You are not helping
という。
It doesn’t help
とも言いますね。
航空会社の地上勤務の人が搭乗の航空券の発行をしている。
前々から予約してあったサラリーマンのおっちゃんが、いそいそと、カウンターの前にやってきます。
ところが、どこかでミスがあって予約されていない。
サラリーマンのおっちゃんは、大憤慨して、いったいどういうことなんですか。
私は、ちゃんと予約したのに。
あなたたちは、これが仕事なんでしょう。
簡単な予約業務ひとつ出来ないなんて、どういうデタラメな会社なんだ。
あんた、歴史修正主義者なんじゃないの?
ネチネチと文句を言い続けるサラリーマンおっちゃんを冷たい眼差しで見すえていた、女の人が、
「You are not helping」
と、呆れてものがいえねえや、という口調で述べている。
英語社会では、何事かが有効であるか無効であるかは、日本語世界とは較べ物にならない重要性を持っている。
正しいか正しくないかを常に問題にする日本語世界との決定的な違いだ、といいたくなるほどの違いだとおもいます。
一般に無効だと判明している行動を繰り返す人間は、よっぽどのバカだと判断される。
日本語のtwitterには、最も誰もが頷いてくれる安心して攻撃できる標的、例えば首相への憎悪をぶつける言葉に溢れている。
簾(すだれ)髪のしたはカラッポか。
アフガニスタンの国名をタリバンだと思っているのではないか。
やる気があるのか。
読みがやや間違いやすい漢字を印刷して並べた厚紙を手にもった国会議員が、
「首相、あなた、これ読めますか?」と、おおまじめに国会で首相の日本語能力を追求している。
慰安婦問題は「慰安婦」問題だよ、ばあか。
カッコがあるとなしとでは意味がまるで違うだろう。
そんな理解力で研究者だと言えるのか。
8月15日は、終戦記念日じゃなくて敗戦記念日だろうが。
XXさんは女の方ですよ?女性に対して非を鳴らすなんて、性差別そのものじゃないですか。
喧喧諤諤、侃々諤々。
論争は永遠につきることがなく、正邪はどうなのか、理非曲直を正さねばならないのではないか。
左翼は正義なんだから、女に抱きついて押し倒したくらいで文句を言うなよ。
毎日毎日、正義の泉はつきることがない。
正しさは社会いっぱいに満ちて、悪は浮き彫りにされる。
桜を観る会なんて、ふざけやがって。
立派に犯罪行為じゃないですか。
刑務所行けよ、刑務所。
首相のお友達ならばツッコミやっても捕まらないなんて、これで法治国家と言えるのか。
やあ、今日も、おれは正しい論客だった。
ひと風呂浴びた、ビールがうめえや。
おおきな声じゃ言えないが、特に同志のフェミニストの怖いおばちゃんたちに聴かれたら、たいへんだが、パンツ一枚でビール、ニッポンダンジ、よくぞ男に生まれけり。
政体や社会が変化できない、すべての社会には共通の特徴があって、自分が正しいことの主張に夢中になって、本来は議論の起点であったはずの、「どうすれば社会が変わるか」は、お留守になっている。
批林批孔、愚公山を移す、東風は西風を圧倒するのさ、おれがアンダーコントロールと言ったら、フクシマには、もう放射能はないんだよ、それが理解できないようなやつがいるから、いまだに福島には放射能が残ってしまうんじゃないか。
あんた、そんな簡単なこともわからないの?
今回のコロナパンデミックの極く初期の頃、東京大学の医学系教授である人が面白いことを述べていた。
precision medicineの手法をいまのうちに使えばどうなのか。
ひとりひとり、ラベリングして、感染源へ遡行して、行動を追って、感染経路をひとりずつ明らかにしたほうがいいのではないか。
小さい声でいうと、地位が高い研究者の割にはprecision medicineという言葉をやや誤解しているのではないかと感じられたが、そんなことはもちろん枝葉のことで、ちらと思ってすませればいいことでした。
それよりも論旨の、PCRテストを徹底的に行って、陽性者については、感染経路を解明して、立ち寄った場所をリストにして公開して、国民全員に注意を促したほうがいいのではなかろうか。
わしは、おお、これはええんちゃうかしら、とおもって、当時、ニュージーランドで友達たちに、よく話したのを憶えています。
日本語社会での反応は、実をいえば、わしは予期していたことだったが、
PCRテストをやれば、コロナ罹患者が増えて、医療機関に押し寄せることになる。
第一、ウイルスの感染を防ぐために手袋を代え、スーツをすっかり着替え、一日に数人が限度なのはあなただって知っているでしょう?
え?ドライブスルー?
バッカじゃないの。
あんな韓国人のおもいつきを真に受けるなんて、医学を学ぶ人間だとは到底おもえない。
自動判別機?
あんたマニュアル検査と機械検査の精度の違いも知らないなんて、素人よりもひどいじゃないですか。
トーダイの教授も堕ちたものだ。
背に腹は代えられぬ、という。
日本のひとびとが、正論を以て、「素人アイデア」を言論も忙しく成敗しているあいだに、通学にスクーターがいるのに、オカネがないから、スーパーのカートを拝借して、エンジンをつけて、通学用の乗り物をつくりました、なことばかりやっているニュージーランド人たちは、日本の人が
マニュアルの職人芸で芸術的精度のPCR検査を「どうしても必要な」人に対して限定して行っているときに、ドライブスルー?
おお、それなら、必要な検査数がこなせるじゃないか。
機械は高いが、精度が怪しくたって怪しくなくたって、機械を導入しなければ現実の数をこなせないんだから、仕方ないじゃん、と述べて、
とにかく、いくら正しくたって空論はダメだよ、現実に対して無力な「無効な正義」ほどくだらないものはない、と若い30代の首相以下、閣僚全員が述べて、世界中の情報を目を皿のようにして眺めて、自分たちに扱える、現実に対処していけそうな方法なら、不完全でもいい、やってみながら改善すればいいと述べて、とにかくプラクティカルであること、という英語国民が最も得意とするスタイルで、ビンボ国家対凶悪ウイルスの対決に臨んでいった。
その結果、ニュージーランドの政府が取った政策は、教科書には載っていない、ヘンテコな政策ばかりで、他国の政府すべてが「気が触れた小国」の大胆と呼ぶのもバカバカしい愚行を意地悪な興味をもって眺めていたのでした。
ニュージーランドでは、いまの世界では、珍しい、OECDでは、唯一なのかな? 左翼政権で、しかもニュージーランド人で政治世界と馴染みがある人なら誰でも知っていることで、ジャシンダ·アーダーン首相そのひとが、左翼のなかでも左寄りの、特に経済政策を聞いていると、共産主義過激派なんじゃないの?と言いたくなるような政治理想を抱いている人です。
まったく無名のときから、ニュージーランドに外国人資本を引き止めていた、ほとんど唯一の理由であるゼロ·キャピタルゲインタックスの法律をやめて、キャピタルゲインタックスを導入すると述べていた。
わし年長友が、「カストロかよ」と呟いていたのをおぼえています。
理想主義は、まったく受けないお国柄なので、ジョン·キイが奥さんに「ちょっと、そこに座りなさい」とカウチに座らされて、「あんた、いったい、いつまで家庭をないがしろにして首相やってるつもりなの。これ以上、続けるんだったら、離婚を考える」と言われたとかで、退陣を決めて、選挙になったときも、不人気野党の労働党が、やけくそで出したとしかおもえない、若い、ひょろっとした体格の、髪をアップにして国会で質問して、マスメディアや議員たちに散々揶揄われて赤面していた女の人が万に一つも勝つとおもうひとはいなかった。
正直すぎるというか、「この、わたしの政策でいくと、まあ、経済は暫くは立ち行かないかも知れないけどね」ちゅうようなことを平然と口走る、アスペルガー然として口下手男のBill Englishを後継に指名したせいで、ナショナルはだいぶん票数を落としたものの、選挙後も第一党で、あらかじめ用意していたのでしょう、勝利宣言も出した。
ところが、ところーが。
その日の夜、ジャシンダ·アーダーンが、なんと、もともとは極右政党で、「アジア人でていけ」を売り物に政党の基礎を築いた、その名もバカバカしいニュージーランド·ファースト党と連立して、過半数を取るという離れ業を演じたのでした。
お、お嬢ちゃん議員が、なんという大胆な、とみんなが、ぶっくらこいたが、それでも、なにしろニュージーランドファーストの党首ウインストン·ピータースは、百戦錬磨の、手練れの政治家で、多分、ジャシンダ·アーダーンを膝の上に載せて、好きなようにコントロールするだけのことで、またすぐ政局は混乱するだろう、と予想を立てたのでした。
ところが、ところーが ver.2
ジャシンダ·アーダーンは、ほんものの政治家だった。
強烈な現実主義者で、理想の松明をかかげながら、理想を現実のちからに変換する魔術を心得ていた。
オーストラリア人の極右主義者によるモスク襲撃·乱射事件のあとの演説に、ムスリム風のスカーフを髪に巻いて演壇に現れて世界中をあっと言わせたころから、どうもこのひとは、すごいな、と皆が感じ始めて、いまのコロナ対策に至るまで、この人が「どうすれば理想を現実化できるか」という知恵の塊であるのを理解しはじめた。
この人の現実主義を支えているのは、判断の正確さです。
その局面に、どんな理念が必要なのかを、いつも知っている。
コロナ対策で、ビンボ国家ニュージーランドが、文字通りの風前の灯火の位置にたつと、毎日午後一時になると会見に現れ、会見までに起きたこと、それに対して打った政府の対策、政府として、どうするつもりなのか、国民に何を期待しているのか、言葉を惜しまずに説明して、記者たちの意地悪な質問にも、徹底的に反論しながら答えていった。
Be kind
ニュージーランド人がウイルスに立ち向かう最大の武器は、他人への想像力を伴った善意であると繰り返し国民に語りかけて、悪意や、誤魔化しに走った人間は、名指しで、非難することを怖れなかった。
スーパーマーケットで、酔っていたのでしょう、ふざけて、誰彼を捕まえては、「おい、おれはコロナ陽性なんだぜ、ゴホゴホ」とやった男の人は、翌日の首相の定例記者会見で、首相に、名指しで、「絶対に許されないことだ」と激しい言葉で指弾されて、結局、2年だったかの実刑を刑務所ですごすことになった。
なんだか長くなってしまったので、この辺で止すが、日本のSNSや国会議員のやり取りを見ていていつも思うのは、「これで現実が変わると、ほんとうに、この人は思っているのだろうか?」ということです。
日本の人の頭のなかでは、もしかすると、政治についての論議は毎日の現実の生活と切り離されていて、なんといえばいいか、「屁理屈道場」みたいなものになっているのではないかしら、と、よく考える。
その結果、SNSや国会は、どうなってしまったかというと、現実はさておいてしまって、とにかく、巧く相手を攻撃したり、上手に見栄を切る人ばかりが存在がおおきくなって、平たく言ってしまえば、口ばっかりで、
芸に堕して、議論を現実につなげていく知恵も意志もない惨めな社会になっていった。
日本の現実社会では、そうでもなくて、かーちゃんシスターが大雨の日に藤沢で突然道路のまんなかで停車した軽自動車に追突してしまって、なにしろ日本の交通法規では追突したほうが一方的に悪いに決まっているので、不安で青くなっていたら、義理叔父がたまたまかーちゃんシスターがやってくる前に「被害者」の女の人が警察官に話すのを聴いていて、「わたしはゴールド免許ですよ、見てください。あんな法律を守れないガイジンが野放しになっているから日本は安心して暮らせない国になったんです」と執拗にあのガイジンを厳罰に処せ、といっていたと、えらく憤慨していたけれども、かーちゃんシスターが事情を聴取される順番になると、義理叔父に付き添ってもらって悄気ている日本語がよく判らないかーちゃんシスターに向かって、あとで義理叔父が「感動した」と述べていたが、世にもやさしい口調で、「おまわりさんはね、いままで何千人も事故の当事者に会っているから、いろいろなことがわかるんです、いいですか?前方不注意という言葉があるけれども、前方はしっかり見ていたけれども、ブレーキが間に合わなかった、ということもあるんです」
心配するな、とか、非があるのは向こうの追突されたほうだ、とは、いっさい言わずに、なんとかかーちゃんシスターを安心させようとしているのがわかって感謝したし、それなのに、この人が、と、かーちゃんシスターを見て、ちっとも判らないので可笑しかった、と述べていた。
わしは現実から乖離して、わざわざバカまるだしのネトウヨを選んで相手にして正義の味方を気取る「進歩的文化人」を見る度に、このひとたちは、なにがやりたいのだろうか、と考える。
日本は、現実を相手にする能力がないエリートたちを頭の上に戴いて、現場で、評価もされず、報われもせず、現実とはまったく合致しない「業務命令」を、ただ気楽におもいつきで浴びせてくる指導層と現実との間に挟まって、死ぬ思いをしながら現実を修繕するひとびとの違いで、ここまで成り立ってきた国です。
フサコさん @Biwakaba1310 が、「インチキな進歩文化人と本物を見分けるコツは、その人間が、活動とは別に、ちゃんとした職業を持っているかどうかを見るのがいちばんいいよ」とアドバイスをくれて、そう言われてみると、いままで目撃した「こんな酷いのは、さすがに日本語社会にしかいないよね」と考えたひとびとは、例えば、アルバイトというのにも足りない収入しか与えられない、「日本人のアカデミアコンプレックスで食いな」と言わんばかりの「非常勤講師」であるとか、ひどいひとになると、市民活動そのものが収入である人であるとか、思いもしなかったが、なるほど「普通の世間では相手にされないひと」です。
どうも、日本語での、特に政治や社会についての論議が、常におなじところばかりを巡る堂々めぐりで、コロナひとつとっても、なんだか現実のウイルスからみると、どーでも良すぎて欠伸が出そうな、PCR検査議論や、衒学論争に陥っている。
医者のはずなのに、医療の手よりも屁理屈議論の舌ばかりが動いていて、傍から見ていて、異様な光景です。
トランスジェンダー議論に至っては、屁理屈ばかりが先に立って、トランスジェンダーのひとと、ひとりでもちゃんと話しあったことがあるわけがない、くだらないとしかいいようがない議論で、日本語という言語は、ここまで堕ちたのか、とがっかりする引き鉄になった。
ときどき、日本語人の頭には、英語人が頻繁に口にする
You’re not helping
という言葉を言わせる「言語は現実に対して作用できないと無意味なのだ」、空疎な音の響きにしかすぎないのだ、という考えが、まったく存在していないのではないか、と疑うことまである。
言葉と戦わせるための言葉では、なんだかカブトムシをけしかけて喧嘩させる子供のような嫌らしい残酷さだが、日本語が生きている場所は、日々の生活や、のっぴきならない現実ではなくて、そういう、益体もない、なんの役にもたたない土俵のような場所に変わり果てているのかも知れない。
Categories: 記事
There is not helping. だびな。
自分もそこに含まれちゃうからあんま言いたかないんだが。
そこから抜けるために言語を日々鍛えているのだとも言える。
「不快にさせたなら誤ります」
とかいらないのよこっちはー!
なんて。なんて。
そうじゃないんだ。
ナナゼロは、ほんっとに、むかしから、プンプンで、おっちょこちょいだのい(^^)
やーーーん!!
そうじゃないのか。やーーん!!again
この2連続のコメントがそれを否定できなく証明させている😂
>おっちょこちょい
それがナナゼロのミリキですから
>おっちょこちょい
ありがとう。泣き止むことにする。
そして最初からためらわずこれを書くべきであった。。。
「去年から『あれ、この人専門外かもしれないけどそれにしてもデータを読めてないんじゃないだろうか』という人がいてね…素人にいろんな器具勧めてるし、これはどうなのよ、とツイートするたびに(向こうが人気アカウントなため)いろんな人が怒ってあれこれ言いに…
最近知ったのは本を出して稼いでたわ。
なんかもう嫌になっちゃって、あちらに行くのはしばらく控えようと思った次第。継続中。とんでもないツイートを見なくて済むので精神の健康にも良いです。」
あれ?この記事コメントできない?今したらアプリケーションが落ちてしまった。
再度トライ
There is not helping. だす。
自分もそこに含まれちゃうからあんまり言いたかないんだけど。
抜け出すために言語を勉強していると言える。
わたしも糸井重里とついったー知識人の違いがわからないよ。
議論ができるのはいつの日か。
コメントできるよー
プラクティカルであるというのは、たぶん大人になりたての頃から意識していることで、
現実社会を生き抜いていくにはそうするのがいいだろうと直感してのことだけど、
そればっかりではつまらないから、好きな音楽で脳内麻薬を放出して過ごすのも大事。
だけどコロナ禍では、日本社会がアンチなのかと思うぐらいプラクティカルさのなさを露呈していて、
コンサートだってほとんどが全滅では…
籠るのは嫌いじゃないけど、さすがに息が詰まってきます。
変化がないと、脳みそがどんどん堕ちていってしまう。
読書に勤しむには、視力がもたない年齢になってしまったしね。
最近、仕事でよく地方紙を読んでいるのだけど、
驚いたことに、複数のネトウヨ系の学者ぶった人たちが連載コーナーを持っているのです。
毎週毎週サブリミナルで差別意識や全体主義が植え付けられていっているのではないかと、危惧しています。
具体例で考え方の練習をすると、最近だと「ワクチンパスポートを始めたりしたらワクチン打ってない人への差別が始まる」などの主張が当たるでしょうか。
どうすれば人命を救いながら経済を維持できるかって考えたときに、ニュージーランド流(ゼロコロナ)かアメリカ流(ワクチン打ちまくる)しかないことは明らかなのに、みんながマスク我慢して作った時間を虚無議論で無駄にしてしまったのは非常に残念です。
しかし、日本の若い人にとっては、社会はどうやっても変えられない場所になっていて、現実的に環境を変えるためには、日本を出て行ってしまうのが一番なのではないかと最近は思っています。
通りに出るって勇気が必要なのかな?体力あればできるよね🙂混沌が楽しいというか。こども産む方が勇気ある
最近ふと、考えていたことと同じです。
Twitterで何かをした気になっていたんです。
理想をよく考えてないのかもしれません。
ありがとう。自分の中に沈めて考えます。
ちょうど、今、今年の夏は怒りを有効な形で表明できなかった自分にとってこの夏は敗戦のようなものかも、、、なんて思っていたところ。そして自分も出て行くことしか考えてない。。。