日本語の十二年

そろそろ、また日本語に使う時間を更に減らそうと思って、むかしのブログ記事を読んでいたら、最初期の記事が出てきてなつかしかったので、そのうちのひとつ「春の雪」を再掲載した。

この記事のひとつ前に置いてあります。

「春の雪」はフィレンツェのArno川の南側にあるアパートで書いた。

モニさんと一緒に暮らし始める前の、6ヶ月を越える新婚旅行の途中で、

冒頭に出てくるステットスンの帽子は、いまでも、ときどき被っているが、マンハッタン5th Avenueにあるボルサリーノで有名なJ.J. Hat Centerから通りを隔てた向かいにある古帽子屋で買ったものです。

年寄りのゲイカップルがやっている店で、「いま出来のステットスンなど問題にならない」むかしの、黄金時代のステットスンを、あちこちの倉庫や、店の在庫で見つけてきては、誰の頭にも載っかったことがない、という意味では新品の古式ゆかしいステットスンがたくさんおいてあって、ニューヨークにいれば、年中通って、さあ、3ダースくらいは買っただろうか、随分、いっぱい買い込んで、「あんたの場合は、買い物というより仕入れだよね」と笑われたりした。

南欧系のひとたちで、このあと、またバルセロナに行くんだよ、と述べたら、「バルセロナ! だったら、こんなニューヨークみたいなくだらない街になぜいるんだ。とっとと行かなければ!若者よ、人生は短いぞ!」と、ふざけて叫んでいた。

まだ、あの店は、あるのかどうか。

十二年という月日は長い。

むかしはニュージーランドで会うのに「今回は、ちょっと贅沢して女房とふたりでビジネスクラスで来たよ」と、はにかんでいた、大仲良しの友達は、いまではプライベートジェットでやってくる。

もっとも、ああいうひとは、金銭的成功のせいで人間が変わったりはしないので、やっぱり、はにかんでいて、やはりプライベイトジェットで、こっちはオーストラリアから来た友達に紹介するときに、

「このひともプライベイトジェットで来たんだよ」と言うと、なんだか慌てて、「ガメ、あんまりひとに言うなよ」と述べて、落ち着きが悪い様子になっている。

みんな、それぞれ、十年という単位では、おおきく生活が変わって、年契約の講師だった友達は、テニュアの教授になり、あるいは結婚するなんて気が知れない、が口癖だった友は、気のやさしい天使のような女の人と結婚して、4人の子供がいる。

驚くべし、最後に話したときには、「家庭はいい。子供は、かわいくて仕方がない。今度、COVIDが終わったら、アフリカ人の子供をふたり引き取りたいと考えているのさ」と述べていた。

自分について言うと、持っている財の総額のようなものは、ぶっくらこいちまうくらい増えたが、過去のブログ記事を読むと、こういう工夫をした、こういうアイデアがよかった、みたいに書いてあるけれども、振り返ってみると、やっぱりゲームに勝った人の自惚れで、冷静に考えれば、英語世界を覆う不動産バブルのなかでも、到頭、暴騰率世界一位という不名誉なことになったニュージーランドとオーストラリアを初めとする英語圏全体の不動産バブルのおかげがおおきいのかも知れません。

考えて見れば、なあああんにもしなくても、市場での資産価値が10年で3~12倍になっていたはずで、一生懸命考えて投資したつもりで、もしかしたら、そのあたりの、ぶわっかなイケイケゴーゴーおじちゃんも同じくらい稼いでいるのかも知れない。

いや、きっと、稼いでいるのではなかろうか。

オカネ以外のことでも随分いろいろ変わったが、あんまり本人自身は進歩がなくて、ナマケモノで、最も進捗したのはチャリティだが、これは助けてくれる人たちに恵まれたからでしょう。

 

十年前と同じなのはモニさんモニさんモニさんの暮らしである点で、相変わらずモニが幸福そうにしていれば、それがいちばんの自分の幸福である暮らしのままです。

このブログの記事を1本書くのに、40分から1時間かかる。

十二年前は、「春の雪」くらいの長さの文を書くのに半日かかっていた。

それ以上かかりそうなときには、そこまで書いたものも消して、諦めてしまいます。

考えて見ると、おなじくらいの分量を、自分にとっては母語である英語で書くのに1時間から2時間かかっているはずで、日本語のほうはいかにテキトーに、考えることなしに書いているかわかってしまうが、最近は、こだわりを捨てて「外国語は外国語なのだから、限界があっても仕方がない」と考えるようになってきている。

たくさん書いていると、どういえばいいか、その言語による思考の密度が異なっていて、日本語はスカスカで、どうにも深みまで届いていかない。

むかしは、がんがればなんとか、と考えたが、もう最近は時間のムダと、さっさと諦めて、ほかの、かかる時間と得るものの比率が良いことのほうに時間を使うことになっている。

そういう考えを持つところが、そもそもゲーマー族で、効率を考える下品さが、よくないところなのかも知れないが。

去年と今年と、おなじことをやっていては、すでに良いわけがないが、十年たってもおなじという人は、普通に考えて、いないだろうけれども、いるとしたら、問題は質的により深刻で、よっぽど考え直して更生しないと、死ぬ前に「なんだ、おれの一生は、生きたことになっていないじゃないか」と悟って、後悔のなかで死ぬことになる。

知的生産性の向上をモットーに、どんどん研究してきた人が、死ぬ前に、最も「実りがあった」のは、一年なにもかも忘れて過ごしたタヒチでの生活だった、という例があるが、同時的には生活の質を評価することが出来ないことが、この「どう生きていくのがいいか」「なにをめざすべきか」という話を難しくしている。

去年より今年のほうが、よくなっているかな?

一年で、自分は成長しただろうか、少しは前に進んだだろうか?

くらいに単純化して考えた方がよさそうです。

70歳になっても80歳になっても、進化しつづける人は進化しつづけるので、見ていると、この「進歩しつづける能力」は、その人がどれほど善意をもっているか、その人が、どれだけ世界を信じているか、という「思考と感情のもつ光の総量」に拠っている。

自分のなかに育んだ善意が人間を、堂々巡りの繰り返しから救いだして、前に進ませるので、そのことは、ひさしぶりに日本語のインターネットコミュニティやSNSを見ると、名前が知られているひとたち、それぞれについた固定ファンクラブみたいになっているトロルたちが、10年前と変わらず、なんとかして憎い相手を、嫌悪感をそそる「許しがたい」人間であるように見せようとして、必死の知恵を絞っているが、彼らが知力を傾けて傷つけているのは彼ら自身の生活で、そんなことは当たり前のことなのだけれども、そこに気付かないのが、トロルのトロルたる由縁なのでしょう。

このひとたちは、「十年付き纏ってるって、そんなにエネルギー使ってるわけじゃねえよ。うぬぼれんなよ。目障りだから、ときどき本業の側らに、暇潰しに、ちょちょっと嫌がらせやってるだけさ」と必ず言うもののようで、「ちょちょっと」憎悪に汚染された言葉が出てくるためには、莫大な腐敗下語彙と思考が沼沢をなしていて、メタンガスのように、ぶすぶすと間歇的にふきでてくる言葉こそが自分の本質になってしまっていることに気が付いてもいない。

しかも、相手が同じところにおりてきて言いあいになれば、安んじて相撃ちにできるように、匿名の専用アカウント、いつでも放棄できる、例の品位の欠片もない日本語で言えば「別垢」でやっているので、本身のおれはダイジョブと愚かにも信じているが、だからこそ、落ち続けて、魂の腐敗を起こしてしまっていることが理解できない。

トロルは「堂々巡り」に明け暮れる人間たちのなかでも、特別に愚かな典型で、例としてあげるのに不適切な気がしなくもないが、「ものごとに囚われて狭い閉塞した思考から出られなくなる」という点では、本質的には、ほかの、さまざまなタイプの膠着した人生とおなじであるとおもわれる。

トロルといえば、もちろん英語でもスペイン語でもフランス語でも、どんな言語でも、均しく、ネット上にバカタレな人はいくらでもいるが、日本語のバカタレ人には、何年たってもまだやっている、しかも倦まず、たゆまずに持続の力を信じて努力しているという大きな特徴がある。

ここだけは、随分、他の言語と異なるようです。

なぜ、そうなのだろう?

と、むかし時々考えたが、当初考えた言語的な特徴ではなくて、どうやら、秘密は「個人が生活をもてないこと」に原因がありそうです。

前に日本にいたときの広尾山のアパートが200㎡しかなくて息がつまりそうだった、と書いたら、「200で狭いのなら、西洋ではいったいどのくらいが標準なのですか」と聞いてきた人がいて、聞かれて、「あっ、いっけねええー、また、やっちまったわ。すまんすまん」と考えて、「あっ、いや、この頃はUKでもNZでも100㎡もないところが多いですね」と一般の数字に返事をすり替えて、誤魔化してしまったことがあった。

欧州でもドアを開けて足を廊下に出して寝なければならないほど狭いアパート(←小さいアパートのデザイン研修のために東京に代表団を派遣したそうです)が出来るようになったが、ではそこに若い人たちが、どんな気持ちで住んでいるかといえば、いたたまれない気持ちで住んでいて、一刻も早く「人間らしい生活」を送りたいと願っている。

だいたい、5年も都会に住むと発狂寸前になる、とよく言うが、日本語社会では、そのうえに時間の搾取がきびしいので、「生活」と呼べるほどの日常が送れないように観察しました。

日本の人といえば「人間性が乏しい」という汚名が定着してしまったが、日本に住んでみて、まるで起きてから寝るまで軍営で暮らしているような、あのライフスタイルでは、日本の人程度の人間性の喪失ですんでいるだけ、敬意をもたれてもいいくらいだと考えていた。

チープイート(例:牛丼、回転寿司)が滅法おいしかったり、ポケットに入るゲーム機が発達したり、自分自身が「移動する家」でもあるかのような現代日本文化の知恵で、なんとか自分が自分でいられるように自分をリラックスさせる工夫がたくさんあって、日本の人が、なんとか息をしていられるのは、あの気を紛らわすものがたくさんある文化のせいであるのは、ほぼ間違いないようにおもえます。

だが、ものごとには代価というものが存在する。

満員電車で、心頭滅却して、毎朝、毎夕、無念無想でいる努力を繰り返した結果、現実を正面から見る能力が衰退してしまった。

自分個人の側から世界を見る視線の方向が180度反転して逆になってしまった。

自分を眺めるときさえ世間の側から眺めてしまうようになった。

そうしているうちに個性は世間に浸潤されて、拡散して、混合して、世間と個人が汽水のように混じり合って存在する「日本」という状態がつくられた。

言語にとっては最悪の環境で、ついに、瀕死の状態に至ったのは、もしかしたら、単に論理的帰結なのかも知れません。

ぼくがどこに行くかはぼくが決めるが、日本語人であるきみは、きみの人生上の行き先は世間が決める可能性があって、そうなってしまえば、人間の一生とは呼びにくいものになる。

なんとか、自我が失われてしまう前に、日本のひとたちは、日本語という美しい言語を、自分の意志の内側に取り戻さなければならないのだと考えました。



Categories: 記事

6 replies

  1. 本当にそうだと思います。
    ターゲットを見つけて集団で貶めることで、所属する安堵感を得る。そういうふうに自己を維持してるようにしか見えませんよね。
    私は群れる事が嫌いなのでいつも「オレは違うよ」というスタンスになりがちなのですが、ことコロナ禍ではそれで良かったと思う毎日です。

    ガメさんはそんなTwitterの中で、日本語の良さを気づかせてくれたし、自分が間違っていなかったことも確認させてくれました。
    時々でも日本語に立ち寄って語りかけてくれる事で、また新しい気づきを与えてくれる事を願ってます。

  2. “チープイート(例:牛丼、回転寿司)が滅法おいしかったり、ポケットに入るゲーム機が発達したり、自分自身が「移動する家」でもあるかのような現代日本文化の知恵で、なんとか自分が自分でいられるように自分をリラックスさせる工夫がたくさんあって、日本の人が、なんとか息をしていられるのは、あの気を紛らわすものがたくさんある文化のせいであるのは、ほぼ間違いないようにおもえます。”
    について。

    なるほどなー、と思いました。そういう観点でゲーム機やなんかについて考えたことがなかったので。
    私にとっての気晴らし(気を紛らわすもの)、というより生きるために不可欠なものは音楽を聴くことと演奏すること、それから読書なのでゲーム機やスマホは必要ありませんが、そうでない人たちにとっては日本で生きていく為に必要なものなのかもしれないな、と考えを改めました。

  3. 日本企業に勤めていますが、2020年の春以降、満員電車から突然開放されました。
    こんなに時間が取れるのだと感動しました。5時に終業したらその瞬間にくつろげるのが基本になるなんて想像すらしていませんでした。
    医療はじめオフラインで仕事をしないといけない人には申し訳ない分、そうした人たち含めて社会全体がもっと過ごしよくなるようにちゃんと働かないと、と思います。

    子供の学校もコロナ渦のため、強制的に密に過ごさせられる機会が著しく減っているのは嬉しく思います。

    人と人が物理的に距離を持ってもより良くやっていけるやり方がもっと進化して、逆戻りしないことを願いつつ、自分なりのいいやり方を試行錯誤中です。

  4. >なんだか慌てて、「ガメ、あんまりひとに言うなよ」と述べて、落ち着きが悪い様子になっている。

    なんて品の良い、好いたらしい人でしょう!いいなぁ。すてき

    >去年より成長したかどうか
    ってさ、わたしにもぞっとする問いかけだけど、トロルなんかもうそれを感じるための器官を失ってるのではないかしら。

    この間ねえ、ある子に
    「この国って人間の国なのかなぁ」と半泣きで訪ねたら
    “In many cases, not” と答えが返ってきてね。
    こういう簡潔さと無駄のなさをわたしも日本語に持ちたいと思っているところです。
    油断するとすぐ情緒まみれになっちゃうから!

  5. 日本人にとっての「世間」とはドラッグのようなものにも思えます。
    いっときの安心感や温もりを与えてくれるし、ときには高揚感も得られたりもするので。
    世間から離れてみようとしても、一人の時間に耐えられなくて、静かさに耐えられなくて、結局、賑やかな、みんなと一緒、に戻っていく。自分一人ではなかなか答えが見つからない問いにも、世間は答えを用意してくれるので楽チンだし。その答えが本物かどうかより、それを受け入れることで得られる安心感に引き寄せられてしまう。嫌ならば、逃げ出せばいいのに、逃げ出せないのは、この安心感の奴隷だから。
    世間は求めるほどには与えてくれないということ。世間は自分の幸福など面倒は見てくれない。
    そして、自分の人生は有限だということ。
    そう何度も自分に言い聞かせ、目覚めさせ続けながら生きるしかないのかなと思っています。私にとっては、70歳、80歳になっても進歩し続ける人がいるということが希望の光ですね。
    > 自分のなかに育んだ善意が人間を、堂々巡りの繰り返しから救いだして、前に進ませる
    この部分が好きです。

  6. 生活を持てないで生きていると、気がつくとすぐ10年くらい経っているように思います。振り返ってみても何も思い出せない、あっという間の10年。でも、多くのものを失った10年。
    それではいけないと思い、少しでも地に足のついた生活をしようと心がけてはいるものの、長年の習慣か、油断するとすぐに生活が消えてしまいそうになります。
    そんな時にこの記事に出会えたのは幸運でした。もうしばらくは、生活を持った人間でいることができそうです。ありがとう。

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