1年

 

日本語の本を読んでいると、日本語で考えて生活している人は、ものごとを正面から見る、ということを忌んでいるように見えることがある。

なにか遠くを見ていて、視野の片隅にいろいろなものが映っているほうが、ずっと好きなのではないか。

はなはだしきに至っては、ふたりで対面して話をするのに、こちらの眼を正面から見る、ということをしない。

ときどき、ちらっちらっと正面のわしを盗み見て「ああ、ガメ、まだそこに座っているんだね」と考えているようにおもえる、…というのは冗談だが。

日本人だけではなくてロシアの若い人で、このひとの場合は、まったくこちらを見ない、という人に会ったことはある。

ガメ、きみはロシア語がわかるだろう、ちょっと付き合ってくれないか、ロシア語を話さなくてもいいから、というので、一緒に西銀座デパートの二階にあるイタリア料理店にでかけた。

もっとも、この場合は「ロシア人は」と一般化するのは難しくて、この朴訥そうに見える青年に特殊な癖であったようで、実際、「どうおもったか」というので、わしなら気を付けますね、と述べて帰ったが、あとで聞いてみると、ソフトウエアの契約詐欺のようなことで、案の定、2000万円ほど騙し取られていた。

それでも誘ってくれた日本の人のほうは、のっぴきならないので2000万円融資したが、もともとは5億円ということだったので、値切っておいてよかったよ、と述べていたので、本人も、どうもしっくりこないと感じて、わしを誘ったもののようでした。

よく知られているように日本の人も相手の目を見ないで話をして、信用されないことがよくあるが、こっちは、ほんとうは責めては可哀想で、ただの文化習慣、ボディランゲッジであるのは言うまでもない。

 

「相手を正面から見据える」ことが失礼な文化なだけです。

コロナ、と呼ぶと、だいすきな飲み物のひとつであるコロナビールに申し訳ないような気がして、ふだんは英語で多用される呼び名COVID-19のほうを使いたいが、日本語では段々コロナに統一されてきて、やや年齢が上の人を中心に「COVID-19って、なに?」と聞かれるという話を見聞きするようになったので、コロナが好きな夏までは、というのはニュージーランドは、いま冬だからですが、それまではコロナさん、ごみん、同姓同名のウイルスさんをあなたの名前で呼ばせてください、それにしても、なんで日本ではああも夫婦別姓を嫌うのだろう。

ともかくコロナが、ようやく日本でも切迫した身近な話題になってきた。

ずっと前に、日本もほんとうはイタリアやアメリカなみに陽性者がいるのを隠しているだ、というひとびとに、「そこまでは行ってないでしょう、政府の公表数値がテキトーでも、ひどくなってくると、途中から周りに陽性になったり、重症化したり、ひどければ死んでしまったりする人が出てくるので体感として判るみたいよ」という話をしたことがあるが、世界のペースからは遅れてではあっても、日本でも、自分のまわりに死者までが出るようになって、どうやら実数は公表値の十倍らしい、と外国のメディアに書かれはじめて、なにしろPCR検査をやらないという、とんでもない戦略で臨んでしまったので、五里霧中、闇夜の鉄砲、暗闇の烏で、どのていど、どこに、どんな具合に偏在しているか判らない。

頭のなかに「あんまり行かないほうがいい地域」「絶対に出かけるのは無理無理無理な地域」「比較的安全な場所」とニュージーランド人はCOVID禍が始まってすぐに、ほぼ自動的に地図を描くのが習慣になったが、日本の人には、それが許されていない。

ここでもちゃんと天然全体主義が活きていて、たくさん押しかけられると医療体制が破綻するから家で死んでください、くらいはまだ我慢できるとして、できないか、でも、できるとして、PCR検査をやると陽性者が増えるからやってはいけないのだ、と奇を衒ったことを「専門家」が言い出す。
言葉の遊びではなくて、本気でそういうのだから、詭弁の専門家も真っ青だけれども、現代日本語は、言葉で「こうだ」と言ってしまえば、大雨の日でも太陽がでていることになってしまう現実とは何の関係ももたない主義の言語なので、ほんとにPCR検査を縮小してしまった。

これはですね。

コロナを正面から見つめるといけないので「視野の隅にとどめる」ための方策なのではないだろうか。

コロナを隅っこに押しやってしまえば、コロナで死んだり、long-Covidになったり、人工呼吸器につながれないと息もできない状態の人という「現実」は視野の外に押し出してしまえる。

ないことにできる。

福島第一事故のときには、なにしろ健康被害の予想が誰にもつかず、大気中のおおかたが放散されてしまって話が早かったチェルノブイリと異なって、大半が地中に潜り、地下水に浸潤して、という状態なので、主要な影響が出るのも何世代も先のことと予測されて、視野の隅から、ちょっとずつ、つんつんして視野の外に押し出してしまう、というのは良い方法だった。

父から子へ、子からまたその子供へ、
そのうち、みんな忘れちまうべ、うやむやでむにゃむにゃで、これこそ日本文明の精髄である、と胸を張っていればよかった。

ところがコロナは、誤魔化しに乗ってくれないので、たいへん困っている。

放射能なら、なんだか両腕をふりあげて、身体をくねくねさせながら「アンダーコントロール!」と叫んでいれば、ないことにできたが、コロナは言うことを聞いてくれないので、たいへんに困っているのです。

梟の目は、鳥であるのに正面にふたつ並んで付いているのは獲物に襲いかかるときに距離を測るためについている。

測距の必要から正面を見つめる構造になっている。

猿も枝から枝に跳びうつるときに、目測を誤ると、こけて、地上に墜落してしまうので、やはり測距の必要上、双眼が正面に向いて並んでいる。

馬さんは、あんなにおおおきな身体なのに、臆病で、出来れば一生、嫌なことは一生みないで暮らしたいと念願しているので、眼が両脇についていて視野の片隅に異常な動きを発見すると、脱馬のごとく駆け出す。

日本の人も眼が顔の両脇についていれば便利におもえるが、しかし、考えて見ると、脱兎のごとく逃げ出す先が、いまの世界には存在しない。

コロナはまだ世界の大半を覆っていて、コロナが消滅したことになっている国には、入れてもらえない。

マスマスキングで、どうにか感染を抑えられてきたのに、イギリス型は国民の性格の悪さを反映して1.5倍感染力が強い。
インド型は、そのまた1.5倍だと記事に出ていて、ならば、1.5×1.5=
2.25で、2倍強の感染力ということになる。

念のためにいうと「感染力」が定義されていないので、これは、ただの言葉の遊びですけど。

なにしろ現実を正面から見ない、国民にも見させないテクニックの集大成として出来上がった日本の政府は、自らをPCR検査をさぼって速やかで大規模なワクチン接種をするしかないところに追い込んでおいてワクチン購入にも国産にも失敗するという、絵に描いたような見事なダメっぷりを曝している。

 

いっそ右傾化やなんかの政治姿勢が問題だった昔がなつかしいくらいで、右に傾いたり左に傾いだりする以前に、能力的に俄には信じがたい低さで、のっけから地面に倒れ伏して、ピクリとも動かない。

わしが日本にいても考えるのも恐ろしい事態で、半分くらいは、もう死ぬかもな、遺書を書いておこう、というくらいのピンチだが、こういうときこそ、自分という最良の友達の、聴き取りにくい声を聴くのがよいとおもわれる。

1年と区切ってサバイバル計画を立てる。
ええええっ?と驚くかも知れないが、緊急時だもの、仕事だってコロナが蔓延しそうな職場だったら、やめちゃえばいいんです。

一身上の都合でもいいが、「死にたくありませんから」でも良いとおもわれる。

どっちみち、賭けてもよい、この状況下で出社を命じるようなマヌケな会社は、このあとに予想される経済構造変化で、つぶれちゃいますよ。

船底の穴から入ってくる水を排出するビルジ・パンプにも能力の限界があるのだと言われている。

ひとが集まる所には、どんなに大丈夫そうでもいかない。

食物は貯蔵する。
不足分はアマゾンでもなんでもよろしい、配達に依存する。

日本語社会では奇矯に聞こえるのは判っているが「危機を正面から見る」というのは、そういうことです。

曖昧なことをすると、命取りになる。

実際、上で挙げたことは、モニとわしが、ニュージーランドでコロナが燃えさかりだした当時、毎日「サバイバル・ミーティング」を開いて決めていったことでもありまする。

twitterにも書いたが、1年、生きていてください。
仕事も将来の生活も、そこから先は、そのあとに心配しようよ。

あと1年、生きて。

生きぬいてしまえば、そのあとのことなんて、なんとかなるさ。



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