もの狂ほし

外から見た日本は、どんな国に見えるのか。

ラーメンの国!
と、即座に応えた人がいて、この若い人は、英語世界に限らず、十代のときから、たいへん有名な人だが、内緒で、「お忍び」で、ときどき日本へラーメンを食べに行くのだと述べていた。

「ラーメン二郎」や「一蘭」、「天下一品」という名前がポンポンと飛び出して、なかなかに熱狂的なファンです。

他にも「熱湯に飛び込む若い人たちがいる国」「漫画の国」というような第一印象を持つひとびとがいて、はなはだしきは、
「やめてえええー!の国だけど、そんな恥ずかしいこと、訊かないでくださいよ」とマジメに申告する香港人のようなのまで存在する。

「世界の人間が憧れる日本」などと、たいして日本のことを知りもしないネトウヨ族が日の丸の小旗を頭に立てて、あごを突き出して、得意になって、ふんふんしなくても、ずっと昔、というのは戦後直ぐから日本は少なくとも英語人やフランス語人には、たいへん人気がある国であって、たとえばハリウッドの大俳優であるシャーリー・マクレーンはジェット機もない時代に渋谷に内緒で別荘をもっていたし、エバ・ガードナーは、たしか、東京に愛人がいたはずです。

こういうお忍びで頻々と日本を訪れた著名人たち、取り分けて芸能人たちの秘密は、どうやら、日本がアメリカの占領下にあったことと関連があるらしくて、これはただの推測だが、多くのひとびとは、羽田ではなく、調布に来ていたものであるらしい。

軍にコネクションがあって、それをフルに活かしていたのでしょう。

もっとも、それからそれへ、日本がいかにいかれた国で、とんでもない変わった社会で、野放図なくらい面白い国であるか、口から口へ伝わって、
ずっと後年になっても、飛行機は苦手であると公言していたはずのデイビッド・ボウイなども、シドニーに 別荘をもっていて毎年のように訪問していたからでしょうが、ストップオーバーで東京に滞在して、やがて歌舞伎や、外国人がいまでも不思議がる、なぜか尻尾が短い猫に惹かれていく。

日本の習俗の珍奇さ、ユニークさが、日本を行動範囲に含めることが出来る富裕な人間たちにとって大きな引力をもっていたのは、いまに始まったことではなくて、「知る人ぞ知る」、アジアの楽園だった。

いま日本語世界でスポットライトを浴びている「外国人にとっての日本」は、この好尚の、いわば大衆化が進んで、特に富裕というわけではないフランス人たちが、どっと金沢に押し寄せたり、緑色のミシュランガイドブックを片手に、松本郊外の「大王ワサビ園」を大挙訪問したり、フジロックフェスティバルに数人のグループでやってきたりするのは、すべて、この「日本への好奇心の大衆化」の文脈の上にある、といってよさそうです。

ところが、それとは、まったく異なる文脈上にある「高名な日本」も存在する。

数学と理論物理学、視覚芸術を初めとする芸術の名門としての日本がそれで、こちらは大衆的な人気があるとはいえないが、多少とも「教養」がある人間ならば、誰でも知っていて、フィールズ賞でいえば小平邦彦や広中平祐がいて、ノーベル賞受賞の顔ぶれで述べれば、湯川秀樹がいて、朝永振一郎がいて、小柴昌俊がいる。

きみの話は偏っている、と目を怒らせて、生理学医学賞や化学賞だって日本人はとっているんだぞ!と怒鳴り込んでくる人がいそうだが、印象は印象で、日本人といえば、数学、物理学、芸術、であるという反応は変わらない。

余計なことを書くと、世界中にファンが多い、日本文学はどうかというと、「翻訳を読むと面白いが、実際は、どうなんだろうね。なにしろ日本語が読めないから見当がつかない」くらいが正直なところでしょう。
最もファンが多い谷崎潤一郎を別格として円地文子なども日本でよりも英語世界でのほうが人気がありそうだが、英語人などは「自分が読んでいるのは半ば以上翻訳者の作品なのだ」という気持ちが強いとおもわれる。

 

為時と申す儒者の子に、惟規と申す者ありき。親の越中の守に成りて下りける時に、蔵人にて、え下らで、かうぶり賜はりて後にぞ、まかりける。道より病を受けて、行き着きければ、限りなるさまになりにけり。親、待ちつけて、よろづにあつかひけれど、やまざりければ、今は後の世の事を思へとて、枕上に、僧をすゑて、後の世の事言ひ聞かせけるに、「地獄などはひたぶるになりぬ。まづ死ぬければ、中有といひて、いまだ定まらぬほどは、はるかなる広野に鳥けだものだにも音もなきに、ただ一人ある心細さ、この世の人の恋しさなどの堪へ難さ、推し量らせたまへ」など言ひければ、目を細めに見上げて、息の下に「その中有の旅の空の下には、嵐にしたがふ紅葉、風にしたがふ尾花などのもとに、松虫などの声は聞こえぬにや」と、ためらひつつ、息の下に言ひれば、僧、憎さのあまりに、あららかに、「なにの料に尋ぬるぞ」と問ひければ、「さらば、それらを見てこそは、なぐさめめ」と、うちやすみて言ひければ、僧、「このこともの狂ほし」とて、逃げてまかりけり。

という美しい日本語があります。
これがいかに美しい文章であるかは、まったく同じ内容を扱った今昔物語の弛緩した文章と較べれば一目瞭然であることは、前にも書いた。

このエピソードの内容は恐るべきもので、十世紀末から十一世紀初頭という時代に、神を信ぜず、ただ美を求める風狂のなかで死んだ若者の姿を描き出していて、たしかに「儒者の子」だと注意を促してはいるものの、この若者と、この挿話を誌した作者が、共に芸術のデモンに襟首ごと鷲摑みにつかまれた存在であることが判ります。

わしが熱狂的に愛好するベーオウルフは8〜9世紀に成立した物語だが、ローランの歌 La Chanson de Rolandは11世紀で、この神を信じないまま死んだ惟規なる若者は、それよりも前の人であることが、どうしても信じられない。

日本は芸術の国です。

え?
さっき数学と理論物理学の国だって、言ってたじゃない。
もう意見が変わったの
と、きみは言うであろう。

ところがですね。

どうも日本の人にとっては、数学も理論物理学も、西洋人的な感覚でいえば、芸術の一分野だと感受しているのではないかという疑いがある。

疑い、は、言葉としてひどいが。

日本語世界を渉猟する人間がすぐに気が付く日本文明の顕著な特徴は、日本の人は、どうやら現実をありのままに見て扱うことが苦手であるらしいことで、これは殆ど諸事全般に及んでいる。

最近でいえばCOVID禍で、世界のなかで、ただひとりぼんやり、PCR検査?
そんなもん、やりすぎちゃダメですよ、きみ素人でしょう?
これだから素人は困る、と驚くべきマヌケなことを述べているうちに、どこにウイルスさんたちの団体が蔓延っているのか、まったく判らなくて、テキトーのおもいつきで、ほとんどブンガク的な対処に終始せざるをえなくなった医学者たちをみても、なんだか知識が空転していて、現実とのかみ合わせや、手がかりがゼロに近い。

政治的な主張にしても、日本語世界に翻訳された途端にジェンダーを変えた、というよりも本来のジェンダーに忠実に生きることにした人びとが直面する問題であるとか、いわゆる「慰安婦」問題、なにをやってもボードゲームの駆け引きで、記号化されて、駒にしてしまうので、なにをやっているのか、まったく訳がわからない「遊び」のようになってしまう。

言葉と言葉がカチカチとぶつかって、コーナーのポケットに入れば顎をさすって満足するような屁理屈の遊びに現実を変換してしまうのが好きで、ところがほんとうは、そんな便利な変換が現実に起きるわけはないので、考えることが右から左に空論化してしまう。

ところがですね、第二弾。

ことが美意識の領域にさしかかると、果然、日本のひとびとは天才ぶりを発揮する。

十年以上日本語とつきあって、どうやら確からしいと考えるようになってきた、日本語の現実と乖離しやすい性質と、どうもこのことは関係があるらしく思えます。

観念的、というべきだが、観念的では眺める方向が間違っているような気がする。
どちらかといえば、(西洋的な意味における)倫理も宗教心もないところで、日本の人は、美意識と呼びうる、だが日本的で西洋由来の考えでは見通しが悪い意識が宇宙のすべてをくくる価値の体系を持っているのではないか。

そのとばぐちにある単語は「もの狂ひ」や「風狂」、「幽玄」というような言葉であるはずです。

現代の日本語は翻訳された西洋語からの激しい圧力をうけて、軋んで、いまばっきりと折れようとしている。

そこはまた別の説明が必要だが言語として全体が死語の体系になろうとしているように見えます。

藤原惟規という若者は、後世に巨大なNOを遺言することで、ヒントを与えている。

そのNOが正確には何にむかって発せられたものかを知ることには、おおきな意味があることのように考えました。



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5 replies

  1. ぐっ、とくる遺言。文語ならではの簡潔さ。
    沁み入ります。
    ホントになんでもご存知ね。

  2. 日本語の現実と乖離しやすい性質というのは、言霊信仰がまだまだ強く残っているからなのかもしれません。また仰るとおりそこからもののあはれという美的感覚につながっていくのでしょう。数学者の藤原正彦氏がそのあたりのことを書いておられた気がしますが、どこだったか忘れてしまいました。

  3. > 政治的な主張にしても、日本語世界に翻訳された途端にジェンダーを変えた、というよりも本来のジェンダーに忠実に生きることにした人びとが直面する問題であるとか、いわゆる「慰安婦」問題、なにをやってもボードゲームの駆け引きで、記号化されて、駒にしてしまうので、なにをやっているのか、まったく訳がわからない「遊び」のようになってしまう。

    本当にそう思います。今のCOVID禍に関する政治の対応も、まるで希望的観測を公言していればそれに現実が合わせてくれるのではないかという希望的観測だけで成り立っているようで、なんとも現実味がありません。
    そして、この「遊び」のようになってしまう、という指摘が特に重要で、中世の頃までは特に「遊ぶ」ということ自体が程度の差こそあれある種シャーマニックで人外な行為だと考えられていた節がありますが、そういう意味では「遊ぶ」ことにある種の宗教性を感じ続けているということが、上の政治的にはチョーいい加減な対応と藤原惟規を繋げている(あまり繋げたくはないですが)鍵ポイントなのかもしれないと勘繰りながら眺めています。

    > どうも日本の人にとっては、数学も理論物理学も、西洋人的な感覚でいえば、芸術の一分野だと感受しているのではないかという疑いがある。

    友人で今や世界的なアーティストになってしまったミュージシャンがいるんですが、彼のスタジオには現代数学の本がぎっしり詰まった本棚があるくらいの数学オタクで、門外漢のぼくに「数学って本当に美しいもので、それ自体がほぼ芸術なんだよ。」と少しそれについて語ってくれたことがあります。(ほぼ理解できませんでしたがw)

    そういえば、彼の作品は確かに現代的「もの狂い」を感じさせるようにも思います。

  4. ちょっと、いろいろ考えてみました。

    Twitterでも返信で書かせていただいたことなんですが、日本は何でも『型』から入る国です。
    だから、現実に即応する前に脳で考えようとしてしまって、結果、ピントがずれてしまうところにエネルギーを割いてしまうのです。

    日本は、言語ですら『型』から入る。
    なので、同じことを言っていても、ニュアンスが違うことが多々あり、コミュニケーション能力が高い人同士が言葉を発し、受け取れば高度なコミュニケーションになるが、それが低いと、あるいは能力差があると、ニュアンスがずれてしまう。
    日本の子供の遊びには『山手線ゲーム』という伝言ゲームがあって、それは、人の伝言によるニュアンスのずれをクリアにし、楽しむものだとされているわけですけど、こういう日本語の特性は、コロナのようにシリアスな事柄に対しては深刻な結果を生みますね。

    だから、言葉と言葉がカチカチぶつかる、をさらに掘り下げると、『型』のぶつけあいになって、そこから何も生まれない、という現象が発生するのが日本式議論だと思います。

    しかし、『型』を使う目的は何なんでしょうか。

    僕の母が茶道の指導者のライセンスを持っているので、茶道の『型』とは何なのだ、と尋ねると、母は、『型』から見えてくる真実があるのだというのです。
    その真実は非常に感覚的なものであり、また、論理的なものでもあります。
    そして日本人は、その境地にたどり着かないと、integrity=完全性、を得ることはないのです。

    日本人にとっては、芸術であろうが数学であろうがコンピュータのコードであろうが、すべてがその真実に到達するための手段にすぎない。
    義務感に基づいているわけではないのですが、ただ真実に到達することに悦びがあり、ひたすら純粋にそこを目指していくDNAがあるのです。

    しかし、日本人全員がその真実に到達できるわけではなく、到達できる人が限られる、いや、ハードルを高くしてわざわざ限ってしまう傾向が強いのが、日本文化でもあります。
    だから、たとえば髪の毛の色やスカートの長さ、はたまたパンツの色まで決めてしまう世界一くだらない校則(というより勝手な拘束)が存在するわけで、真実に到達するのが面倒臭いから、とりあえず『型』にはめときゃいいや、という話になるわけです。
    『安全』ですから。

    しかし、ラディカルなアメリカ人と違って、日本人は即応即決のケースでは世界でも最弱の民族だと思います。
    コロナで人を救わなきゃいけないのに、救い方の真実を追っているわけですから、世界で最も対策が遅れるのは必然の理だと思います。

  5. すみません。正直に言います。以前の記事を読んでいないか、覚えていないということもあるでしょうが、どうして惟規の態度が「神を信じていない」になるのか、わからないんです。

    僧侶に対して「あの世とこの世の間にも豊かな景色があるって歌われてるでしょ?」と言っているようにも聞こえるし、「私の方があなたよりその世界に近づいていて私の目にはもう見えているんです」って言っているのようにも聞こえるし、僧侶に対してちょっと色恋めいたことを言っておちょくっているようにも聞こえる、のかな?と、解釈したのですが…。

    そしてたぶん、日本語はこの如何様にも解釈できてしまうところが多すぎて、政治や現実世界を侵食して、自分の魂にも相手の魂にも手を伸ばしてもつるりと逃げられて、ガメさんの言う通り現実が空虚になってしまっているんだと思いますが。

    私には惟規の方が神をとらえていて、僧侶はただ教えられた知識を喋っているにすぎないのではと思ったんです。
    私が「神」と思っているものは、西洋的には「神」ではなく「美」なんですか?
    「日本の神様」は、西洋的には神と言うより精霊に近いと思っています。なので「神」という漠然とした概念の話ですが。

    そうなると、日本語で考える限りどんなに近づこうと思っても西洋の「神」には出会えないで、神様の仮面をかぶった「美」でしかないということになりますよね…。

    なんというか、衝撃です…。
    ショックです…。

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