火薬庫のある森で

 

思い出すだけでも、なんだかモニさんに悪いような気がするが、日本語では罪悪感が少ない。
アメリカ軍のことをツイッタで書いていて、モニさんとつきあいだす前、むかしのガールフレンドとときどき稲城に遊びに行ったことを思い出した。
もともとは旧日本帝国陸軍の弾薬貯蔵施設だった稲城リクリエーションセンターは、ペイントボール場やゴルフ場がある米軍の施設になっていて、米国籍の軍人だけが使用できる。

キャンプ場、といっても日本やニュージーランドのように1区画が20平方メートルくらいしかないようなものではなくて、広くて、400平方メートルくらいあったとおもう。
サイトとサイトのあいだには生け垣や茂みがあって、区画同士、お互いに見えないようになっている。

エリートさんとはいっても、ガールフレンドは軍人は軍人で、ぼくを助手に手際よくテントを組み立てていくが、調理用のテント、飲み物用のテント、ラウンジのテント、ベッドルームのテントと、5張りくらいも組み立てるので、キャンプというより野戦の、ベースの設営みたいだ、と思ったりした。

緑が稠密に深い森が、なにかに似ていると思って考えていて、
ああ、これは、トトロの森なんだ、と気がついた。
あの映画は1960年代くらいの設定なのだったとおもうが、そっくりで、
まるでトトロの森がタイムスリップしてあらわれたような施設だった。

酔っ払って、よくふたりで散歩した。
静かで、例の、漫画でよくでてくる「しぃぃぃーん」という音が実際に聞こえるので笑ってしまう。

神が現実に存在するとすれば、もっとも安全な方法は、神だと思い込んだふりをして、たとえば新興宗教の教祖として、疑いの目の環視のなかで、「馬脚」をあらわしてみせることである。
ひとびとは手を叩いて 「ほら、彼を観てごらんよ。頭がいかれて、神さまだと思い込んで、ほんとうは3浪して4流大学に入って、就職がないから神のふりをしているだけだったのさ」と指さして笑うだろう。
そこからは彼は自由に神として活動していける。
どんなに奇蹟をおこなっても、もはや誰も彼を神と考えはしない。
嘲笑は、ときに最良の防壁をなす。

面白いことにキリストが神の子であると、いまも固く信じている人がおおぜいいるのは、キリストが神を呪いながら人間の子として死んだからだった。
復活したからではない。
復活は、人間の子として死んだことへの同時代の人間の「彼は神の子供であった」という認証にしかすぎない。
キリストが神の子たりえた秘密は、彼が神の子を詐称したことそのものに内在するのだと思います。

英語のtwitterは、日本語のほうがずっと面白いのでアカウントを閉じてやめてしまったが、見るのは、よく見ている。
Twitterは全体に「テレビ化」というようなものが進んで、ツイートの内容よりも、実名の「セレブリティ」たちや有名記者、organizationの番組のようなものになって、フォロワー数を視聴率に置き換えると判りやすいような「マスメディア化」がすすんでいる。
たくさんの人間が集まるアカウントは、なにしろ世界にそうそう理解力があり十分に知力がある人間がいるわけではないので、だんだん低きについて、退屈もので、「普通の人」は冗談をやりとりするだけで、相手が未知であることをのぞいてはテキスティングとあまり変わらなくなり、名前が知られたツイッタ人は、テレビのバラエティショーのようなものでtwitterの中毒性に依拠して、自分の意見をより多くの人の耳にはいりやすいように調整して放送する。

ときどきヘンな人がいる。
じっと見ていて「えっ?」と思うことがある。

明らかに人間よりも高い知能の持ち主で、わざと失敗してみせているだけの人がいる。
よく見ていると、どう考えても人間の知能ではなくて、前にも書いた言い方だが通常の人間の知能よりも「精細度が高い」世界をみている。
酔ったりすることもあるよーで、酔い出すと、矛盾だらけ嘘だらけにみえることを言い出すが、それがパズルになっている。
原典を知っていれば「ああ、あのことか」と判る書き方です。
しかし、tweetのスピードで、そんなことが出来る人間はいるわけがない。

知能が高い人間は、より低い人間を相手に遊ぶのに、初めに相手の反応を見越して、わざとしどろもどろになってみせたりするのは、悪趣味だが、イギリス人などでは、ふつーの習慣です。
2年でも3年でも相手に好きなことを言わせておく、相手が中傷を繰り返してメディアでもよい、パーティでも構わないが、参加者全員に彼または彼女の中傷が行き渡ったところで、初めて抜き差しならない反撃を加える。
あとは、もう小動物を遊び半分で殺してしまうようなやりかたで、おなじ社会にいるかぎり、一生なぶり続ける。

復讐しているのではなくて、暇つぶしに遊んでいるだけで、そういう悪趣味な人間が、ぼくが知っているだけでもふたりはいる。
見ていて、「ひょっとして、この、親切で、温雅な顔をした人は悪魔なのではないか?」と思うことがある。
知能が高い人間は、同時に同じ知能レベルの人間がいないので退屈しやすいものだ、という理屈を思い出す。

鹿が、幾重にも重なりあった低い枝振りの枝のあいだからあらわれて、弾薬庫のコンクリートの壁のなかにはいっていってしまったかのようにみえる歩き方で、消えてしまった。
ガールフレンドが、「あれは神さまよ、きっと」と言います。
わたしはワシントン州の山で育ったから知ってるわ。
動物は、あんなふうな眼で人間をみないわよ。

ぼくは酔った頭で、鹿が神ならば、ここになにをしに来たのだろう?
と考える。
それともガールフレンドがいたずら心を起こして、ぼくをからかおうとしているのだろうか?

ガールフレンドとぼくの、ふたりしかいない、広大なキャンプ場で、日本兵の幽霊がでるという噂の小径をたどって、神がいなければ、言語は、糸がほどけた服のように、ばらばらになってしまうだろうという話をしながら、ぼくたちはテントにもどっていった。

目の前に、唐突に、あるいは、そこだけ空間と時間を編集して不連続な画像をつないだように、さっきの鹿が立っていました。

酔っていただけなのだろうけど

 

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twitterで稲城のリクリエーションセンターの話をしていて、たしか記事もあるよね、とおもってみたら5つほどもあった(^^;)

この記事は、そのうちのひとつ2015年8月1日に書いたものの再録です

 

 



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