エアフライヤー

 

 

エアフライヤーを買ったら、これが面白くて、「はまった」という言葉は好きではないが、ついでに大嫌いな言葉使いも面白がって、後にも先にも、いちどだけ、いまだけ使っておくと、ガチで、はまってしまった。

ははは。日本語もバカな言語になったものです。

見た目がひどく悪い。

クームラ(←サツマイモのことだな)チップをつくると黒い痣のようなものが出来て表面がまだらになります。

でも、油を使わないのに、たしかに「フライ」で、ちょーおいしい。

こんなにおいしくて、どうするんだ、というくらいおいしい。

ガーナードの今朝あがったばかりの切り身を送ってもらって、フィッシュ&チップスをつくると、眼が霞むくらいおいしい。

クラシックの名曲、Tom Petty and the HeartbreakersGod’s Gift to Man

をでっかい音でキッチンに響かせて、お尻をふりふりつくった甲斐がある。

フィッシュ&チップスも最高だが、ひょっとしたらひょっとして、とおもってやってみたエアーフライヤー冷凍たこ焼きは、もっと最高で、最高最高最高で、もうたこ焼き器はいらないのではないかとおもうくらいおいしかった。

園芸店からタシックが大量に届いたので、庭師のおっちゃんたちを糾合して例の杉の露天風呂とレインフォレストカフェ風のブッシュとのあいだの地面に敷きつめます。

And love is evol, spell it backwards, I’ll show ya

とエミネムが述べている。

どうやらヤクをやめてクリーンになったらしい、われらの詩人、Ed Sheeran

Every pure intention ends when the good times start

と歌っている。

英語は英語に反響して、旋律とは別に美しい言葉の音律をつくっているが、ほんとうは、他の言語の人には聞こえていないのではないか。

英語は、その限りにおいては地方語なのではないか。

マオリ人の庭師友がキナを持って来てくれたので、ウニスパゲッティをつくって食べた。

なぜキナでウニスパゲッティが出来るのかというと、マオリ語のキナはムラサキウニのことだからですのい。

英語は英語に反響して、旋律とは別に美しい言葉の音律をつくっているが、英語人の耳にしか聞こえない悲しみがこもりはじめているのではないか。

(思惟の乗り物としてではなく)伝達の道具としての言語は人間の最後の希望だが、われわれに、「お互いにわかりあう」ことなんてあるのか?

英語人の絶望は深くなって、EFLに、優しい顔でうなずきながら、自分たちの北海文明に帰ってきた。

われわれは結局は、判りあえないのではないか。

われわれは、いったん部族の手から離れた言語を信用するのをやめようとしているのではないか。

人種主義が復活したのは、ほんとうは、そのせいなのではないか?

十年やってみたが、わし自身、日本語には失望しかなかった。

いやいや誤魔化すのはやめて、日本語ではなくて、日本人、と正直に述べたほうがいいかも知れません。

具体的な例を挙げたって仕方がないから挙げないが、日本の人は日本語を維持して展開するどころか、気持ちの、とても低いところで消費しつくしてしまった。

気持ちの低いところから出てくる悪意ばかりで倫理のかけらもない言語。

日本語の、外国人が習得する言語としての特徴を知っていますか?

言語が身につけば身につくほど、疑問が生じて、あれほど莫大なエネルギーと時間を投じたのに、みんな日本語を去っていってしまう。

人間はもともとたいした存在ではないが、それにしても、そのなかの最も醜いところばかり日本語は増幅し輻輳する。

息をのんで、踵を返す。

透谷がいて、漱石がいて、岩田宏がいて、鮎川信夫がいて、

それでも日本語はフリーフォールに腐っていった。

ポケットに手を突っ込んで、ふてくされながら、ぼくは、それを十年以上も見て来たのだけど。

どの街角を曲がれば、美しい日本語に会えるのだろうか。

日本語の町に来る度に考える。

日本の最大の問題は経済の凋落よりも、破綻に限りなく近付いた財政の危機よりも、文化の崩壊であるとおもわれる。

言語の崩壊であるとおもわれる。

表現の自由が冒されることを心配するよりも、表現そのものが低劣でしかないことを、なぜ心配しないのか?

日本の文明には守るべき「表現」が、まだ残っているだろうか?

わしは不安になることがあるんです。

自由主義には守るに値する自由がなければならない。

それが「ナチである自由」では困るのね。

英語は英語に反響して、旋律とは別に美しい言葉の音律をつくっているが、日本語の人には聞こえていないのではないか。

日本語ではノンフライヤーというらしいが、それはいくらなんでもあんまりなのでエアフライヤーと書いてしまったが、ナイターならまだしも、ノンフライヤーはいくらなんでもダメだとおもう。

エアフライヤーで、牡蠣フライをつくりながら、もう一生、日本を再訪することはなくて、あの大好きな富山の、でっかい牡蠣フライが8個ついて、600円の定食屋に行くこともないのか、と考えて、がっかりする。

自由主義には守るに値する自由がなければならない。

表現の自由には守るに値する表現がなければならない。

個人として、日本語の人間としてあろうとする人たちにとって、「自由」なんて西洋的な、単なる「アイデア」にしか過ぎないのかも知れないと気が付いたときの、わし気持ちの苦しさを、どう伝えればいいのか。

ガーナードの今朝あがったばかりの切り身を送ってもらって、フィッシュ&チップスをつくると、眼が霞むくらいおいしい。

わしには、日本語で、それ以上のことを言う権利があるのか?

わしには、日本語で、日本人同士頷きあえることを言う言語的権利があるのか?

きみには、判りますか



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9 replies

  1. 僕は、ガメさんの発言の権利を守る。個人としてそうしたい。それだけかな。

    日本が好き、という気持ちを持ってる人なら、誰にでも発言する権利はある。特にガメさんのように深い愛があるのならば。

    ただ、日本=自分、と混同している人たちだけは発言権はないと自分は考えますけどね。

  2. >ポケットに手を突っ込んで、ふてくされながら、ぼくは、それを十年以上も見て来たのだけど。

    いつもいつも、これしか言えなくて情けないけど、ガメさんありがとう。正直なところ日本人同士でさえ、日本語で頷きあえることを言う言語的権利が不確かなのよ。それは多分、私が生まれるずっとずっと前からで、とんとんとんからりんの前から今日にいたっているのです。

    五輪見る気持ちが萎え萎えなので「ゴジラVSヘドラ」を観てたら通知があって、慌てて書いてますが、円谷さんの時代は今ほど悪意のあからさまな時代ではなかったように思います。私は放映当時を知りませんが。

    悲しみと情けなさを越えられるまで(何十年かも)、諦めないで試行錯誤していきます。

  3. いつもいつも、これしか言えなくて情けないけど、ガメさんありがとう。正直なところ権利と言われると、今では日本人同士でさえ、日本語で頷きあえることを言う言語的権利は不確かなのです。日本に生まれて日本でしか暮らしたことのない人間の実感です。

    何の権威もない私ですが、カタカナ語排斥運動をひとり貫こうと試みることで、本来の日本語の響きを味わいつつ、後世に伝えるにはどうすれば良いのか、試行錯誤を続けています。

  4. ガメさんの言うことが身に染みてヒリヒリするような毎日で、それでも思索のために母語である以上は捨てることなく古典や良い言葉に触れる時間を増やしたい。同時に僅かずつでも英語やスペイン語などに触れる機会を増やしてます。

  5. もおおおおおおお、さあ。
    わたしは、疲れたよ。
    ウニのスパゲティを食べさせてくれ。

    • だってさ。
      言論の自由も民主制も絵に描いた餅憧れのハワイ航路。
      イデオロギーのことだってわかってないよ。

      時々僕は僕だけにしか聞こえない言葉で叫んでるんじゃないかと思うんだ。
      ガメさんの声は聞こえてるよ。

  6. そんなのあるに決まってるじゃあないですか、なぁに言ってんだいガメさん、と、腹を括ってごく気軽に返すべきでしょうね。ガメさんだけじゃないよ、何語で誰が何喋ってもいいに決まってるじゃん。人を故意に害する悪意の自由を、決して認めさえしなければ。

    ガメさんのブログを読んでいる人は、実は、ガメさんがきらきらと話してくれる、自由という、何かとても美しい人間の権利を、こっちの社会に(誰か個人を生贄にせずに)持ってくるにはどうしたらいいか、ずっと考えているんじゃないかと思う。少なくとも、私はそうです。

    でね。今のガメさんのその苦しさ、つまり、自由なんて日本人には無理なんじゃないの?っていう現実には、ごめんですが、割と多くの読者がとうに思い至ってると思います。だから、えっと、はっきり言おう、その話は言わなくても伝わってるから、大丈夫。もうずっと私たちは、今ガメさんが気づいた酷い場所にいるんだよ。で、私はここが絶望的な場所だから、何とかしたいんだ。

    だから少なくとも、ガメさんが自分の事を、自由という美しい夢を振り回してあらぬ幻想を見させてしまった教祖さながら(例えが極悪なのは勘弁)に後悔する事はないんじゃないかな。もうちょい、こちらの知性を信用してくれい。無理か、ごめん。

    そりゃ、仕方ないよ。ガメさんの国では、市民が自由を勝ち取った事実があるわけでね。それは誇るべき事であって、ガメさんが悔やむ事じゃない。羨ましいよ。

    話は逸れるけど、現状日本人が想定できる一番ましな自由は、多分、ガメさんが毒を吸ってしまったような相手に邪魔されない、塩梅のいいシェルター、酸素ボンベなんだと思う。自分の道をさっと切り開くような、闊達な知性と自由ではなく。

    今、日本では前者のシェルター的自由さえなくなりつつあるけど、逆に言えばずいぶん長い間仮初の自由に頼りすぎたとも言える。

    そろそろ、現実を、シェルターなしで、しっかり見つめてもいいんだよ(主語は、日本人の私、です)。現実を、べっとりと社会に絡んだ悪意を、人間の正視に絶えない軽薄さを、劣悪な頭の悪さと彼らの際限無い自己正当化を、しっかり見つめて酸欠のままに対応する自由から始めるしかない。そんなん自由じゃねーや義務だわい、とも思うけど笑。そして、どん詰まりの私にはこれからもガメさんが助けてくれると、とっても心強いけど!

    私にとっちゃ、ガメさんがこのどんづまった同じ行き止まりに来てくれた事へのありがたさや、悪意のとばっちりを食らってしまったのを庇いきれなかった事への申し訳なさがあるだけです。あんなに執拗に、意味のない悪意が飛んでいくなんて。でも、私に自由を教えてくれた後悔はどうかしないで欲しいな。ガメさんの言葉を受け取り切れてるからどうかは自信がないけど、漸くコメントを書く勇気は出てきたんだからさ。

    最後に追伸。少なくとも、ガメさんがニュージーランドで家族と笑ってるだけで嬉しい、と言い切れるだけの自由な精神はもう、私はガメさんから受け取っています。届くといいなぁ。

    • 「日本語を使って考えたり話したりしている時間」って、いつの頃からか悪夢に魘されている時間にとてもよく似てしまっているのですよね。ならば日本語を使う時間を縮小すればいいのだな、とおもったら、ほんとうに悪夢が雨散霧消するので、いっそおもしろい気がしました。

      なんだか言語が不幸の元だというのは、言っては悪いが、ちょっと凄まじい事態である気がします。

  7. 短歌の先生に「その歌は誰に向けて読んでいるのか?今近くにいる親しい人たちへなのか、10年20年100年後の人たちへなのか?」と聞かれたことがあります。
    多分、言葉を重ねる時に、思う相手によって言葉の選び方が変わるでしょう。ということだろうと思っています。
    今の日本語が、ひどく大雑把で乱暴な言葉になってしまったのは、きっと相手や時間や距離を想像できなくなった結果なのかもしれません。

    でも、ガメさんの言葉は、きっと10年後、20年後、この言葉と心の荒野ぶりに我に帰った人たちにとって、きっと良い香りと味わいのある、何かを思い出すきっかけになるものだと思います(今の私にとってもだけれど)。本にもなったことだし、なので、どうか悪夢だとか嘆かないでほしいし、消さないでほしいですよ。くれぐれも。

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