わがままの効用について

さっきから、およそ30分。目の前のメルセデスSクラスの後ろ姿を見ている。

フィゲレスから国境を越える狭い山越えの道です。

ダッシュボードの速度計は15km/hを示している。

ずううううっっと、のろのろ走っている。

結局、景色が左側に開けていたあいだじゅう、のろのろのろと走っていって、そのあと、おもむろにスピードを上げて、去って行きました。

クラクションなんて鳴らしませんよ。
スペインやフランスじゃ、ふつーだもん。

前にバルセロナで地下駐車場の出口をいっぱいに塞いでランドクルーザーを「駐車」していなくなってしまった女の人のことを書いたことがある。
どの記事か忘れてしまったが、お話しとしてキョーレツなので、憶えているひとも多いようです。

あの記事を読んだだけでは判らないが、あのちっこい、駐車場から出たかった大男を怒鳴りつけていた女の人は、取り立てて特別というわけではなくて、スペインの、そこにもいるここにもいる、あっ、あんな天井の隅っこにも! というくらいありふれた存在で、そのくらいのわがままでいちいち動じていては、正常な日常生活が送れないのだと言われている。

わがままグランプリの決勝進出に出てくる常連は、スペイン、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、連合王国などであって、ニュージーランド人も十分わがままです。

クルマで流れに乗って、すいいいいぃぃーと走っている。
「流れに乗って」といっても、日本の人肌のぬくもりが感じられそうな、ぺったりくっついた車間距離とは異なって、ニュージーランドではクルマ2台分くらいあいている。

わしはニュージーランドにいると自動的に南島仕様の車間距離になるので、さらに広くて、クルマ4台分くらいあいている。

すると、そこに、縦列駐車していたクルマが突然、ぐわっと飛び出してくる!

インディケーター、日本語だとウインカーのほうが普通だっけ、忘れちゃったけど、方向指示器、かな? ともかく「右にでるよー」なサインなどなにもなくて、唐突に、ぐわっと出てくる。

バンッとブレーキを踏んでかろうじて衝突をまぬがれる、わし。
すると、飛び出してきたクルマの女の人がドア窓をするすると開けて、
「止まれよ、ばあーか!」と叫んでいる。

助手席(←なんで「助手」なんだろう?)に座っていたモニが、あまりのことにボーゼンとしています。

年中あるんですねえ、こういうことが。

ニュージーランド。

フレンドリーなキィウィの国。

日本語を読んでいると、「自由とわがままの区別もつかないバカ」と、よく書いてある。

出くわすたびに、「く、区別があったのか」と考えこむ、わし。
どうやって区別するんだろう?
ものさしで測って、自由は10cmだけど、それ以上はわがまま、とかっちゅうことかしら。

自由総本舗のフランスの人は、わがままと自由を区別しているようには見えませんね。

自由は義務を伴うって?
あんた、そんな非論理的なことを言っていて、ほんまに数学科ですか?
数学は論理じゃないって?

ま、そりゃ、そうだけど。

自由が義務を伴うなら、論理的に敷衍して、義務をはたして初めて基本的人権が生じることになって、お話しがおかしいであろう。

だって基本的人権って、自然権ですぜ、だんな。

自然権は自然に備わっているから自然権なので、条件がついていたら、不自然権になってしまう。

そんな純正ミルクに対してスジャータみたいなものをいれたらコーヒー不味いやん。

わがままと自由は、おなじものですよ。

どーだ、驚いたか。

おなじものだから、大男は駐車場の出口に、どっかりと駐められたランドクルーザーの持ち主を探して、通りのレストランを一軒一軒、「ランドクルーザーの持ち主の人、いませんか?」とおろおろ歩き、メルセデスのおっちゃんとおばちゃんは15km/hで、のろのろ牛歩し、周りの人間は、限界まで我慢している。

ほんで、スペインに二、三ヶ月もいれば容易にわかることは、この「我慢の限界」のキャパシティが途方もなくおおきいのでもある。

余計なことをいうと、しかも、英語人から見て不思議に思われるのは「ここまでは我慢する」という限界値が、個々の人間に依存しておらず、社会的に「ここまで」と線が引かれているように見えることで、コンサートが行われているクラブでも、そ、そんなあ、デッタラメじゃん、とおもわれるような野次をとばす観客がいても、途中までは知らん顔をしているのに、一定線をこえて、ほら、おまえ、〇〇の曲をやってみろ、というようなことを言い出すと、いっせいに指を唇にあてて「シイィィィー!」が始まる。
あれが始まると、すぐに店の人間がやってきて、その客を摘まみ出してしまいます。

あるいは場所と行為の種類によっても閾値が異なっているので、例えばバルセロナの人はもともとは人気ベーカリーやハモンの店で行列する習慣を持たないが、なんだか三々五々、もやっと群れているようでいて、ちゃんと誰がいちばんで、誰が次で、…..とおぼえていて、知らない人が気付かずに割り込もうものなら、いっせいに「なにやってんだ!」「この人が先だよ!」と、おおげさでなくて怒号が飛び交う。

ちゃんと文明が存在している。

もちろん、前にも書いたことだが、あのチョー失礼でわがままな、ランドクルーザーを駐車場の出口に駐めて、いそいそと夕食を食べに行ってしまったおばちゃんは、大男の巨軀をものともせずに、デッタラメな理屈で気の毒な大男を怒鳴りつけていたが、見ていてわかるのは、大男が暴力をふるったり、巨軀を利して恫喝したりしないと100%確信していることで、そーか、文明度が高いというのは、こーゆーことか、まだまだダメじゃん英語社会、とおもったのでした。

ここまで読むと、なぜ日本が自由社会を実現できないでいるのか判るでしょう?

個人がわがままを言わないからですよ。

わし観察では日本人よりも英語人は「空気を読む」ことに長けているし、大陸欧州人は、その英語人よりも更に空気を読む術に熟達している。

パッと見てとって、空気を読み切ってから、おもいっきりわがままを言う。

「おまえらの空気なんて知るかよ」と明然と述べる。

わたしはわたしですから。
おまえらがなにを考えて合意したって、知ったこっちゃねえよ。

これが民主社会の基礎なのね。

もちろん、個人主義社会の基礎なのでもあります。

だって、日本の人みたいに、空気を読んで、みんなに従ってたらルールなんていらないじゃん。

有給休暇という制度があるのは、職場の全員が唖然とするタイミングでも、「今日は会社に行きたくねえな」とおもったら行かなくてもいいと保証されていて、現実にベッドで一日いびきをかいて寝ていてもいいという文明があるから制度としても存在する。

わし日本語友でも「みんなが出社しているのに、なぜ、きみだけが出社を拒否するんだ。コロナにかかる危険があるのは、みんな同じだろうが」と、こともあろうに社長に言われた人がいたが、みんなが出社するから自分も出社しなければならないのでは、野蛮社会そのままで、自由社会なんてファッションでやってるのやめろよ、卑怯だろ、としかいいようがない。

なんにも判っていないのではないか。

自由社会は「他人のことは判らないのだ」という前提に立っている。
自分の経験から推測して他人もきっとこうだろうという愚かな考えを持つな、と制度が述べている。

だから有給休暇はいつとったって本人の言う通りにするしかないし、繁忙期に、女びとの社員から電話がかかってきて、今日と明日は出社しませんと言われて、「出てきなさい」は論外であるのはもちろん、「体調の問題ですか?」などと訊いたら出刃包丁でブッサリ刺されても文句はいえない。

わがままを許容できない社会は、自由がない社会であるのは、あきらかであるのに、日本語社会が、なあんとなく誤魔化して「自由とわがままは別だ」ということにしたがるのは、要するに全体主義だからなんじゃないの?
と、わしは昔から疑っている。

ここから何回か、わがままについて書こうとおもっている理由です。

 



Categories: 記事

3 replies

  1. 是非書いてほしいと思う。

  2. いいなー。読んでで気持ちいいです(^^)

  3. 「大男が暴力をふるったり、巨軀を利して恫喝したりしないと100%確信していること」
    これは凄いですね。
    突然に有給休暇で休んでもクビにならないと確信しているということでもありますか。

%d bloggers like this: