日本語という病 3

軽井沢の夏の家にいるときには、クルマで、よく望月や立科へでかけた。

日本語は、寂しい。

日本語の美は、結局は、寂しさの美なのだとおもうことがある。

日本語という言語が存在を賭けて訴えているのは、非望であり、決して得られない承認であり、絶対に理解されないことへの諦めであって、歴史を通じて、その非望の自転を繰り返して、あるときは荒れ狂い、あるときは絶望して、力がつきて、復讐に襲いかかって、のしかかる世界の蹂躙のなすがままに身を任せたこともあった。

西

蜻蛉

流れる水

積雲

夕陽

松風

日本語人は、慎重に、形の良い豆を選り分けるようにして、寂寥の象徴だけを世界から選び出していった。

日本に滞在した短いあいだに、モニは、何度、「どうして日本人は悲しいものばかり好むのか?」と、わしに訊ねただろう。

日本のホラーは、少しもホラーではなくて、茫然とするほどの絶望的な悲しみに満ちた人間の哀しみの物語ではないか。

どうして日本人にとっては、これが恐怖の物語と意識されるのか。

日本のラブストーリーは、まったく恋の物語ではなくて、若い人間の寂寥の表明ではないか。

畦道

ポツンとある、孤立した街灯

ホタル

日本の人は幸福を求めない。

陰をつくらない光を落ち着かなく感じるのではないか。

闇はたくさんの感情を含んでいるが光には感情がない。

そのことが、日本の人には、耐えられないのではないか。

西洋を模倣しようとしたのは、言い換えれば、興味に駆られて、異文明に話しかけたのだとも言えるのを、きみは知っていましたか?

もちろん明治国家は、そんなことは考えなかったけれども、個々の日本人は、持ち前の無邪気さと好奇心で、西洋の身振りを真似ることで、「異世界」を感じとろうとした。

いちどだけ、日本の会社から一緒に事業をやりたいという提案があって、出向いてみたことがある。

不思議な会社で、なにもかもアメリカの流行りのIT企業に倣おうとしていることが見てとれたが、会社の根幹の部分は、とてもとても日本的で、社長と主立った役員たちは、初めから、アメリカスタイルの部分は意匠だと割切っているようなところもあった。

招かれて出かけた、その会社で、ぼくは、とても不思議なものを見た。

会社を改革すべく他社から招かれた役員のひとりが、他の日本人に、どういうことなのか、アメリカ人訛りのような日本語で話している。

普通に日本語なのだけど、鼻に抜ける味付けだけが英語風な、精妙な芸のような日本語で、ずっと、そういう喋り方だったが、ぼくが日本語を(自分で言うのはヘンだが)かなり流暢に話せるのだと判ると、自然な日本語のアクセントになっていた。

ふと、明治時代というのは、一面、この人のようなものだったのではないかしら、とおもったのでした。

思い切って異文明に話しかけてみたが、あろうことか、微笑みと、差し出される手を期待したきみが直面したのは、よく言って、こちらを振り返った驚きの顔、有り体に言ってしまえば、軽蔑と生理的な嫌悪で、凍り付いたような表情だった。

嫌なものを見てしまったとでもいうような一瞥をくれて、また、もともと話し込んでいた相手のほうへ向いて、西洋人たちは、西洋人たち同士で、それきり、きみのほうを向いてはくれなかった。

風に揺れている赤く縁取りされた「氷」の旗

無数に並ぶ、娼婦達の、ひとの拳ほどのおおきさの無縁仏の墓

「海」の匂い (あれは、ほんとうは暖かい海に漂うテングサの臭いなのだけど)

踏切の点滅する信号灯、点鐘音

道祖神

 

 

果てしのない孤立の苦しみのあと

きみは狂い立った

自分が受けた侮辱が許せなかった

世界を破壊したいとおもって

軍艦を 戦闘機を 爆撃機を 戦車を 兵士を

つくることに精魂を傾けた

GDP10%にもなれば

国は成り立たなくなるが

日本は、たびたびGDP80%というような軍事費を計上した

きみは世界を破壊するために起ち上がったが

跡形もなく破壊されたのは 国土と きみ自身の心だった

 

 

望月に行くにはね、

国道を佐久穂に向かって下りて、

千曲川を渡ったら

右に折れて

天狗山のトンネルをくぐるの

秋なら

トンネルを抜けた途端 一面の稲穂の黄金の海で

きみは息を呑む

そこから

細い舗装道を通って、もうひとつの古いトンネルを通りぬけると、

そこには

時間の流れが きみのために そっととっておいてくれた空間があって

鳥居があって

所在なげに立っている二基の石灯籠があって

もう神が立ち去ってしまった神社に向かって階段をのぼっていくと

胸を締め付けられるほどの虚無がこみあげてくる

きみは階(きざはし)の下で 思い切り哭くだろう

どこにも見つからなかった「自分」のために

産まれる前に あらかじめ葬られていた

自分という最良の友達のために

 

 

 

日本語は、寂しい。

日本語の美は、結局は、寂しさの美なのだとおもう。

日本語という言語が訴えているのは、非望で、決して得られない承認で、決して理解されないことへの諦めで、歴史を通じて、その非望の自転を繰り返して、あるときは荒れ狂い、あるときは絶望して、力がつきて、復讐に襲いかかって、逆に征圧されて、のしかかる世界の蹂躙のなすがままに身を任せたこともあった。

日本はね。

ところが、現実に存在する国なんです。

なんだか信じがたいことだけど。

小さな小さな、でも明然と独立固有の、文明と共に立っている

どうだい、おれ、すごいだろ?

胸を反らせて、悪態をついて、傲然と、世界中、おれに憧れているのさ、と嘯いて

佇んでいる

いつかは、きっと、誰かが、なにもかも判ってくれて

暖かい抱擁をくれると信じている

寂しさと、切なさと

耐えきれないほどの

(いま行くから、待っていて)

(なんの力にもなれはしないけど)

待っていてね

 



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14 replies

  1. (この記事はなぜか明日8月7日付になっているけど)
    今日、8月6日に日本人の私が望むことはただ一つ、世界平和 です。
    日本から原発がすべてなくなって、世界から核兵器が根絶される日が来ることを望みます。

    昼間には蝉しぐれ、夜には虫の音が聞こえる今日、菅義偉は広島で原稿の肝心な部分を読み飛ばした。嗚呼 何が悲しくてあんな人間が首相になっているのか。

    • あ。ほんとだね。

      NZと日本の時差のせいですね。

      未来から投稿したわけではありません (^^)

      >この記事はなぜか明日8月7日付になっているけど)

  2. 松籟とゆ~のを聞いたことがありますか
    松籟を聴けばあの世の声がする とゆー
    アレです
    私は ちょうどお盆の時期の今頃
    帰省していた息子と彼女を伴って
    鳳来寺山にお参りしました
    階段ばかりの表参道ではなく
    車でチャット行くことができる 裏参道を利用しました
    お参りを済ませた帰り道 駐車場手前の山道で
    かすかにワイワイと人の声のやうな声が聞こえました
    この世のものならぬ声
    ああ これが松籟とゆ~ものか なるほど
    と思いました
    見上げればはるか上の方に
    松の老木が枝を広げています
    盆栽を観ればわかるやうに 松の古木は枝先が細かく分かれて
    しかも細かい皮がついてごつごつしています
    此処を風が吹き抜ける時 枝先が細かく振動して 共鳴して
    あのやうな 亡者がわいわい騒いでいるやうな 不思議な音が出るのでせう
    中々体験すること稀な 閻魔様への土産話を
    経験することができました

    またこののちには オトシブミが
    道に落ちていたのを拾うことができました
    落し文開けば母の便り哉

  3. 凄いなぁ。一言で言っちゃった。

    > 日本語という言語が訴えているのは、非望で、決して得られない承認で、決して理解されないことへの諦めで、歴史を通じて、その非望の自転を繰り返して、あるときは荒れ狂い、あるときは絶望して、力がつきて、復讐に襲いかかって、のしかかる世界の蹂躙のなすがままに身を任せたこともあった。

    自分は、これに反発して過ごしてきた日本での生活だったように思います。

    > どうだい、おれ、すごいだろ?
    > 胸を反らせて、悪態をついて、傲然と、世界中、おれに憧れているのさ、と嘯いて
    > 佇んでいる
    > いつかは、きっと、誰かが、なにもかも判ってくれて
    > 暖かい抱擁をくれると信じている

    日本は母系社会で女性文化ベースだから、この箇所は日本のさびしいおじさんたちの本質を突いているなと直感しました。
    おじさんたちは、本当は自分たちがちっぽけな存在だと本能的に知ってるからこそ、虚勢を張りたがるのだということが日本の社会にいるとわかってきます。
    明治時代以降、あえて女性を制度上押さえつけてきたのは、そうしないとどうしても自分たちの社会的地位が守れなかった、というのを本能的に知ってたからでしょう。
    日本はほっとくと、どうしても女性が上位にくるのです。たとえ社会的地位が低くても、社会のキモを握っているのはすべて女性です。
    もともと男性優位ではないから、男性は、虚勢を張らないと存在感がなくなってしまう。
    何のために自分がいるのか、わからなくなってしまうのです。

    若い時はこういう虚勢が大嫌いで、全部拒否ってたんだけど、いまは、ひとによって対応を使い分けてて、悪意さえなければ、ときには話を聞くことも多くなりました。
    あまりにも身の程知らずだと殴り倒してやりたいと思うことも相変わらずあるんだけど、でも、その人から本当は自分ってちっぽけな存在で、さびしい、という気持ちを感じるときは、あえて知らないふりをすることができるようになりました。

    • 個人を社会的機能を果たす部品だと看做して役割を振り分けると、男も女も人間でいるチャンスを与えてもらえない。部品はどこまで生きても部品なんですよね。社会っちゅうのは、設計が歪んでいると、個人にとってはたいへんな負担ですのい。

  4. 日本語Twitterに心底うんざりしてしまったのと、妙に仕事が忙しくなってしまったのとでしばらく離れていたTwitterを覗いたら、なんとガメさんの新記事が出てるじゃないか。やったね。生きていると良いこともある。

    > 不思議な会社で、なにもかもアメリカの流行りのIT企業に倣おうとしていることが見てとれたが、会社の根幹の部分は、とてもとても日本的で、社長と主立った役員たちは、初めから、アメリカスタイルの部分は意匠だと割切っているようなところもあった。

    僕の仕事上、こういう会社は割合よく出会って、やってること自体は真似てるんだけど、その「やり方」がまるで日本式なことが多い。個人的な観察としては、経営陣自身は自分たちでは真正のアメリカ式でやってるつもりなんじゃないかと僕は見てます。物の見方や進め方のベクトルが綺麗に裏返しになっていて、根幹が極めて日本的であることに、自分たちでも気づいていないんじゃないかな。

    日本語は寂しい。確かに。

    夏は特に、死と寂寥の季節に感じる。ひぐらし、入道雲、お盆の夜の回る灯籠、とかね。
    真夏の、焼けるような日差しとうるさい蝉の声の中で、黒々とした影と静寂に意識を向けている。

    言われてみれば変だよね。

    日本語が現実をうまく捉えられなくなったのは、言語の射程があまりに短く、低いところに向けてしか発せられなくなってしまったからじゃないか、と思う。

    神という垂直な絶対の基準を持たなくても、水平方向に、たとえば異なる文化や、異なる世代を射程に入れていれば、ちょうど三角測量の要領で現実をそれなりの精度で捉えられるんじゃないか、これまでそうして来たんじゃないかと思う。

    日本語にはいつも、外部のいつかどこか、遠くに向かって憧れがある。日本語人は、その遠くのなにかから、必ず遅れていて欠けている存在として自己規定されている。そうでないと、言語とその社会がうまく機能しないんじゃないかな。

    日本語社会は、確かにまるごと狂気に包まれていて、日本語で思考している限り、自分も狂気の中にいるはずで、現実が視界の端で歪んでいるような常に船酔いのような、そんな感覚の日々が続いている。

    最近は英語版の聖書を読んでいて、その間は船酔いが多少止まる。最初はえらく読みにくかったけど、慣れると日本語より読みやすい。

    ガメさんの文章も効くね。狂気止めに日本語練習帳はいかが?

    • 場所が変わっても、またカズさんと話ができると嬉しい。日本語ツイッタは、grumpyで軽躁な件のひとびとに消費されてしまったのね。
      もう議論や茶飲み話の場には戻れないでしょう。壊れてしまった。日本語人は、折角、他文明人がつくった場を、手当たりしだいに廃墟に変えてしまう。
      残念だけど、何度も繰り返すところをみると、変わらないでしょうね

      • ありがとう、ガメさん。僕も嬉しい。
        うまく言い表せないけど、世界の遠い場所にガメさんがいると思うと、なにか救われるような心持ちがする。

        >日本語人は、折角、他文明人がつくった場を、手当たりしだいに廃墟に変えてしまう。

        特に「善意に基づく・オープンな場を・みんなでメンテナンスする」っていうのが、丸で出来ない。もう徹底的に致命的に出来ない。結局、日本語でやるのは無理なんだろうな、という結論にどうしてもなるよね。

        Twitter、居心地の良いパブみたいで、楽しかったんだけど。。
        いろいろ考えると、今の「Twitterはお知らせ・お話はコメント欄で」方式が、一番良さそうに思います。

  5. カタカナは悲しくない
    タワービル
    アスリート
    カフェバー

    カタカナ増えて日本語が亡びるのかなぁ。

  6. 時々日本語で歌を書いていると、
    「日本語って喜びや幸せについての語彙や表現が少ないな」と思うことがあります。

    • 近頃はそれ程でもなくなったように思いますが、私が小さかった頃(50年位前)に時々思ったことは、なぜ日本人はこんなに短調の歌が好きなんだろうか、ということでした。

      • メロディそのもの(明治政府が12音階をイギリスから輸入してくる前)からそうなんですよね。
        日本の言葉に、視点に、世界観にあっているのでしょうかね。

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