適切な距離を見いだすのは難しい。
むかしは日本の社会のなかに飛び込んでしまって失敗したものだった。
日本文化の性質から、距離をとればとるほど日本の人との関係はよくなって、日本文明自体も輝きを増して見える。
でも、ほら、細部は見えなくなってしまうでしょう?
遠くから眺めた現実の美しさは、限りなく観念上の美に似ている。
ランプシェイドがあるラウンジライトの光に照らされたやさしい形をした腕の金色の産毛の美しさは、通りの向こうに佇っているひとの美しい姿とは(チョー当たり前だが)質的に異なっている。
通りの向こうの人が通りを横切るために足を踏み出して、
あっ、危ない!
突進してきたクルマに撥ねられそうになっても、あのひとには全くわしの声が聞こえなかった。
撥ねられて、まるで人形のような奇妙にねじれた姿勢で、ボンネットで跳ね返って、道路に叩きつけられる。
わしは目撃した悲惨について記述するだろうか?
適切な距離を見いだすのは難しい。
英語の家に帰ってきたので、わしは日本語に全く背を向けて他の言語の人と話をするだけでベッドに向かう日も多くなった。
いまはいくつか記事に書いたレベル4ロックダウンで、しかも去年の初めてのレベル4ロックダウンにはnoveltyがあって、ちょっとした冒険で、ほんとうはみんな少しウキウキしていたところもあるのだけど、今度は、まったくのhome detentionで、鬱病にならないでいるのが精一杯の人が多くて、
大好きな海にも出られず、どうせあんまり好きではないけども、飛行機も飛ばせず、ドライブさえ出来なくて、わしも時間がたくさん余っていて、知らない街角でクルマを降りて、ほっつき歩く代わりに、本ばかり読んでいる。
30代も後半になると、読む本の範囲も広大で、科学が中心の読書だと言っても、散文文学も読めば、出自の詩も読めば、犯罪と戦争の記録に著しく偏ったノンフィクションも読む。
十代と二十代は、中毒がひどい人のように、どこにいても本を読んでいて、一日に4冊は読む生活だった。
そのあいだじゅう、振り返って感心するくらいバカだった。
読書中毒というのではなくて言語中毒だったのだとおもいます。
ガーゴイルについての本ばかり読んでいて、ガーゴイルからガーゴイルへ世界中を旅したことがあった。
英語の社会が嫌いで、いろいろな言語を渉り歩いて、その言語で出来た町に何ヶ月も滞在することを繰り返した。
おなじ英語でもニューヨークならいいかな、と考えたこともあったのをおもいだす。
アメリカ人は、英語人のなかでも飛びきり異なっていて、わしの周りのひとびとは名うてのアメリカ人嫌いばかりだったが、わしはアメリカ人たちの一種の「バカバカしさ」が好きだった。
大仰な演技性というか、英語は爾来アンダーステイトメントでなければ成り立たない言語なのに、アメリカ人たちと来たら誇張表現が大好きで、止められなくて、Dynamite! でもあきたらなくて、Atomic! などと述べていて、
ヒロシマ体験をもつ日本の人たちに顰蹙を買っていて可笑しかった。
適切な距離を保つのは、ほんとうに難しい。
だいいち、存在するためには、きみはどこかに場所を占めなければならないでしょう?
きみが交叉点に立つと、きみの体積の分だけ、世界の空間は濃密になる。
窒素と酸素と二酸化炭素の代わりに、きみが空間を充填してしまうからです。
言語世界でも同じことが起きて、きみが何事かを述べると、世界の言語空間は、きみの言語の体積だけ稠密になる。
きみは異物でもありえて、言語空間は抵抗して、きみを排除しようとするかもしれない。
でもきみの表現は言語空間に残像を残しながら移動する異物として、空間をほんの少しだけ濃密にしている。
言語には意味と美が内在していて、論理がどちらに属するかは言語に依るでしょう。
論理体系の非論理性に気づける学問もあって、例えば数学は、これにあたる。
わし先生は既存の論理体系のなかでしか仕事をしない数学者はすべからく二流だと述べたが、あのひと自身、自分の論理から出て行けなかった。
最近では望月新一という人が、現存する宇宙と適切な距離を構築するための新しい体系を構築したが、数学らしく、それは従来の意味での論理ですらなくて、数学コミュニティ全体が手こずることになった。
適切な距離を見いだすのは難しい。
神は絶対で、名付けられはしない以上、無限遠にあるのでなければならないが、無限遠の存在は存在しないのと同義で、ただそこに向かおうという、ひたむきな心だけが存在を保証する。
神については考えられさえしないのは、だからで、考えられないものについては仮定しないのが最も良いが、例えばスティーヴン・ホーキングたちのように神を排除して宇宙を説明できればよかったかといえば、彼が最後に辿り着いたのは、昔からのatheismの絶望と暗黒だった。
そこに戻ってきてしまったのは、無限遠の存在を仮定することによってのみ成立する英語という言語自体の問題でしょう。
ノートルダム寺院の屋根の有名なガーゴイルは世にも鬱屈した顔でパリを眺め渡しているが、彼の憂鬱の最大の理由は、地上に舞い降りることを禁じられたことから来ているのではないかしら。
彼は「立ち交じる」ことを禁じられて、あの場所で頬杖をついている。
わしは目撃した悲惨について記述するだろうか?
目を固く瞑って、全てが終わったときに、恐る恐る目を開くだろうか?
なんだか、悲惨を目撃する自分が存在したこと自体を否定しそうな気がすることもあるのです。
atheistの絶望と暗黒によって。
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>適切な距離を見いだすのは難しい。
うん。本当に。
世界にとって異質である自分を確認する瞬間と、
近寄りすぎている自分への警告と。
曲の中の1つの音に触れすぎている時に、自分がどこにいるのかわからなくなるように。
atheismはわたしのような(自分の中と旧い森に沢山の神を見る)日本人に「聖人や天使の名前がつけられた人々」との会話を過ごしやすくさせるけれど、
時折その中に”atheism でないもの”
の欠片を見ることがあって、それは美しく光っていることがある。
それを見る瞬間は、なんと名付けようか。
私は独自の神を信ずる者ですが、それはさておき
宇宙について言えば、何もないところからいきなりビッグバンがおきて宇宙が出来たとかはちょっと信用していないのね。もっと言うと、この宇宙の外側にも もーっと広い世界があるんだと思ってる。でも私たちにはその外界を見る術はない。今のところ。そういうことなら納得できる。
今は読むことが出来なくなっている「日本語の十二年」という記事の中に
“チープイート(例:牛丼、回転寿司)が滅法おいしかったり、ポケットに入るゲーム機が発達したり、自分自身が「移動する家」でもあるかのような現代日本文化の知恵で、なんとか自分が自分でいられるように自分をリラックスさせる工夫がたくさんあって、日本の人が、なんとか息をしていられるのは、あの気を紛らわすものがたくさんある文化のせいであるのは、ほぼ間違いないようにおもえます。”
という一節がありました。
なるほどなー、と思いました。そういう観点でゲーム機やなんかについて考えたことがなかったので。
私にとっての気晴らし(気を紛らわすもの)は音楽を聴くことと演奏すること、それから読書なのでゲーム機やスマホは必要ありませんが、そうでない人たちにとっては日本で生きていく為に必要なものなのかもしれないな、と考えを改めました。
謎解きのようで、何度も読みたくなります。
まだまだ、理解できてない事も多いのですが、atheismというシリーズタイトルで、もうずいぶん昔の彫刻を始めた頃にいくつか作品を作った事をふと思い出します。
若さ故にただ作りたい欲求だけで、何から手をつけていいのかも分からず、とにかく思考する事から何かを導き出そうと無いアタマで考えウロウロしていたのがその言葉の周辺だったように覚えています。
しかしいつしか食うや食わずに耐えきれずに思考する事をやめてしまい、フラフラして今に至るのですが、今また思考の必要に迫られてつい一年ほど前ですがガメさんの本やブログに出会ったところなのです。
この文章であの時にまた少し戻ってみようかと、そんな気持ちにさせてくれました。
日本語と和解するのが難しくてですね、日本語話者のくせに日本語のフィーリングがわからないことがいまだにあるのですよ。
自分はラテン系の言葉と英語なら、まだ自分の感覚として言葉を捉えられるんだけど、日本語は、どうしてもどうしてもわからないところがあるんですよね。
近くにいても細部が見えないし、わからないから、遠くにいるのと同じようにしか、日本という国が見えない。
どこにポジションをとるべきかわからないから、距離感が非常に掴みづらい。
ただ、若い世代に対してはある意味での感覚の共有がまだできていて、自分の年代の人間とか、年上の人間のよくわからない感覚に対する違和感はないから、素直に入って行ける気がします。
僕が終の棲家をいつ見つけられるかは、まだ見えない。
もう少し時間がかかりそうです。
無限の証明に挑み、心破れた数学者たちの歴史について書かれた文章を読んだのを思い出しました。
そして、ふと、仏教が「今、ここ」をひたすら注視するように説くのは、ブッダが体得した生きるための知恵みたいなものなのか、と思いました。
それから、ガメさんにはモニさんがいるから大丈夫、と何となく思ったり、質量を持たない粒子みたいな存在になれたら、楽なのかも、、と思ったりもします。何となく。