例えばHilary BarryがMitre 10の1000人イベントをホスティングしていたのだと言っても、なんのこっちゃわからん言語(←日本語のことです)で、ニュージーランドでいま何が起きているかを詳述することには何の意味もないので、日本語で読んで「そうか、そういうこともあるか」と少しでも役に立ちそうな観点に立って現在ニュージーランドで続いている二回目のレベル4ロックダウンについて書いたほうがいいのは、ほぼ明らかであるとおもわれる。
なんちて。
目下、アクティブなデルタ感染者が51人になったニュージーランドは、てんやわんや、上を下への大騒ぎです。
まだ51人なんじゃん、というなかれ、
冒頭のHilary Barryの1000人企業イベントと、もうひとつ、どこだっけ?
忘れちったけど、日本の人が言われても知ってるわけない会社の1000人イベントがあって、計2000人で、しかも会場のバーテンダーが陽性者だった。
おまけに拡大のおおもとになった感染した人、当初、感染経路不明の国内感染者第一号と思われていて、体内から採取したウイルスをゲノム解析してみたらシドニー起源なのがわかって、あり?あり?、じゃあ、(ボーダーと関係のない)この人が一号ではありえない、というので、大急ぎでコンタクトを追求して、純正第一号ではありえないことがわかった、例の「元第一号」の人が博奕をする人で、コロナに感染すると、いろいろ素行がばれてたいへんですね、スカイシティのラスベガス·サンズが経営する、でっかいカジノで遊んでいて、カジノの従業員が感染していた。
おまけにおまけに、このひとを起点にあれやこれや、オークランド大学、ふたつの2000人級の高校、と大規模施設に感染が及んでいることがわかって、どうも今回はニュージーランドはコロナ運が悪い、感染拡大モデルを担当するモデラーによるとロックダウンの直前で100人くらい感染者がいたはずだというので、多分、これから、10000人に及ぶ濃厚感染接触者を調べていくにしたがって、「51人」といういまの感染者の数が2倍になってゆくのでしょう。
というわけで、スナップ·ロックダウンで、一週間でウイルスを根絶するつもりだった、目論見はあてが外れて、延長しなければならなくなったが、三日間の延長にするのか、一週間か、二週間か、いまはそんなこと言っているばやいではないであろう、という社会常識に従って、誰も経済のことを考えろ、とは言わないが、言わないだけで、国民ひとりひとりから首相に至るまで、みんな考えているわけでオカネが底をついているぶん、今回は、対処が難しくなっている。
アウトブレイクの初めは、「たった5人感染者が出ただけで、騒ぎすぎなんじゃないの」という人もいたが、政府と専門家が、どんどんデータを出してきて、人数が増え、感染者の立ち寄り先リストが長大になって、自分の行動範囲が重なっていることが判ってきたりするにつれて、そういう声は立ち消えになって、またまた国民を挙げて、えらいこっちゃ、になっている。
当然、イライラを募らせるおばちゃんやおっちゃんも存在して、
ニュージーランドの社会問題のひとつに「ボーイレーサー」があって、若い人、主に高校生が、思い思いに改造したオンボログルマで、公道をぶっとばして競走したり、より一般的には倉庫の跡地や埠頭で、ドリフトやなんかのスタントで、ぶおんぶおん、がびいーん、どかあーんと盛大にぶつけてしまったりして、そのたびに観衆の女の子供や男の子供がきゃあきゃあいう、という世にもアホな集まりがあるが、ロックダウンの掟を破って大騒ぎするガキンチョたちのところにやってきて、「おまえら好い加減にしろよ、いますぐ解散しろ、さまなきゃ、おまえのクソクルマに火をつけて、クルマごと焼いちゃるぞ」と述べる「事件」が起きたりしているようです。
なにしろロックダウンの前でも、騒音に頭に来た倉庫跡地近所のおっちゃんが自分のブルドーザーを持ち出してきて、ボーイレーサーたち自慢のクルマに、襲いかかって、クルマから慌てて脱出して、こけつまろびつ、逃げ惑う「ボーイレーサー」たちを横目に、まとめてぶち壊すという、世間のおとなの喝采を集めてしまった事件があった直後なので、現実味があって、ボーイレーサーたちも鳴りを潜めることになったようではある。
レベル4ロックダウンというのは、簡単にいえば「家から出るな」ということです。
デルタで出るな、なんちて、と言って喜んでいる場合ではないので、近所の散歩とスーパーマーケット&ファーマシーだけは出かけていいことになっているが、わし家は独自レベル4で誰も家の敷地から出てはいけないことになっている。
ときどき猫さんたちがルールを守らないのが目撃されているが、猫さんは人間よりもえらいので、そのくらいの特権は許されるべきである。
家の敷地のなかだけでウロウロしていても、ベジガーデンやフラワーガーデンの面倒見を手伝ったり、よおしいっちょう開墾するか、などと大袈裟に述べてカーポートの裏にある一角を整地したりしていると、アップルウォッチの歩数計で6000歩~10000歩を数えるので、専業主婦は長生きであるという、家内の用事だけでも、案外あるくもののようでした。
露天風呂は、おおいに助けになっている。
早朝でも深夜でも、真っ昼間でも、裸になって、すたすたとコンクリートの階段を降りて、ばっしゃああーんと飛び込むと、パラダイスで、ひとりであれば防水キンドルで、血湧き肉躍るルフトバッフェ·エースたちの話に夢中になっているし、モニさんがやってくれば、ふたりで、いちゃいちゃする。
わし家のなかでも、モニさんとわしは「レベル5」というスペシャルレベルをもっていて、レベル5は、ベッドから出てはいけないことになっている。
あんないけないことやこんなひとに言えないことはもちろん、背中に顔をくっつけてすりすりしたり、枕を積んで御本を読んでいるモニさんの脇の下に顔を突っ込んで良い匂いを鼻腔いっぱいに嗅いだりする乱暴狼藉は許されているが、一歩たりともベッドから出ることは許されません。
レベル5、大好き。
(閑話休題)
ひとの国のことなど、どうでもよいし、第一、余計なお節介で、口出しすべきでないが、「自宅療養」だけは、なんとかならないのかしら、やめないとダメなんじゃないの?
やめればいいのに。
やめてちょーだい。
やめてください。
やめろばかやろー
などとおもう。
言葉の詐術もいいところで「自宅療養」は、「自分の発意で自宅で養生する」という意味の言葉です。
言葉を組み立てて嘘をつくのはひどい行為だが、語彙そのものの意味を偽るのは、もっと悪質であるとおもう。
例えば、この記事
https://digital.asahi.com/articles/ASP8P64NXP8NULZU002.html?iref=comtop_7_05
でいうと、「自宅で療養中に亡くなる患者が相次ぐ」と書いてあるが、言葉の本義ならば、「希望して自宅に戻って病を養っていた患者が死んでしまった」
だから、自宅で養生するなんて考えちゃダメよ、意外の意味のフレーズではありえない。
「自宅療養」を「経過観察」していると様々な記事に出てくるが、よく読むと一日一回の電話で「経過観察」してたりする。
読んでいて、そりゃ、死んじゃったかどうか確かめているだけでは、とおもわず考える。
およそ10万人、東京だけで26000人を超える数の人が、COVID-19陽性のまま、医療に見捨てられ、自宅で恐怖に苛まされながら不安で目覚める朝を迎えている。
文明はどこにあるのかもなにも、それで人間の社会なのだと言い切る人がいるとしたら、その人は人間性をとおに失った化け物なのである。
日本は近代の初めから、個人の生活を食い物にして、国家の滋養に変えて、「個人の幸福」を吸い尽くすことによって国として成長してきた。
あたかも一個の巨大な軍隊のようで、そういう非人間的な大規模システムを「国」と称してしまえば、当然の結果が予想されて、社会のなかでは企業でも、役所でも、ネット上でも、古参兵のようなすれからしおとなたちによる凄惨なイジメが行われ、耐えきれずに死ぬ人間や、PTSDで一生苦しむ人間が生まれることになった。
級友の面前で自慰行為をすることを強いられて零下17℃の冬の旭川の公園で自暴自棄の絶望の死を死んだ14歳の少女廣瀬爽彩さんは、「日本社会」という化け物の残虐さを一身に集めて死んでいったにすぎない。
公衆の面前で自慰行為を強いられて、尊厳もなにも踏みにじられているのは、日本の人たち自身なのでしょう。
SARS-CoV-2は、まるで意地悪な神様が人間の世界に送り込んだウイルスのようで、あちこちの社会の「ほんとうの姿」を「その社会を構成するひとびと自身に判りやすい形で」浮き彫りにする。
昨日、東京都の感染状況の記事を読んでいたら東京都の22%という冗談じみた陽性率の高さがなぜかを説明した記事で、
「検査体制が追い付いていない可能性があり、PCR検査体制の強化が必要」
という「指摘」が、必ずしもほんとうではなくて、
「都の担当者『検査を絞っているということはない』」
中見出しまで掲げて、実は数字に「からくり」があって、自費検査が母数に含まれていないからだ、という趣旨だった。
バッカじゃなかろうか、と、つい慎みのない日本語で考えてしまう。
担当者の話を鵜呑みにして、役人の、日本の人の生命などどうでもいい言い訳に、そのまんま加担して、ひどい言い方をすれば行政の詐欺の片棒を担いで、さらにひどいのは、「からくり」があるとして、なぜそんな有害なからくりが存在するのか追及せずに、
「自費検査の件数がもし全て届け出られていて、陽性率の計算に加えられれば、陽性率は大幅に下がることになりそうだ。」
なんて書いている。
いまの日本の「ひどい状態に見えるが、実は、案外うまくいっていて、問題自体存在しないんです」病が、もっともらしく、どうやって形成されるか如実に判るような記事で、こうやって日本語は、延々と延々と、数十年にわたって病んで「自宅療養」を強制されてきたのだとおもわれる。
そのうちに、今度は
「死因がすべて再精査され、コロナ死として全て届け出られていて、陽性率の計算に加えられれば、陽性率は大幅に上がることになりそうだ」
新しい記事を署名のある同じ3人なかよし組記者で書くのかもしれないが、余計なことで、言語がわかるからといって、よその国のことに首なんか突っ込まなければよかったというか、あれほどおもしろがって、大好きだった日本語と日本文化の暗黒の素顔が見えて、がっかりしてしまう。
自宅療養中の日本語は、誰からも経過観察されることなく、忘れられて、息を引き取ってゆくところなのかもしれません
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自宅療養ということばを聞いたときに怒りでわなわな震えました。そして、コロナ陽性の妊婦さんが「自宅療養」を強要され(ああ、なんという形容矛盾)、早産し赤ちゃんが亡くなったという現実を目の当たりにして、胸が張り裂け、涙が止まらず、もう、狂いそうです(というか、狂っているのかもしれません)。
自国に幻滅するとはこういうことかと、昔、バングラデシュの知人が「政治については一切言及しない」という態度を貫いていたが、それと同じ「絶望」の深さを実感しています。そうでもしなければ、自分が狂ってしまうから。
今は、狂う一歩手前なので、手前でできることをてめえで考えて実行します。
上の Fusako さんのおっしゃること、よく判ります。
> 言葉を組み立てて嘘をつくのはひどい行為だが、語彙そのものの意味を偽るのは、もっと悪質であるとおもう。
これが一番きつい。注意深く本来の言葉に翻訳しなければいけないけれど、そうそう気を張ってばかりもいられないので、知らず知らずのうちに頭の中に忍び込んで精神を病み狂わせていく。正気を保つために世の中から身を引く以外に手立てが無いようにも思えます。