破壊せよ、と神は言った

(この記事は2018年3月15日にガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5に掲載された記事の再掲載です)

ビットコインは、ほぼ死んでしまった。
投機の対象としては、さっきみたら1BTCが$8000近辺で、まだ生きているが、なにしろ決済手段として使いものにならなくて、仮に、ビットコインでかつ丼を食べた支払いをすると、調べてみていないが、多分、1000円のかつ丼に2400円の決済手数料、しかも決済されるまでの待ち時間15分というようなことになるのではないだろうか。
人間の貪欲に殺されてしまったわけで、よく出来たアイデアだったのに残念であるとおもう。

他の仮想通貨も軒並みダメで、仮想通貨自体、多分、しばらくは銀行間の送金手段のような、ものすごく限定された範囲で使われるだけになるのではなかろうか。
その場合、例えば「三菱銀行コイン」のような命名のほうが手っ取り早いくらい、投機対象にされることを避けた、閉鎖的な仮想通貨になるような気がする。

ブロックチェーン理論が現実に持ち込まれる嚆矢で、いきなり蹴躓いてしまった。
いずれはブロックチェーンという数学的理論の裏打ちがある保証理論が再度経済世界にもちこまれて、いまの、見せかけ理論しかない、いわば心理学的な市場理論(みたいなもの)に取って代わるに決まっているが、なにしろ、ビットコインの相場がさがると、GPUを寡占的に生産するNVIDIAやAMDの株価がさがるのは、まだ判るとして、ブロックチェーン事業を拡大するIBMの株価までさがってしまう、相変わらずの、連想ゲームじみた市場のケーハクさでは、ブロックチェーンそのものが進歩の足を止められるわけで、不動産会社や銀行が過去のものになる、より理性が支配する経済社会の未来が、また少し遠くなってしまった。

ビットコインが植物人間化した、いまの廃墟で、残っているものは、笑い話だけで、自分の周辺でいえば、2010年くらいから、会う人ごとにビットコインは面白いし、ブロックチェーンを理解するとっかかりになるから、買ってみろ、と奨めて歩いていて、その結果、メルボルンやオークランドで、若い友達たちに会うと、
「ガメ、わたし、3億円できちゃったんだけど、どうすればいいだろう?」と、見ようによっては浮かない顔をしている女の大学生や、「2億円あると、学習意欲がわかないんですよね」とヘラヘラしている男の大学生が、いっぱいウロウロしていて、こういうひとびとは、だいたい、秀才などでは全然ない、日本式の就活がもしあれば、真っ先に不採用を決めたくなるタイプなので、神様がきまぐれで、小さな村のなかで宝クジの一等賞を配って歩いたとでもいうような、ヘンな風景ができてしまっている。

ホーキング博士は、一般社会へのインパクトは、科学者としてよりも科学の解説者としてのほうがおおきかっただろう。
いくつものドキュメンタリを主宰して、神など仮定しなくても、この宇宙は説明できることを、何度も、上手に説明した。

 

人間は理性の部分は、自分で自惚れているよりも遙かに小さいので、正しく理解されていないが、神を仮定しなくても宇宙が説明できると判ってしまったことは、たいへんなことで、判りやすく述べると、カトリックもプロテスタントも、地上の絶対神を仮定する宗教は、神よりもすぐれた仮説が現れることによって、われわれの時代で、一挙にカルト化してしまった。

困るのは、われわれが考えるときに使う自然言語自体が神の存在を前提していることで、こう書くと、必ず、どこかの頭のわるいおじさんが、「神なんて信じる中二病をまず捨てることから学びなさい」と言ってくるのが日本語のめんどくさいところだが、それはどういう性質のインチキな発言であるかというと、なるほど日本語は、もともと中国語を読解するための注釈語としての性格が強くて、他人の考えを摂取するのに向いているばかりで、自分でなにごとかを仮定するには向かない言語なので、言語自体の機構は神を前提していない。

けれども明治以来の、とにかく、なにがなんでもヨーロッパのマネをしなければならないという脅迫観念じみた信念で、「恋愛」を造語し「純潔」を造語し、造語造語を繰り返して、ゴテゴテと西洋の観念を自分達の言語の語彙に塗りたくって、とにもかくにも、同じ機能をもたせるに至った。

だから借りてきた相手の言語が絶対神なしでは成立しえない体系であることが、ただ形だけ、ちゃっかり借りて着服してしまったほうには成立の経過や基調になっているものが判っていない、というだけのことです。

模倣というものの宿命とも言える。

しかし、無茶をやれば、破綻があちこちに起こるのは当たり前で、ついこのあいだ、哲人どん@chikurin_8thを宗匠とするツイッタのタイムラインで話題になったとおり、なんだかブラックな笑い話じみているが、日本語は、例えばintegrityやcommitmentは、あろうことか、訳語もつくらないで、落っことしてきてしまった。
なんだか耳なし芳一の経文を書き込み忘れた耳のような話だが、現実で、いま安倍政権がスキャンダルで揺れている原因も、要するに真因は、integrityのない人間が役人であり、政治家であるという日本の、極めて特殊な状況に拠っている。

We look for intelligence, we look for initiative or energy, and we look for integrity. And if they don’t have the latter, the first two will kill you, because if you’re going to get someone without integrity, you want them lazy and dumb.

と、ネブラスカのカネモチのじーちゃんが述べた、そのとおりのことが、なんのことはない、大西洋を越えて、欧州を通り越して、ロシアの広野をわたった、そのまた向こうの世界の東のはしっこで、現実になっているだけのことであるとおもう。

日本語をやってみると、日本人のintegrityやcommitmentの概念の欠落は、唖然とするほどのもので、最近ネットで遭遇したことに限っても、わざわざ海を渡ってアメリカにまででかけて、ビンボ人からオカネをむしりとる集団金融犯罪に加担していても、犯罪のお先棒を担いだことそのものを自分の成功談としてなつかしんで、そもそも自分がやったことの何が悪いかまったく判っていない人や、まともそうに見えたので、では皆と一緒に考えようと誘ってみると、とんでもない傲慢なお答えで、げんなりしてブロックすると、理由もなくブロックしやがってと大騒ぎする人がいて、親切心を起こして解説してもよいが、逆上しているうえに、そもそも頭のなかに存在しない概念を解説したところで判るわけもないので、ほっておくことになる。

日本語社会では、ヴォルテールの態度を要約した言葉ということになっている
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
が、やたら繰り返されて、あるいは、なぜか
noblesse oblige
という言葉がやたらと好きで、こういう気取った表現が大好きで、魚屋のおっちゃんでも、ほら、ノブレスオブリなんとかって言うじゃないですか、いまのニッポンのエリートは、ああいうのがないんだよね、と述べて、わしをぶっくらこかせたりしていたのは、考えてみると、integrityもcommitmentも概念として存在しない世界に生きていて、なんとなくそこにぽっかりと穴があいて、むこうがわに空虚の暗がりがあるのを、人生の経験から、直観していたのだと理解される。

神が死んでしまったので、おもしろいことに、西洋もだんだん日本に近付いてきたのは、例えばドナルド・トランプのような男が大統領になって、どうやら、ジョー・バイデンが割のわるい勝負に起ち上がるならともかく、そういうことでもなければ、年齢にも関わらず二期目も勤めそうであることでも判るとおり、integrityもcommitmentも、少なくともアメリカでは、どうでもよくなってしまった。

アメリカ人と話してみると、ウォール街人をはじめとする東部エスタブリッシュメントへの怒りはすさまじくて、どうもこりゃ、この人は口ではトランプはダメだと言っているが、あのトウモロコシ頭に投票してんな、と考えることが多い。
厄介なのは、歴史をさかのぼって、神を前提としたintegrityとcommitmentの力にすがって是正されてきた問題、例えば人種問題で、その辺の枝振りのいい木に、ぶち殺したアフリカンアメリカンたちをぶらさげて歓喜の声をあげたり、日本からの移民は委細かまわず収容所にぶちこんだりしていた頃に、アメリカは戻ってしまいつつある。

気の早い人は、いま始まりを告げた時代として「新・暗黒時代」と命名までしていて、「あの道徳心のかけらもない中国人どもは、みんな自分の国に叩き返してしまえばよい」というような、あんた、何世紀の人ですか、というようなことを平気で言う。
余計なことを書くと、「いや、たしかに中国人はひどいから」と言ってくる人がいそうなので念の為に書いておくと、ここでいう「中国人」には、当然日本人も含まれています。

このブログには、むかしから、表向きは人種差別なくなったことになってるけど、そーでもないのよ、とか、連合王国人の有色人差別の意識は、うわべは別として、ちっともなくなってないかもよ、と書かれていて、そのたびに「いったい、いつの時代のイギリスの話をしているんだ」「アメリカの事情を知らなさすぎる。わたしは日本人だが、いまのアメリカで、そんなこと考える人など誰もいない」と、たくさんお便りをもらうが、そうこうしているうちに、現実の白い人たちは、それまで上手に隠していた感情を、隠すのもめんどくさくなって、ロンドンのまんなかで、騎馬警官に「おまえの国に帰れ」と馬上から唾を吐きかけられた中国系イギリス人(実はロンドン大学教授をしている娘の母親)や、ずかずかと入ってきたと思ったら、おまえらが住めるところがいつまでもあるとおもうな、と言うなり、店先のステレオをぶっ壊していくマンハッタンの通行人であるとか、いままでは、そういうことをやっちゃいかんのだよ、の連合王国やアメリカ合衆国の聖域であった大都会ですら、そういうことがいくつも起きて、怨嗟の声が渦巻いている。

まして田舎(でんしゃ)においておや。
ミシシッピ州のコロンバスに出かける友達(←白いアメリカ人)に、別のことを思い浮かべて、「ガンマンに気を付けろよ」と冗談をのべたら、あっさりとマジメに「おれは白い人だから大丈夫だよ」と言うので、なんだか暗然とした気持ちになった。
あんまり友達と話すのに適切な事柄ともおもえなかったが、いつか、この人が「ルイジアナはいいぜ。人がみな親切で、礼儀正しくて、近所の人間が呼びにきてご近所がみんなでランチを食べたりするんだよ。モニとふたりで越したらどうだ」と言っていたのをおもいだして、「あれは、有色人種だと、どうなるんだろう?」と訊いてみたら、ちょっと顔をしかめる感じで、「そりゃ、ダメだよ」という。
どうダメなのか、訊くのは怖いので、訊かなかったが、どうもこうやって世の中はだんだん後じさりしているよーだ、ということは、よく判った。

オークランドのクイーンストリートという目抜き通りで、夜更け、フラメンコを観た帰りにバーによって、モニさんとふたりで歩いていたら、
「神は死んだ!」と叫んでいる人がいる。
見るからに浮浪化したじーちゃんで、酔ってもいるようでした。
よろよろとよろめきながら。。
「判ったか?!神は、死んだのだ!」と叫んでいる。
ひとこと、ふたこと聴き取れないことを呟いてから、
「神は死ぬ前に、この世界を破壊せよとおっしゃったのだ!」と叫んで、
突然、モニとわしの顔を正面から見つめる姿勢になったので、びっくりしてしまった。

モニさんは、気の毒に、とつぶやいていたが、わしはいつもの悪い癖で、あのじーちゃん自身がほんとうは神なのではないか、と考えていた。
神は死んだのではなくて、死んだふりをすることに決めたのではないか。
きみは笑うかもしれないが、なにしろ、神様が実在してくれなくては、きみもぼくも言葉を失って、というのはそのまま認識の手がかりを失って、つまりは現実そのものを喪失して、この世界を、霧のなかで、彷徨するしかなくなる。

判っていることは、世界が再び、強欲と力による支配の時代にもどっていっていることで、小さな人たちにも、気付かれないようにそれに備えるだけの教育がみにつくように誘導しなければならなくなってしまった。
人間に不幸をもたらす「知恵」を与えるのは嫌だったが、仕方ないのではないか。

神がいない世界は、言葉の塔が崩壊する世界でもある。
壊れた塔の瓦礫のうえで、人類がどんな生活をつくるのかは、モニとわしには観ることができない。

でも、そこに至る経過は、芝居の第一幕をみるように、2050年という、例の引き返せない点まで続いていくはずで、やれやれ、くたびれることになったなあ、とおもっています。



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1 reply

  1. ガメさんがあった人は本当の神様か予言者なのではなかろうか。ガメさんにはそういう存在と巡り合う縁があるように思う。

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