけれども、死の恐怖をじっくり見極めるには、予定表が組める「お得な死」である癌かなにかにかかって、じっくり、ひとりで死ぬに限る。

なぜそうなのかは、言語の機能が内的な省察に機能がいちじるしく偏っていて伝達機能が貧弱である、ということと関係がありそうです。

意識の実体は言葉で、言葉は自己の実体であって、人間の動物的な認識と感情以外の「自己」は言葉で出来ている。

だから、自分にとっての、終生変わらぬ最高の友人である自分自身だけが不変の友情を独占して、他のことは外界にすぎなくなってゆくのでしょう。

友情が最も安定する基本数のようなものを考えると、北海文明は「1」で、ひとりで自分自身を友としているときが安定している。
インドのひとびと、特に男のひとびとは、これが「3」で、つまり3人でいるときに最も安定しているように見えることがイギリスやニュージーランドの白い人のパブ噺の肴としてよく話される。

日本の人は「2」なのか、黒澤明が描くように、案外と「10」というような数なのか。

いずれにしろ友達などは必要不可欠どころか、逆で、サバイバルという観点からみればマイナスにしかならない。
恋人もおなじで、恋人が出来なければ、感情も思考も、常に清明で、無明の闇から起きてから寝るまで自由である爽快な一日を過ごせる。

ではなぜ人間がこれほど友情や恋に惹かれて、時に盲目になるかといえば、どちらも愚かな感情だからであるとおもわれる。

人間にとって愚かさと自己破壊の衝動は最高の知性の爆発的表現であるのは言うまでもない。

きっと、その理由は真実を希求する魂が、宇宙にとどいて、宇宙の
実相が魂に反映するからなのであるとおもいます。

そのとき、人間は生きる努力を停止して、宇宙に身を委ねている。
神に選ばれて破滅する幸福に陶然となる。

死が、ふたりを分かつまで。



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