海熱がぶり返して、最近はもう、取り替え引き換え、古いのや新しいのや、大小のボートやヨットに乗って、隙さえあれば水の上に出かけているので、だんだん水上生活者に近い趣になってきた。
おかあさまとおとうさまが不良になってしまって、よほど天候が悪くなければ、海の上で遊んでばかりいるので、小さいひとたちは世を儚んで、あるいは「世界」という、この判りにくい、自分たちが生まれ落ちてきた場所を理解するために、家の人達や、個人教師について、本を読んだり、オベンキョーに勤しんだりしているようで、世の中に、ダメ親を持つことほど子供にとってよいことはない、という言い伝えを実証している。
子供たちが家の奥で、家人たちと、宇宙のさまざまな不思議に、子供の真剣さで驚嘆に目を見開いているころ、おかあさまとおとうさまは、冬の、ひと目のないコーブで、錨をおろして、あんないけないことや、こんなひとにいえないことに、夢中になっていたりして、時に、神様を羨ましがらせるために誰も見ていない甲板の上で、没頭して、そのまま昼下がりまで眠りこけたりしていて、おとなというものは、子供の想像を越えて遙かに野放図なものです。
海の上にいると、地球は要するに水の惑星で、2050年には百億だとかのバカバカしい数になるという人間などは、水の広がりに較べれば、圧倒的に小さな陸地の、そのまた端っこの平らな部分に、へばりついて、牛を飼い、豚を飼い、これもまた海洋の、陸に近い、ほんの小さな領域にしか棲息しない魚を釣ったりして、暮らしている。
当然、人間の生活は海洋という「莫大な水の量」の安定性に依存している。
水は、人間が垂れ流すありとあらゆる汚染を稀釈し、温度を安定させ、対流して、大気とのあいだで循環して、いわば惑星としてのホメオスタシスを保っている。
地球の温暖化は、この恒常性維持装置が、安定を保つためにいくつか持っているフェーズのうち、肌理の細かい安定から、目の粗い安定への移行であると理解される。
どうやら、ほんとうに人間の生活活動が地球に与える反作用が地球そのものの反応を呼び起こすという、過去にはありえなかった、前代未聞の事態であるらしいが、地球側にとっては、原因は、案外、どうでもいいことであるようです。
とにかく、現実として、ひとつの安定系から新しい安定系へ、地球は移行しようとしているように見える。
年平均気温が1℃変わるというのはたいへんなことです。
真夏に28℃だったのが29℃の毎日になる、というようなものではなくて、30℃を越える日があるのがニュースになっていたのが、35℃というような気温が頻出するようになる。
しかも気候変動の影響は、皮肉なことに、人間にとって最も住みやすかった緯度帯で、最もおおきいので、いま世界地図を見て、日本や欧州、カリフォルニアやフロリダがあるあたりが、最も壊滅的な打撃を受ける。
見たこともない豪雨、酷暑、ハリケーン、タイフーン、例えば日本でいえば、いままで逸れていたはずの台風が、ちょうど日本列島を直撃するようにコースを変える。
繰り返すと、人間の側にとっての最大の問題は、「莫大な水」がつくりだす惑星のホメオスタシスにとって、これが乱調ではなくて、ひとつの安定から次の安定への移行であるということで、簡単にいえば、地球という環境そのものが、人間の生活にあわない気温や、天候で安定してしまうので、これからはずっと、こんなもので、例えばカナダのやや北の内陸は、返って住みやすくなるというが、残念なことだが、日本列島などは、人間が住むには、かなり無理をして適応しないと難しくなっていきそうです。
海のうえにいると、考えて見れば当たり前の、地球は人間の都合で恒常性をどのように保つか決めているわけではないのだ、というチョー当たり前のことが、つくづく実感される。
地球に口が利けたら、温暖化による異常気象で「地球さん地球さん、これでは、わたしたちは生きていけないんですけど」と述べる人間たちに「それは、あなたたちの問題でしょう。ボールは、あなたがたの側にある」と言いそうに思える。
わしとーちゃんが、よく妹とわしとをカタマランで連れ出しては述べていた、「海から眺めなければ陸上で起きていることは判らない」という意味が、ちょっとだけ判ってきたような気がします。
あれは自然の現象に限らず、人間の性(さが)のようなことも含めて、政治も、経済も、あらゆることを含めて、という意味だった。
飛行機やクルマとおなじで、日常性からはみ出て、ボート熱が「ぶり返す」のは、きっかけは新しい、面白いボートを手に入れて、おお、と思うからで、今回は、セミプレイニングという1960年代~80年代に流行したクラシックボートを買ってみたら、予想外に面白くて、それまではヨットと、ディスプレイスメントと言って、ごくゆっくりと、静々と移動するボートが好きだったのが、いちど海で見かけたら、航走の仕方がかっこよかったので憶えていた、セミプレイニングの魅力に打ち負かされたからでした。
ノックアウトですねん。
ディスプレイスメントというのは、典型的なのは例えばKadey-Krogan
で、クルージングスピードは7~9ノット、最大速度で12ノットくらいだろうか。
すんごく遅い代わりに、なんといえばいいか、走り方のマナーが良くて、しかも、シリーズ中最も小さい、最も廉価な44フィート船でも、やる気になれば、ちゃんと例えばサンディエゴから、ホノルルに立ち寄って、フレンチポリネジアを経て、オークランドというようなブルーウォーター航行ができます。
レンジローバーやディスカバリ、ディフェンダーは昔から製造元のランドローバーが主催するアフリカ横断や縦断のツアーがあるが、あれと同じ事で、Kadey-Krogan同士で船団を組んで、パナマから、一気にニュージーランドに渡洋するひとたちもいる。
帆走するヨットと異なって、世界一周というわけには、なかなかいかないとおもうが、それでも調べてみたら、やってみたことがある人もいるかも知れません。
セミプレーニングは、そのディスプレースメントと異なって、沖合に出ると、スピードを上げて12~14ノットで巡航する。
それまでディスプレイスメントと同じ航走の仕方だったのが、後舷を落として、いわば日本語でいう「モーターボート」のイメージで走るので、そのときの安定しているのにスポーティな感じが、品がよくて、すっかり気に入ってしまった。
セミプレーニング自体は、ババリアのセダンなどは、近いが、時代が忙しくなるにつれて、ほとんど巡航速度が24ノット程度のアウトボード(船外機)やスターンドライブの小型船に取って代わられて、最も良い選択は、60年代くらいのデザインの船をフルリストアして、新品同様にした、ちょうどクルマとおなじで、なるべくオリジナルの部材を残したクラシックボートが良いようです。
腕の良いマリンエンジニアや船大工さんたちが揃ったヤードから引き取って、満面の笑みを浮かべて、デヘデヘしながら、マリーナに回航してきたら、桟橋で待っていたモニさんが、聡明な人なので口にだしては言わないが、目が、もう完全に「また、へんなボートを買ってきたな」と述べて笑っている。
どうせバカタレな買い物をするなら、手がかからなくてカッコイイ新品を買えばいいのに。
ふっふっふ、へっへっへ、とおもいながら、いつもマリーナのひとびとに褒めてもらえる身の軽さで、ひらりと舷側から桟橋に飛び降りて、ノットノットノットグリッチ、なんちて、ロープで船を固定するわし。
頭のなかはヤードがあるマリーナで見かけた、というか、持ち主に内部をみせてもらった、1947年製の、20フィート(!)のちいちゃなちいちゃな、でも威風堂々と走るディスプレイスメントが欲しくて、「欲しいよお」で、いっぱいになっているが、昨日の今日で、買いたいと述べると、バスタブに浸かっているときにコーヒーを持って来てくれなくなってしまうかもしれないので、賢明な夫たるわしは、おくびにも出さず、言いません。
前の記事でも述べたが、デルタ型の突然変異株登場以来、だんだん嫌な予感がしてきて、ウイルスのいない「鬼のいぬま」で、人と顔をつきあわせてプランニングで談合したり、市中感染がひとつでも生じれば怖くてやる気がなくなるレストランでの外食や、近所の友達とのパブでのバカ話の午後や、いったん市中感染が出れば、心理的にやれなくなることをやってしまうのに、モニも家の人びとも、わしも、チョー忙しかった。
久闊を叙して、やあ、ひさしぶりだね、ハグを交わして、小さなテーブルを挟んでスタウトを飲む。
二年ぶりに、むかし贔屓だったステーキレストランに出かけて、奥から出てきた店の主人と、四方山話に耽る。
まるでCOVID以前に戻ったような暮らしぶりだが、午後、家にもどって、杉の木の匂いがするホットタブに浸かって空を見上げていると、ごく自然に「もうそろそろ来るだろうな」とおもう。
政府は、たったひとり通りに彷徨い出た感染者と、すれ違った瞬間に罹患した陽性者を起点として、あっというまに600人/日を超えたシドニーの惨状を見て、これはニュージーランドも再び市中陽性者が出るのは避けられないと判断したのでしょう。
すでに対策が発表されていて、感染が発生した場合、数日単位の短い、でもレベル4という最も厳しいロックダウンで臨むと述べていた。
レベル4になると、その間の補償は十二分(実際、収入よりも多く補償をもらった人が多くて、よく笑い話になっていた。わしも、貰いすぎ友にたかって、ビールを奢ってもらった)に行われる代わり、家から半径300メートルだったか、ごく狭い範囲以外は散歩の外出も許されなくなります。
買い物はスーパーマーケットだけで、海岸でジョギング、ということすら出来なくなる。
対策として、最も正しいとおもいます。
ニュージーランドの社会自体、コロナ禍でおおきく変わって、オンラインで出来る仕事はすべて在宅勤務になって、わしがたいへん気に入った変化でいえば、ubereatsに限らず、出前サービスが発達を遂げて、マレーシア料理、インド料理、バンミーにフォー、寿司に、ハンバーガー、ステーキやキャロットケーキに至るまで、ファイブスターのキッチンやレストランから配達されることになって、オークランドセントラルの、CBDから郊外のモールまで、15分もあれば、どこにでも着く立地のわし家としては、よりどりみどりの酒池肉林で、ひと頃は、あんまり毎日毎日出前ばかりとっているので、料理の人に、ガメは、わたしの味付けに文句があるのか、と怒られたりしていた。
地球のホメオスタシスの安定位相の遷移と、コロナ·パンデミックに関連があるのかどうか、わしには判りません。
ただ地球が、おおきく変貌しようとしているのは、海にいれば肌でわかるというか、鮫の途方もない数の大群が現れたり、冬なのに浅いところに魚群が多くなったり、そのくらいなら「温暖化」で説明ができても、凪の海面におおきなうねりが起きるときの、その起き方や、ええ?どうして、きみ、こんなところにいるの? と職務質問してみたくなるような南半球では、そもそも見かけない種類の魚類がいたり、なんだかヘンテコリンだなあ、と感じる細部の変化がたくさんある。
新しい世代のほうが、古い世代よりも聡明で叡知も実行力もあるのは、ごくごく当たり前のことで、例えば小さいひとびとの行く末を心配したことはなくて、せいぜい、こちらでやっていることは、社会の仕組みとして、十代や二十代の人間達のアイデアが、うまく掬い上げられて、それを現実化する社会の判断力の中心が30代に集中するように皆でちからを合わせて、ほっておけば、どんどん老人化するのに決まっている社会の権力を渡さずに、40代もまんなかを過ぎたら、アドバイスというか経験からの補正役に徹してもらえるように、あるいはインド系や中国系の、それぞれの異なる文明の知恵が、うまく取り入れられるようにもっていくことだけで、残りのことは、より若い人たちのほうが真剣に、かつ柔軟に考えられるのは当たり前のことです。
モニさんとふたりで、後甲板にテーブルを出して、ベンチに腰掛けて、水の広がりのなかで、紅茶を飲んでいる。
チビッコのカワイルカたちが、持ち前の好奇心を発揮して寄ってきて、ボートを検査するように、ぐるぐると周りをまわっている。
波間には、ブルーペンギンどんが、ひとりで、なんだか退屈そうに漂っている。
目つきの悪いカモメたちや、雄大で、優雅に跳躍してみせるシャチの家族、海の巨大ヘッジホッグとでもいう趣の、独特の呼吸音を響かせながらやってくる、日本語ではなんて言うんだっけ?Humpback whale
お馴染みの海のひとびとを眺めながら、落ち着いた気持ちで、旅から旅の移動生活もいいが、ニュージーランドにいる定点生活も、悪くはないなあ、とおもっています。
遊んでばっかりで、何に対してなのか、なあああんとなく、申し訳ないような気が、しなくはないんだけど。
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海の上で、あんなことやこんなことに夢中になっている、いけないおとうさまとおかあさま。側から聞いてると
素敵だわ😆実の娘だったらどう思うか
わからないけれど(笑笑)
海の上で何かを飲んだりしながら
未来の事を考えるのは豊かだろうな
街では見えない時間軸の中で
考え事が出来るだろうな
私は☔️のふりしきる部屋で
ゴロゴロするくらいしか、
今のところ
どうにも出来てないけれど。
うわーい復活ありがとー。夜明けに読んだ時は我ながら素敵なコメントだと思った内容をすっかり忘れて今は
「あんなことやそんなことをしてボートはひっくり返らないのかしら。いや井の頭公園のボートと一緒にしたらいかんな、やーね」等と考えたことだけを覚えております。
そんなことはともかく。
>現実として、ひとつの安定系から新しい安定系へ、地球は移行しようとしているように見える。
これよねー。肌で感じているわ。
ゆっくりとしかし確実に時間をかけて。
NZ、来年まで入国BANが延びたってちょうど昨日聞いたよ。
デルタの恐ろしい話も最近聞いた。
最近Twitterから離れてるから書いたりしてないんだけど。
せめて生き延びようね、と全く危機感もなくとぼけたことばっかりして現実感のないこの国で思うのです。
家出のチャンスを見極めつつ。
なんだか色々とそうだよねぇって。
そろそろ引っ越しかなぁ。
まだ死にたくないなぁ。
そんな事を考えながらまだ生きてます。
Humpback whale は ザトウクジラ か。
ありがとう。旅をしたくなる。30代のみなさんにお願いするのとても賛成。
私は海が本能的に怖いと感じる性質で、
飛行機でグアムに行ったときも、船で小笠原に行ったときも、
頭の中に地球儀を浮かべて、広い広い太平洋で見えないくらい小さな島に行こうとしているのだと考えて、
「小さすぎ。やっぱり怖い」と息苦しさを感じてしまう小心者です(ほんとには苦しくないw)。
前世のどこかで海難に遭ったのかもしれないなぁ。
オーストラリアの浅瀬でシュノーケリングしたときは、小さいお魚が1匹、一緒に遊んでくれて楽しかったんだけど、深いところはムリだと実感しました。