日本語という病 2

To know two languages is to posses a second soul.

とカール大帝が述べている。

この人は読み書きが全く出来ない多言語話者だったので、言語は読み書きが出来る人間にとってよりも生々しい存在で、単純な実感を述べたのだろうとおもいます。

Cognitive scienceが発達した現代では、言語の違いが世界認識をどう異なるものにするか、いろいろなことが現実/科学の裏付けを伴って判っていて、その一端は、例えばLera Boroditskyが、余計な事を言うと彼女にとって第四言語である英語でTEDで判りやすく述べている。

ここで紹介されているアボリジニの部族Kuuk Thaayorreが「右」や「左」という自己から見た相対方向感覚を持たずに、いわば自然の絶対座標である東西南北を用いて、「きみの右にいるカンガルーは」と言わずに「きみの北北西にいるカンガルーは」と述べて、あるいはLera Boroditskyが例に挙げるように

「きみの南西方角の足に蟻がいる」というような言い方をすることや、英語で淡い青も濃い青も色彩カテゴリとしては同じ青色であるのに、ロシア語では淡青色はgoluboy、濃い青色はsiniyで異なる色彩として意識されている、というような例は、言語と認識の世界では有名な例です。

英語人が、まず青色であると認識して、そこから濃淡を見極めていくのに対して、初めから異なるふたつの色として淡青色と濃青色を認識しているロシア語人は、青い色彩の認識速度が英語人よりも物理的に速いことが知られている。

カール大帝、シャルルマーニュが言うように、実際に、ふたつの言語を話す人がふたつの魂を持つかどうかは、ひとまず置いて、言語が世界認識、ひいては思考におおきく影響することは、ふたつ以上の言語で思考できるひとにとっては、ほぼ直感的にも明らかでしょう。

日本語でフォーラムやslackの閉じた空間をつくると、内部の空気が異常なものになって、ほぼ狂気と呼ぶに相応しいものになりやすい。

観察していると、日本語の場合、参加者が、なかよし同士、同調する発言しか出てこないので、互いに「それはちがうのではないか」と批判修正しながら観察や考察が深まっていくかわりに、全員の「空気」が向かう方角を、たいした検討もなしに、てっとりばやく「真」であるということにして、頌を謳ったり、憤激が暴走する。

日本語にも、科学技術が発達した社会の言語には遍く存在する、十分な論理的表現能力が備わっているが、厄介なことに情緒や感情を輻輳する表現が過剰に豊富で、話者が十分にそれを意識できていない場合には、「感情オバケ」のような言語に姿を変えて、「自分が正しいとおもったことが正しい」「あいつは嫌なやつだから言うことはすべて虚偽である」という、野蛮な、愚かなことこのうえない「論理」を展開しはじめる。

しかも、ときには、それを言語集団まるごと展開するので、あっというまに社会全体が狂気に囚われてしまうのは、ISISなみの乱暴さで国家をつくっていって、いまに禍根を残す明治時代や、太平洋戦争に向かった時代の日本の、あとで振り返ると唖然とするほど謬った考えを、いわば国民全体で信じ込んでしまって、歴史に珍しい国家的暴走を繰り返したのは、それこそ日本語の本でも、書いてあるものが、いくらでもあります。

日本語は、感情と距離を保ちにくい言語で、社会全体が論理性や知力への拘りを怠るようになると、俄然、恣意と感情に振り回される集団狂気の伝播媒体になる。

いまは、ちょうど日本語にとって、また訪れた、その時期で、正直に述べて、他言語人から見て、びっくりするような、いまの日本語社会の不誠実さや愚かさは、「感情的に受け入れられる発言ならば現実とは異なっていても現実だということにしてしまう」日本語の強い意志が引き起こしたように見えます。

ほんとうは真実でないことが真実と印象されることによって、話の前提がおかしくなって、なにしろ現実でないことを現実のように見せかけた嘘話を現実として共有しながら話が進んでいくので、どんどん話が奇妙になってゆく。

例を挙げても仕方がないような気がするけれども、具体例を挙げるのは、癖なので、挙げると、

「風評被害」は、どういう形で、いつ顕れるかは判らないが、危険であるに決まっている放射性物質が収拾がつかないほど拡散してしまった事実を認めたくない社会としての「気持ち」が強かった結果、生まれた言葉だった。

あのとき、具体的には福島事故の細部には、たいした関心を持たないで眺めていた日本趣味のひとびとのあいだですら、「食べて応援」のフロントに出て、大口を開けておにぎりを食べたりしていた人たちが、さっさと死んでしまったりしたことが話題になって、「でも日本の人が、因果関係を認めるわけないからなあ」と述べて、要するに他人事で、しばらくは顔を見合わせていたが、すぐに意識からなくなっていった。

日本社会にも風評被害ではなくて現実の危険なのではないか、と述べるひとたちも、いるにはいたが、「そんな不確かな中傷をして東北の人達に申し訳ないとおもわないのですか」という「真摯」な声に圧されて、沈黙していった。

COVID禍が起きて、欧州やトランプのアメリカで人がばたばたと倒れて、それであるのに日本ではパンデミックが拡大しないと看て取ると、すっかり嬉しくなってしまって、「日本人は民族として特別にコロナに強い体質だ」

「いやあ、BCG接種がよかったんだね」と、あたかも無知蒙昧なひとびとのように盲目的なことをのべあって、頌を謳いあげはじめてしまって、折角、オリンピックも一年延期したのに、そのあいだにいったい何をしていたんだ、と怒り出す人たちが出てしまうほど、まったく何もしないで、ウイルスが拡散して猛威を揮うまで、ほったらかしにしていた。

当たり前だが、時期は異なっても、日本でもデルタ・ラムダ変異株によって被害が出だすと、驚くべし、無意識に「通りでひとが倒れて死ぬ」という海外から頻々と伝えられた絵柄を怖れてでもあるのでしょう、病院の通路にベッドを並べて、野戦病院化させて必死に患者を救うよりも、公の目には触れないように「自宅で死んでね」ということにして、これに「自宅療養」という、なんだか理屈のうえから言って訳がわからない名前をつけることになった。

見ていて、あんまりだ、と考えた人がツイッタなどで、おかしいのではないか、と述べると、それが言葉の誤魔化しにすぎないと判っているひとびとでさえ、「日本は言霊の国だから仕方がないんですよね」と、自己を無力化して、澄ましている。

江戸時代の旅籠では、川が増水して渡れなくなって、宿泊客があふれだすと、畳一枚のおおきさもない衝立をたてて、ひとつの部屋をいくつにも別れた部屋として使ったというが、なにがなし、そういうことを思い出させられる、言語の現実からの乖離で、日本語という言語には、どうやら、都合がわるくなって、にっちもさっちもいかなくなると、現実を切り離して、無念無想の境地に入ってしまえる能力が備わっているようです。

戦後日本の歴史を見ると、こういう状況に至ると、必ず、これは現代のインパール作戦なのだ、敗走を転進と言い換えた歴史の繰り返しだ、ずるずると戦争を始めて、負けを認めなかった軍部と同じだ、という声があがるが、その反応自体が、日本語世界のなかで、いわば予定された、カタルシスを求めた紋切り型の批判で、現実から言葉をそらす役割をもっていて、「慰安婦」問題批判や、政府の方針を激しく非難して、まるで自分の日本語人として省みるべき責任や罪への免罪符とみなして、自分を加害者集団から切り離して、他人を攻撃することによって、逆に糾弾者として振る舞うことを可能にする。

外から見ていると、全体が、日本語世界的な、外からみると国民をあげての欺瞞でしかない、内側を向いたゲームで、ああ、またやってるんだな、と皆がおもっている。

日本語の外で普段暮らしているほうは、いつまで同じことをやっていられるか、いつまで堂々巡りを繰り返して倦まないか、に興味が遷っている。

日本語社会が立ち直るには、日本語自体をまず立て直さなければならないが、そのためには、日本語を社会的な観点から分析できる人が出てこなければ無理であるようにおもえる。

日本語自体の現実認識能力が情緒/感情や集団的な、元を糺明してみると、なにも現実が存在していなくて、ただ誰かが嘘を何百回も繰り返し大声で叫ぶことによって現実と錯覚させているというような事態が、あそこにもここにも転がっていて、狂気によって白濁しているからで、日本語は言語として、それ自体、一種の、伝染性の強い、言語の病に取り憑かれてしまっている。

悪い事にSNSという媒体は、日本語文化においては、狂気の拡散装置として優秀で、インターネット以前よりも、ずっと速いスピードで狂気と誤謬が伝播していく。

こういう事態に立ち至ったときに、正気でいられるのは、異なる言語に拠って、異なる思考を行える人間だけだが、外国語を日本語に翻訳する能力と「ふたつの魂を持つ」能力は、すでに質的に異なる能力なので、現実の問題として、そうそう簡単に身に付ける、というわけにいかない人もいるかもしれない。

日本語のなかで、日本語だけに取り巻かれて暮らす日本語人が正気を保つのに最も有効な方法は、「自分の時間」「自分のペース」というフォックスホールに立てこもって、社会言語としての日本語の思考の奔流をやりすごすことであるように見えます。

「首相が無能力だ」という、ひとによっては「当たり前ではないか」「自明だ」とおもう話題についても、わざと判断を遅らせて、その場では自分の魂に向かって即答せずに、話題を反芻する癖がある人は、結論はおなじでも、「当たり前ではないか」という打てば響く即答には、どこかしらまっとうでないところがあることに気が付くに違いない。

それが社会から借りてきた最も確からしい結論の選択肢であるに過ぎなくて、自分の頭が自分の言葉で検討した結果でないことが判ってしまう。

思い切って言ってしまうと、日本語に限らず、SNSという形式は、十分に考えたことを社会に向かって「発表」することは出来ても、ひどい言い方をすれば、それはテレビCMのようなもので、主体の番組のほうは、SNSでは形成されようがない。

またしても余計なことを述べると、ツイッタでフサコさん @Biwakaba1310 が指摘していたが、社会や政治について発言したり活動したりする人間が、フェイクか真か見分けるのに、最も手堅く、簡便な方法は、自分の生活を支えるだけの実質を伴う職業を持っているかどうかを見るのがよい。

なんだ、それでは、レッドネックのおじちゃんたちと言うことがおなじじゃない、と言われそうだが、考えてみると、やや乱暴ではあっても、なかなか堅実な方法で、例えば下品な言い方をすると英語世界でも多い人権活動家を標榜して職業にしている大半の「活動家」は論外として、アカデミアの外に位置する大学のバイト講師である「非常勤講師」を「大学教員」という看板に書き換えて盛んに発言しているひとが日本語世界にはたくさんいるが、無職とおなじようなもので、では彼女/彼がどうやって食べているのか、という具体的想像力を働かせてみると、そのひとたちの「視座」がどこにもないことに気付く。

人間の最も健全な社会との関わり方は、普通の人間にとっては、自分が食べている職業を通して社会を眺めて、観察して、異常を感じ取ることで、物理学者が政府や東電の発表を見て落ち着かない気持ちになったり、医学者が、政府の発表に虚構を感じたりするのが例で、自分の職業というフォックスホールから見た眺めが、個から社会を見る視点としては、最も確かなものでしょう。

ずいぶん厳しい言い方だと思う人がたくさんいるとおもうが、一人前の職業なしに空想的でない細部を持った社会を「見る」のは、現実の問題として、たいそう難しい。

ところが日本語では現実といったん切り離された観念のレベルで言葉のやりとりが進むことが多いので、実際見ていると、そこで使われている「論理」自体が実は詭弁にしかすぎないことが、他言語に較べて、圧倒的に多いようにおもえます。

ニュアンスや情緒や感情がまとわりつきやすい日本語の特徴は、手紙や日記、一人称文学においては、素晴らしい表現を生みだすが、眼の前にある現実を写実的に述べて、他者の前にポンと提示することが苦手であるように見える。

その結果は、レトリック、といって判りにくければ「言い方」しだいで、真実/現実のほうが、どうとでも印象されるという言語としては危険極まりない倒錯が起きている。

すべての議論が堂々巡りに陥り、ムダがムダを生んで、日本社会が、どうしても先に進めなくなってしまったのは、言語の内部膠着が、理由のひとつであるように思えて仕方がないのです。

この次は、より多くの具体例を挙げながら、いま考えていることを敷衍していければ、と考えています。



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9 replies

  1. > 日本語では現実といったん切り離された観念のレベルで言葉のやりとりが進むことが多いので、実際見ていると、そこで使われている「論理」自体が実は詭弁にしかすぎないことが、他言語に較べて、圧倒的に多いようにおもえます。

    > ニュアンスや情緒や感情がまとわりつきやすい日本語の特徴は、手紙や日記、一人称文学においては、素晴らしい表現を生みだすが、眼の前にある現実は写実的に述べて、他者の前にポンと提示することが苦手であるように見える。

    > その結果は、レトリックと、といって判りにくければ「言い方」しだいで、真実/現実のほうが、どうとでも印象されるという言語としては危険極まりない倒錯が起きている。

    本当にそのとおりですが、もうひとつ、日本語話者の致命的な欠点として、自分が立てた仮説をブラッシュアップしていく、という議論の進め方をしないことがあります。

    自分は多様な意見を募りたいのでそういう議論の進め方をしますが、日本語話者は、自説に執着し、否定されると、『自分を認めないのは多様性がない』という言い訳をする人があまりにも多いのが絶望的ですね。

    そこで自分が、あなたのここがおかしいと思うけど、この部分はよい、という言い方をしても、なかなか受け入れてもらえないのが一般日本人と議論する際に面倒臭いところです。
    全面的な肯定感がないと聞く耳さえ持ってもらえませんから。

    英語話者とコミュニケーションするときに圧倒的にラクなのはそういう部分で、どんなに感情的になってる人でも、あなたの意見についてはこう思う、という言い方は認めてもらえますから、冷静に話を進めることができます。

    しかし英語が母国語の人でも日本語で話をすると感情的になるのは、何度か経験しています。
    英語に戻ったとたんに我に返りますが。

  2. ちょうど同じような事を思っていました。
    人は同調出来る意見があると群れる性質があって、それが集団となって内と外を切り分け集団の内側に篭ろうとします。
    所属する事で安心感が得られ、自分で考えなくても良くなるから楽なのですが、集団なので間違いを誰も指摘しなくなる。間違いを指摘することは自分を否定することになってしまうから。

    コロナでも統計学や医療などの学者を中心にした集団がいくつもできていて、事あるごとにお互いの間違いの指摘を繰り返すだけで何も進展がない。

    自己防衛のための情報だけを追うようにしていますが、うっかり言葉遣いを間違っただけでその取り巻きの人から指摘されてウンザリしてそれ以上は何も言わないようにしています。

    ガメさんが言う通り、言語を言語として俯瞰的に見れる人が必要なのだと思います。

  3. 日本語でSNSをしていると感情が沸き立ちます。なにかが頭の中を猛スピードで駆け抜けていってその轟音でぼーっとしてしまうような感覚になります。なので、外国語だけのアカウントを作りました。

  4. 「日本語は感情と距離を保ちにくい言語」という指摘はそうだなあと思います。

    幸い(?)自分の周りにいる人は、というか、自ら意識的に感情が先に立つ集団とは一線を画すために、誰と付き合うかを私は決めています。

    正直なところ「意見なんて異なって当たり前」だと思いますし、23年連れ添った夫でも決定的に嫌いな点はあります。でもね、同時に決定的に愛おしいと思う点もあるのです。そして、夫とは日本語と英語とドイツ語をちゃんぽんで使っているから、感情とのバランスが取れているのかもしれません。(知らんけど)

    今は、日本語社会が滅びてもそれは当然の成り行きのように思います。風前の灯火になっても(それが今ですが)、消えない何か勝ち取れなければそれが宿命というか宿痾だったと思います。諦めましょう。どこまで日本語社会に付き合えるか私自身わかりません。自分の生活学生大事ですから。

    • ラフカディオ・ハーンと節子さんは「ヘルンさん語」で話していたのが有名ですが、洋の東西をまたぐ国際結婚の夫婦って、自分たちだけの言語が出来やすいんですよね(^^)
      横で聴いていて、にっこりさせられます。
      美しいの

      >夫とは日本語と英語とドイツ語をちゃんぽんで使っている

  5. 日本語社会への警鐘ですね。近年SNS上で展開する言葉には目を覆う事が多いですね。

  6. しっかり地に足のついた視座を持って、社会と対峙しないといけないということと理解しました。

    その「地に足がついている」かどうかの一つの見極めが、「自分の生活を支えるだけの実質を伴う職業を持っている立場からの視点」ということだと。

    「どんな窓(視座)を通して周りの世界を見るのか?」と言うのは、僕が初めてパソコンを使った時から感じていたことなので、深く得心しました。

    • 「どんな人の発言に耳を傾けているか」は、その社会の程度が如実に顕れるが、日本の場合は、ちょっと酷い。国民の資質はすぐれているはずなのに、なぜでしょうね

      • 人間関係や議論を「順を追って進める」という事ができていないからではないですかね?

        自分のこと(考えていることやその根拠となる視座、相手と自分の関係といった根本的なこと)を明示しないまま、私はあなたと同じ考えだとか、奴は共通の敵だとか…

        その場その場でのベクトルを示すだけで、どこから発せられたエネルギーなのかがわからない会話ばかりに思います。

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