soldering、という。
ハンダ付けのことです。
まあーたあー、ハンダ付けのことならsolderingなんて英語で言わないでハンダ付けでいいのでわ、とおもったそこのきみ、ところがですね、solderingの歴史が長くて、生まれたときに、生まれ落ちた瞬間、三歩歩いて、スタスタスタ、手にもったハンダゴテで天上を指して、我にハンダを与えよ、さすれば、地を空にハンダ付けして世を作らん、と述べたと噂される、わしとしては、ハンダ付けでは言葉にたちこめるべき錫と鉛の匂いや実感がなくてsolderingはsolderingなのでハンダ付けなハンダ付けはsolderingが異なる…なにを言ってるんだか、訳がわからないんですけど。
ともかく、solderingを友として、25Wな楽しみに耽り、ときどき15Wと浮気してしまったりして、危険な関係を楽しんで暮らしているわしとしては、いつものごとく寝転がって、パラパラと、往年の電話帳より分厚い、電子部品/工具チェーンJaycarのカタログを繰っていた手が、はた、と止まります。
え、LEDが付いているのか…!
多分、ずっと前から出ていたに決まっているが、ハンダゴテに、日本語では、なんというのか、ハンダをジュッと溶かす鉄棒の周りを、四つのカッコイイLEDが取り巻いている。
マジスカヤバイカッコヨサジャナイスカ。
スカ。
ハンダゴテを新調すればハンダゴテスタンドも新しくなければ気分として困るので、スタンドを見ると、Soldering Iron StandとDeluxe Soldering Iron Standがあります。
ふつーのやつが$11.9でデラックスなのが$21.9
すごい価格差の割には、矯めつ眇めつみても、スポンジも両方ついていれば、コイルがくるくるしたスタンドの形状もおなじで、なにが違うのか判らないが、大気(たいき)者の、リミュエラ長者と言われる(言われてるんですか?)わしとしては、すなわち、デラックスを選択せざるべからず。
気が付くと、モニが横にいて、カタログを傍らにおいて、いまや55インチモニタの画面を見つめてオンラインショッピングに耽っている、わしの選択を面白げに観ている。
「デラックスがいいのか、ガメ?」
という。
言ってから、失礼にも、ククク、と笑って離れていった。
えええー。
ひどいー
デラックスいいじゃん。
だから奥さんもデラックスを選んだのに。
なんちて
こういう、昔からあるものは、ちょっと眼を離していると、抜け目なく進化していて、例えば、いままで12年余に及んでわしが使ってきたDC12Vチャージャーはただ闇雲に電流を送り込むだけだが、いつのまにか、おおきさが同容量で三分の一になって、鉛蓄電池とリチウムイオン電池を自動的似判別して、100%充電する手前で充電が止まるようになっている。
利便もたいそう改善されて、端子もワニさんクリップだけでなくて、スペード、輪っかのやつや、いろいろな端子が取り替えられるようになっています。
最近で、いっちゃん驚いたのはXiaomiの空気ポンプで、充電バッテリー駆動で、手のひらに入るくらいの大きさなのに、自動車の空気まで充填できる。
インフラタブルのディンギィを膨らませるなんて、あっというまです。
市場がグローバルになって参加者が多い競争になっているからなのか、どんどんどんどん、技術が進化し、使い勝手がよくなってゆく。
なんという、良い世の中。
などと、長すぎる前置きのようなことを考えながら、ブレッドボードでつくって動作を確認しておいた、当たるも八卦、当たらぬも八卦、電子筮竹回路を搭載した基板に部品をハンダ付けしながら、映画を観ている。
東アジアの映画は、むかしは、日本の映画を観ていたが、50~60年代より後の映画は、どうにも相性が悪くて、面白いと思えないので、日本にいたころ「韓流」と名が付いていて、軽井沢の近所のひとなどは、是非、見ないとダメよ、ロマンチックでいいわよ、なんちゃっていても、なんだか剥きたてのゆで卵みたいな印象の顔が並んだ俳優さんたちの顔を眺めているだけで、観る勇気が出なかったが、例の、A Taxi Driver(邦題:タクシー運転手)で、すっかり見直してしまって、ソン・ガンホ主演の映画を全部観て、すっかり日本映画の座を奪って、取って代わってしまったが、その続きで、昨日は「KCIA」を観ていました。
キム・ジェギュ(金載圭)がパク・チョンヒ(朴正煕)を暗殺した事件を扱った映画で、韓国のひとびとが、戦後、一歩一歩、民主社会を勝ち取っていく歴史を描いた映画のご多分に洩れず、たいへん面白い映画だった。
おおげさに述べれば、ハッとするシーンもあって、パク・チョンヒとキム・ジェギュが、ふたりだけの部屋で、食事をつつきながら、共に革命(と、いっても通常の歴史認識ではクーということになるでしょうが)を起こすべく決死で起ち上がったころの思い出話をするのに使う言語は日本語なのです。
1963年から1979年まで大統領だった朴正煕は、日本名、高木正男、旧帝国陸軍士官学校の出身であり、その朴正煕を殺害した南山の中央情報部長金載圭は、日本名、金本元一、日本帝国陸軍の特別幹部候補生でした。
かつての盟友朴正煕を殺害するときに金載圭は同席していた恨み骨髄のチャ・ジチョルも同時に殺しますが、チャ・ジチョルは、アメリカの士官学校ウエスト・ポイント及びレンジャースクールに留学した人で、考えてみれば、日本語世界を背景とした金・朴の時代から、アメリカの影響が強い時代に社会の指導層が移行する劃期としてKCIA事件は位置している。
そういうことが、よく判るように描かれた映画で、観ているうちに、自然に60年代~90年代の韓国史の本を買い集めたくなって、よい映画を生み出せる国というのは、こうやって自分の文化への理解者を国外に育てていくんだなあ、と考えたりする。
オークランドは成功した多文化社会で、アジアも生活のなかに溢れているが、なんにも観ない人というのは観ないもので、話していても、わし近所のひとびとなどは、老いも若きも、仕方がないといえば仕方がない、差別もなにも、まったく関心がなくて、CBDやノースショアに行けば、何十という数である、韓国系人自身が「世界一」という韓国料理店に行ったこともなければ、いまどき英語世界中、トップベーカリーといえばベトナム人たちの経営だと決まっていて、オークランドもご多分に洩れず、バゲットもパイも、おいしい店はベトナムの人たちがやっているが、チョーおいしいパイやバゲットと並んだ、生春巻は、どうも「ない」ことになっているようで、おお、あのベーカリーは、あなた生春巻が絶品なのですよ、と述べてもキョトンとしている。
ニュージーランドはオーストラリアと較べて、ポリネシアやアジアの人がおおくて、南ヨーロッパ人や(アジアのなかでも)インドネシア人が少ないという特徴があるとおもうが、その割には昔からヨーロッパ、ヨーロッパで、なんでんかんでんヨーロッパのものならビンボなりにカネに糸目をつけずに出して、その実、存在していないかのように振る舞うアジアのオカネで生きてきた。
もったいない、といつもおもう。
いつものこと、「おいしい店紹介」だかなんだかで、名前に聞き覚えがある、クルマで通りかかったベトナム人夫婦のベーカリーに行って、ステーキ&マッシュルームのパイを買って、ふと見ると、チェックアウトカウンターの上にスープらしきものが入ったポットが置かれていて、ふたを開けて見ると、見ただけでおいしいと判るような姿で、おおおっ、カウンターでニコニコしているおばちゃんに「これ、なに?」と訊くと、
「チキン・スープ。おいしいよ!世界一だよっ!買っていきなよ」という。
これがね、あとで判明したが、涙が出そうになるくらいおいしいスープなのでした。
クランチーなセロリが細かく切られて入っていて、味わいの深さは、どうしたってフランス料理のものです。
それがでっかい紙のカップになみなみなみと注がれて$3(200円)
支払いをしながら、ほんとにおいしそう、と述べたら、
それがアジアの人のサイコーにいいところで、ニカッと笑って自信満々、もういちど、
おいしいよ!
めっちゃ、めっちゃ、おいしいからね!!
食べてカンドーして、また来なきゃダメだよ!!!
なんだか、その短い言葉のやりとりだけで、午後のあいだじゅう幸福で、いいなあ、あの店、ほんとにいいなあ、幸福がいっぱいつまってる、スープも、なんだかよくわかんない愛がいっぱいつまっていたよなあ、と考えていました。
他愛のない一日が経って、例の露天ホットタブに浸かって、星空を見上げながら、なんだか、あっというまに時が過ぎてしまうなあ、と考える。
時間は水が流れるような線形なものではなくて、ワープしたり、滞ったり、階段関数的であったり、意識の流れなのかとおもえば、そうでもなくて、須臾と一年が等価であることすらある、なにか時間自身が自分の意志を持っているようなところもあって、遙かなむかしから人間にとっては理解しがたい存在だった。
時間だけは言語が形成する意識すら受け付けない。
正体は判らないが、時間となかよくする「コツ」のようなものはあるようで、やむをえないときは計画するしかないが、そうでなければ、今日一日、この一時間、いまの一瞬を「よりよく生きる」ことに集中するほうが、意外なことに、先を見通して生きるよりも結果は良いらしい。
現実に拘泥すること。
現実の細部に拘泥すること。
手で触れられて、あるいは言葉を交わせて、一緒に笑えるようなものに価値をおくこと、社会から見た自分などというイメージが少しでも介入すると、そこで自分にとっての時間自体が死んでしまう。
よく考えてみると、人間が過ごす時間には恐ろしい仕組みがたくさんあって油断すると、まるであらすじだけの物語にように、なにも起こらないうちに死の床につくことになる。
明日、死んでしまうかも知れないけれども、確率上、考えて、これからあと30年なのか、40年なのか、50年ほどもまだ生きているのか、いずれにしても、成長というものの性質で「ムダな時間」ということがありえなかった20代までとは異なって、自分にとって本質的なこと以外にかかずらわっているヒマはもうないことだけは、確かであるようでした。
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消さないで欲しいなー
こことか
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時間となかよくする「コツ」のようなものはあるようで、やむをえないときは計画するしかないが、そうでなければ、今日一日、この一時間、いまの一瞬を「よりよく生きる」ことに集中するほうが、意外なことに、先を見通して生きるよりも結果は良いらしい。
現実に拘泥すること。
現実の細部に拘泥すること。
手で触れられて、あるいは言葉を交わせて、一緒に笑えるようなものに価値をおくこと、社会から見た自分などというイメージが少しでも介入すると、そこで自分にとっての時間自体が死んでしまう。
>今日一日、この一時間、いまの一瞬を「よりよく生きる」ことに集中するほうが、意外なことに、先を見通して生きるよりも結果は良いらしい。
以前にも同じことをおっしゃっていましたよね。
座右の銘にしたい。
読みました。僕も、オダキンさんが抜粋した箇所が、とても好きです。
全部は読めてないですが、ガメさんの日常を描写したものは格別好きです。気ままに生活を楽しむということの豊かさを感じます。
今の日本ではより難しくなってる気がしますが、翻って「政治的な人間になるな」という言葉を思い出します。まず、生活。
僕実はハンダコテ屋で働いてるのです。
なんか、凄い嬉しかったです。今回の記事。
そんな日は来ないかもしれないけれど。ハンダコテとはんだ付けのことなら。何でも聞いて欲しいなぁ。
記事、ありがとうございました。
うっひゃああああ!
良い職場ですね。
書く必要もないので、オーストラリアやNZのハンダゴテって、日本のものに較べると、出来が悪いんです。
日本にいたときに、ハンダゴテと包丁は、もっと買っておけばよかったなあ、とおもう。
>僕実はハンダコテ屋で働いてるのです。
道具ってついついこだわってしまいますね。先日トンカチ買いましたが、買うまで握りの部分にこだわったり、頭の部分にこだわったりと、、、まあ楽しい時間ですね。韓国映画はシュリやJSAが好きでした。
やったー。再掲載してくれて、ものすご嬉しかです❣️
ガメさんが教えてくれたものは、たくさんあるけれど、自分という友達と仲良くすること、時間を大切にすること。
毎回、なんでこんなにすんなり心に入ってくる言葉で書けるとかなぁ。
美味しかもの食べるって、ほんと幸せ。