日本語人への手紙 1

なぜ日本語で書くのだろう、とよく考える。

ひとにも言われるが、自分でも、なぜこんなヘンテコリンな作業を続けているのだろう、と考えてみることがある。

答えは割と単純で日本語で書いている自分というものが「見知らぬ誰か」で、最近では、いかにも自分とは異なる人になっていったと感じているからであるかもしれません。

外国語としての日本語を身に付けている人は、日本の人がぼんやりと考えているよりは、遙かにたくさん存在して、そこいらの、というと語弊があるが、そのあたりの日本の人では到底太刀打ちできないすぐれた表現を身に付けている人もたくさんいます。

その事実がピンとこない人が多いのは、日本語人自体が言語習得能力が、なぜか異様なくらい低いので、例えば16歳になってから初めて学び始めた言語を母語人なみか、あるいはそれ以上に身に付けてしまうという事態がのみ込めないのと社会として日本語話者を正当に評価する場を作れなかったせいだとおもうが、このあたりのことは日本語教育学が専門のフサコ(Fusako Beuckmann)さん @Biwakaba1310 たちが考えた方が筋が通ったことを考えられるに決まっているので、ここでは、あんまり触れても仕方がない。

自分の心の中を覗き見ながら話した方が効率が良さそうです。

例えばフランス語を書く量は、日本語に較べて遙かに多いが、フランス語を書いているのは、たしかに生まれてこのかた、ずっと付き合って来た、そのせいでちょっと飽きてもきているが、自分で、見慣れた人です。

ところが日本語を書くときには、なんだかメンテナンス不足で英語で考えた事を、そのまま日本語に引き写しているだけのこともないことはないが、たいていは、自分とよく似た、でも画然と異なる、ほんとうは30代も後半なのに、やや自覚がなくて若いつもりになりやすい、無鉄砲で、英語人からみるとエキセントリックな青年がいる。

書いていて、「これは誰だろう?」とおもう楽しみがある。

どうやら生まれてからおなじものを見て、おなじような生活に馴染んで、おなじ人を好きになったりしていて、一卵性まではいかなくても二卵性双生児くらいは似ているのに、英語人の自分からみると、とんでもない、というか、なんだかヘンな人で、言語というものはすごいものだなあ、と実感する。

おおきな理由として、日本語は日常生活では、まったく使わない言葉で、日本語人の義理の叔父と話すときに、二言三言日本語の単語を口にするくらいで、残りはまったくお蔵入りで、このあいだ最後に日本語で話したのはいつかを考えて見たら、5年前だかに数日たち寄った京都と東京まで遡るので、びっくりしてしまった。言い募ると、その前6年間くらいも、まったく誰とも日本語で話していないはずなので、日本語は、まったくの書き言葉だということになる。

そういう特殊な理由にもよるのかもしれないが、多分、言語間の距離がおおきいことによって、まったく別の人格であるようなところが面白くて、延々と十年以上、日本語を書いているのだとおもいます。

奇妙なことが起こって、どうも最近は、「日本語人」を考えるときに、このガメ・オベールなる人を思い浮かべているような気がする。

なんだか怪談じみているが、考えると理由はすぐに思い当たって、「他の日本語人をもう忘れてしまっているから」であるようです。

歳月は恐ろしくて、もう「511回の大遠征」と称していた十全外人計画でなんども訪問して、あまつさえ1年のうちの数ヶ月を過ごしたりまでしていた日本も、記憶のなかでは断片としてしか残っていなくて、そのうえに、なにしろテキトーなので、記憶が改変されてしまっている。

前によく「造語」が多い、と言われて、そうなのか、と考えたが、その人があげている例を見ると、欣喜雀躍や乾坤一擲や単簡で、これはいずれももともと日本語にある表現で、言われてみると、そうか日本の人は古い表現は使わないものね、とおもう。

ガメ日本語自体、主に明治文学(例:北村透谷)と戦後詩(例:鮎川信夫)で出来ているので、古色蒼然としているのは、やむをえないとおもってもらわなくては困るが、一方で、なにもそんなに気張って新しい表現を追いかけなくても、という気持ちもあります。

イブリン・ウォーが、バラク・オバマに似て、(と言うと上流階級出身でバリバリのレイシストだった本人は怒りそうだが)一流の読書人だったウインストン・チャーチルに「きみの英語は、年々古くなるね」と言われて相好を崩した、という有名な逸話があるが、言語というものは、本来そうあるべきもので、新しい表現を生みだしては、社会に選抜されて、生き残った表現が、またもとの「古い」格調のある文章に戻っていく。

いちどアメリカに住んでいる日本の人が、英語についていちゃもんをつけるので、めんどくさいので英語で応えることにしたら、感心に、日本の人には珍しく自分も英語でいちゃもんを付け始めたが、その英語が、売春婦の英語そのままだったので、失礼に怒る一方で、気の毒でたまらなかったことがあった。

英語には不自由しないくらい堪能だ、とおなじ人がどこかに書いていたが、それだけ英語が身についていても、英語という言葉はもともと階級性が強い言葉で、なんの気なしに使った表現で、その人の出自を一瞬で看て取る、嫌なやつばかりなのだという、英語人なら誰でも知っている現実を、知らないようでした。

得体の知れない英語、などという。

主にアクセントを指していて、よくインターナショナル・スクールで勉強したアジアの人の陰口を利くのに使います。

英語では、よくやる意地悪で、これも英語という言語が言外にいろいろなサインを発してしまう言語であることをよく顕している。

英語の俳優の苦労も工夫も、だから、そこにあって、Marianne Jean-Baptisteなんていう人は、ドラマのなかでは、どっからどう聴いたってバリバリのアメリカ人だが、ほんとうはロンドンっ子で、「徹子の部屋」みたいなインタビュー番組で話しているのを聴いていると、純正の美しい英語を話していて、俳優というのは、すごいものだなあ、と感心する。

逆に、設定はブルックリン生まれでブルックリン育ちなのに、オーストラリア人のアクセントで、なんという大根役者だろう、と可笑しかったりすることもある。

アクセントについては、面白いことがあって、人種差別意識が強い人は、ほんの少しアクセントが異なる英語でも実際に聞きとれないで年中聞き返す。

わざとやっているわけではない。

人種差別意識なるものは、たいていの場合、本人も意識していないケースのほうが圧倒的に多くて、「あんたはレイシストだから」と奥さんに言われて、心の底からぶっくらこいてしまったりする人が多いので、よもや自分が人種差別のような野蛮な意識を持っているとはおもっていないことのほうが多いのです。

ところが見ていると、傍から見ていて、この人は人種が異なる人はダメなんだな、と直ぐに判る人は、同国人の同じ白い人同士でも、年中、「え?なんて言った?」と聞きとれないことが多いようです。

わし友の例で言うと、イギリス人で、奥さんが香港の人であるのに、

クイーンストリート、行かないよ、アジア人ばっかりじゃないか、と、うっかり述べてしまう人で、奥さんが、よくうんざりした顔で、「わたしもアジア人ですよ、あなた。わたしにも、うんざりなの?ほんっとに、いつまで経ってもレイシストなんだから」と苦笑いしながら述べていたりする年長の仲良し友がいるが、アメリカ人友の、ほおおおおんの少し異なるアクセント発音されただけの単語を聞きとれずに、聞き返して、「あのおっさんは、おれに喧嘩を売ってたのか?」と言われたりしていた。

インターネットが普及することによって、日本語世界は英語世界とは、ちょうど逆に、世界が狭小になり、日本の人が言うところの「ムラ社会」になって、画一的になり、同調はよくないと口々に述べながら、歴史上、例を見ない同調圧力が高い社会になっていった。

情報量が少なかったアナログ時代には十分すぎるほど多くおもわれた言語人口も、インターネットが普及することによって、皮肉なことに、言語世界として小さすぎる世界の徴候をあらわして、多様性は削り落とされ、日本語が閉鎖空間化したときに必ず起きる、集団狂気と加虐性が頭をもたげて、なんだか中国の説話「狂泉」そのままの、バンザイ三唱社会になってしまっている。

多様性がないということは知的要素に乏しいということと同義です。

日本の人は画一性を求めて見事に達成してしまった。

インターネットが社会を退行させた例として、よく挙げられるようにもなっている。

遠回りに思えても、日本を、日本というアイデンティティを保ったまま再建するには、まず言語から健康を回復しないと、見込みはないように思えます。

具体的には、ダメな日本語を使う人は思考そのものも、いずれ借り物で、ダメなのだと判らなければならない。

異なる言い方をすれば、日本語人ひとりひとりが、自分のなかに自分たちの言語への批評軸を確立して、なにがダメな日本語で、なにが良い日本語なのかを、いまよりも、もう少し観念の高さが高いところで判断できるようにならなければ、なにをやっても覚束ないでしょう。

十年、というような差し迫った単位で、それが実現できない場合は、英語の理解力に拠る社会の階層化が始まって、ちょうどインドが過去に通過した時代のように、「母語=反知性/非文明」というイメージが出来ていくのは間違いがないところのようにおもえます。

あるいは、それはすでに起きてしまっているよ、という職業世界に暮らす人も、もうたくさんいるはずです。

日本語が生んだ、数々の言語芸術が、かつては普遍語でありえた言語の墓碑銘となるかどうかは、いまの世代が、どう言語と向き合うかにかかっているのは明らかであるとおもってます。

では



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5 replies

  1. ネイティブ、ノンネイティブの違いは何か、と時々考えます。

    話し言葉については、おっしゃる通り、僅かなアクセントで「違い」が浮き彫りになり、ネイティブは俄然ノンネイティブに対して、言語的にだけでなく、知的にも、圧倒的な権力を奮います。いかにノンネイティブの語彙や表現が洗練されていても、ネイティブは、音声的な微細な差異を咎めたて、ホストであるネイティブの「言うこと」が正しくて、ノンネイティブの言葉は、内容が非常に優れていても一段劣ったものと見做します。ものすごく理不尽です。この両者の関係はほぼ永遠に不均衡で、訛りが全くなくならない限り、解消されません。言っている内容じゃないんですよ、中身じゃなくて話し方。話し言葉は容赦ない。

    書き言葉はどうなのか。書き言葉の方が言葉の持つ権力からくる理不尽さは随分解消されると思います。その人が持っている知性や感性や魂までもが書き言葉には如実に反映されるように思います。どんなものやことに触れ、何を感じたか、それを自分はどう表すか、ということが問われるので、本当にそんじゃそこらのネイティブよりも、優れたノンネイティブの言葉の方が豊かで知性に富んでいるということは珍しいことではありません。

    言語間では、力関係はどうなのでしょうか。英語が経済的にも学術的にも優位である現代では、学術のある分野ではもう日本語では太刀打ちできなくなっていますね。非常に言語人口が少ない言語は、悲しいけれど、「経済」によって消滅させられています。でも、経済だけが言語の生き延びる要因ではやはりないと思われます。

    それよりも、思想や芸術、詩や文学、音楽、映画、そして何よりもそのことばを使う人々に対する「魅力」が、その言語が生き延びて変容するキーになるように思えます。温かさがなければことばは発せられることはないでしょう。日本語が残るか残らないか、どんな言語に変容するのかは、存外そんなところにあるのかもしれません。

    • 「話し言葉は容赦ない」って、ほんとにそうなんですよね。言い得て妙。

      英語はもともとダメ言語で、途中で何度も匙を投げて、もうフランス語にしようとか、歴史的に大惨事言語ですが、ひとつよかったのはbroken Englishに寛容な言語で、自分たち以外にまともな言語を話せる人間なんているわけない、という極めつけの優越意識に裏打ちされているのかも判りませんが、「言いたい事が判れば、それでいいじゃないか」という気持ちが強かった。

      「正しい言語」なんて、あるわけないわけですが、英語はぐにゃぐにゃして、定まらず、他の言語を取り入れたり、言語として杜撰だったのがよかったかもしれません。

      イナカモン言語の勝利(^^)

      口語と話し言葉は本質的に異なりますが、怖くて容赦がないのは、仰る通り話し言葉のほうです。

      言葉ということを考えるときに、失念しやすいことですが

  2. >英語という言葉はもともと階級性が強い言葉で、なんの気なしに使った表現で、その人の出自を一瞬で看て取る

    >得体の知れない英語、などという。

    >主にアクセントを指していて、よくインターナショナル・スクールで勉強したアジアの人の陰口を利くのに使います。

    >英語では、よくやる意地悪で、これも英語という言語が言外にいろいろなサインを発してしまう言語であることをよく顕している。

    >アクセントについては、面白いことがあって、人種差別意識が強い人は、ほんの少しアクセントが異なる英語でも実際に聞きとれないで年中聞き返す。

    うっうっうっ。
    だからわたしは英国の人と英語で話すのが苦手なんだ、うっうっ。
    英語が母国語でない人同士で英語で話す楽さったらない。

    先日おそらくガメ氏とどこかが同じ学校であろう人と英語でチャットしたけどもうほんと辛かったわ…相手の優しさで会話が成り立ったわ…

    日本語ね。
    もうみんなむしろ乾坤一擲なんて使えばいいんじゃないか。いや乱暴だな。
    言葉は意識の現れだから、美しくなるのなら意識もはっきりしていないとならないよね。

  3. やっとここに来れた。
    今日は仕事がめんどくさくて、明日これを読もうと思ったんだけど、寝れなくて、アクセスしました。

    日本語については全く同意見なので、相変わらずのご明察だなと感心している次第です。

    英語については、人に自慢できるほどドラマや映画を観てるわけじゃないんですが、僕はスタートレックTNGでのピカード艦長をやった、パトリック・スチュワートのしゃべり方がいいなと思ってて、いまでも会話していると、自然に彼の艦長としてのしゃべり方をマネしてることに気づきます。

    自分は大した人間じゃないですが、彼の演じたピカード艦長のように、誇り高き人物でありたい、とはいつも思ってるんですけどね。

    とはいえ、全エピソードを見ていて、彼の弱さも容赦なく描いているエピソードもあったりして、人間ってどんなに虚勢張ってても化けの皮が剥がれて、弱さと向き合えなくて悩み、フランスの故郷に帰ってお兄さんと泥まみれのケンカをして、仲直りして、自分を取り戻していく、という姿に何か親近感を感じたりもしていました。

    僕は、英語を使うときは、どんなにお互い違ってても、しゃべってる人たちと仲良くしたい、と常に考えています。
    確かにネイティヴの人たちと話すと世界が違うな、と思うこともあるんですけど、でも、何か彼らの想いや感覚を感じることがあって、それに触れるのが心地よい、と思うことは多いです。

    英語世界だと本当にいろいろなひとがいて、捨てる神あれば拾う神ありかな、と感じます。

    日本語世界だと、『~がわからなきゃダメ』という縛りがあって、それが僕にはとっても窮屈なのです。
    で、日本語堪能な厳しいドイツ人とかアメリカ人とかにも、ときどきそういう縛りを日本人同様に押し付けてくる人がいて、辛いな、と思ったことが最近ありました。
    こうなると、言語性の問題なのか、と、この文章を読んでふと思ったのです。

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