カヤックで競走はしないが、それでも、上手な人と一緒に二艇のシングルカヤックで出ると、いつのまにか、相手が見えなくなるほど引き離されることになる。
ときどき、夏だけニュージーランドに来ていた子供の時からの、むかしからの仲良し友と一緒にカヤッキングに出る。
たいてい「風光明媚」というクリシェそのままの景色が広がるネルソンの沿岸です。
このひとはオリンピックに出場したことがあるだけあって、わしもカヤックはなにしろ7歳くらいから30年近く漕いでいるので、そんなにヘタッピではないが、それでも、ゆうっくり、ゆうううっくりパドルで左右の水をかきわけているように見えるのに、水に乗って、友達は、どんどん遠くへ行ってしまう。
シー・カヤキングは、おもしろいもので、シャカリキになってパドルをぐるぐる回転させても、意外なくらいにスピードは変わらないので、焦る気持ちを抑えて、やや早めなくらいにパドルで水を押し込んで、先へ行くと、相手は、マッスル(ミュール貝)がびっしりついた岩のそばで、ニコニコして待っていて、岩から引き剥がしたマッスルを差し出して「ガメ、食べるか? うまいぞ」とニコニコしている。
こちらは、ひいこら言いながら、やっと追いついて、ああ、よかった迷子にならないですんだ、とおもっているのに、マッスルを食べ終わると、
「じゃあ、行こうか」
と無情なことをいう。
太陽に寄り添われてしまってでもいるような強烈な陽光の反射に覆われた、美しい、などという言葉では到底表現できない、タスマンの海辺を、また滑るように漕走していく。
人間の一生は、競争を前提にすればむごいもので、同じところから出発したのに、才能があるひとは、のおんびり歩いているように見えて、長い間には、遙かに先の地平線の向こうへ消えてしまっている。
よくあるパターンでいえば、親にオカネをだしてもらって「効率的な」受験訓練を受けて、日本ならばトーダイおじさんたちは口が悪いので「田舎のロータリークラブに入っているような地方名士の親のすねをかじって」ロケットスタートを切ったはずなのに、なんだか、鼻歌まじりで、すいすいと後ろからやってきて、すっと追い越して、またのおんびり歩いているのに、どんなに足の筋肉を酷使して駈けても、なぜか追いつけない相手がいる。
おなじ学校にいると、まるで生まれてから手のひらにさすように世界のことをすべて知っているような案配で、こういうひとたちに囲まれて暮らしていると、「競争社会」というものの本質的なバカバカしさがよく判ります。
おれのほうが二郎ラーメン食べるのは早いんだから、それでいいや、と納得する。
ほんとに、競争なんて、その程度のものだものね。
あれは観衆がおもしろがるためにだけある概念ではなかろーか。
外廊下。
自分の人生は自分のためにある、という簡単なことが明然と判っていなくて、なんだか、ぼおんやりと、そーじゃないかなあー、くらいで暮らしていると、「世の中」や「世間」は、徹底的にそこに付け込んで、きみを利用する。
挙げ句の果ては、母校のために「有名大学」へ入学してしまったり、母親の喜ぶ顔をみるために医師になってしまったり、はなはだしきに至っては「我が社」のために必死の努力をして泊まり込みや朝帰りを繰り返して、疲れ果てて喜怒哀楽もあるんだかないんだか判らなくなって辿りついたわが家で、まだ幼い自分の娘に「おじさん、だあれ?」と玄関で言われて、弾尽き、刀折れ、魂のどこかが復元力をなくして、過労死したりする。
過労死は、他人をだしぬこうとして過剰な労働に陥って死ぬのはアメリカ型で、シリコンバレーなんてところにいくと、あそこにもここにも過労死が転がっているが、たいていの場合、若い社長です。
競走に勝利することへの激しい意志に自分が押し潰されて死ぬ。
日本の人はアメリカ人よりは賢いので、個々の人間の意志を問題にしない。
社会のデザインとして企業に競争を強いて、企業はコロナ対策とおなじに社員への「お願い」によって殺して使い捨てにする。
真摯に死を悼めばすんでしまうのだから、安いもんです。
ローコストである。
どういうデザインかというと、日本の社会は一本道で出来ている。
生まれるでしょう?
お受験という、いかにもな、極めて深刻な問題に軽い揶揄のこもった名前をつけた中学入試で、まず選別する。
ピヨピヨ言っている子供を社会の手が、ほいとつまみあげて、裏返して、「あ、こりゃ女だからダメだな」「これは、ちょっと知能が高いからいいんじゃないか」
「えー、こいつ育ちが悪すぎるわ」
と冗談を述べながら、まず12歳の段階で、勝者、敗者、入賞者と分けます。
次は大学入試。
トーダイという灯台をめざして、闇夜の嵐の海を、必死に泳ぐ十代の若者の群れ、swellに岩にたたきつけられたり、予備校の甘言に騙されたり、嫌みな同級生の言葉に傷つけられたりしながら、大学にたどりつくが、現役、一浪、二浪、…と不思議な順番タグがつけられていて、かつては二浪は一浪におとり、一浪は現役に劣り、競争者として認められるのは、現役二留、一浪一留、二浪までだと言われていたよーです。
最近は、もうちょっと、どうにかなっているに違いないが、なんでか大学に入るまでと、出てからが一本道なのは、あんまり変わっていなくて、その証拠に、みんな同じド退屈で悪趣味な濃紺?の服を着て、同じ髪型で、座って並んで、ウォーホルのキャンベル缶が全体主義化したような有様です。
いっせいに卒業するのは、論理的にいってあたりまえで、どこの国でも卒業式は、みんなで一緒に祝うが、そのあとに一斉に入社するところは、ブ、キ、ミとしか言いようがない風習で、はっきり言ってしまえば、「日本の近代化」なんて言葉の綾、もっと事実に即していうと、そういうことにしておこうという「個人が世間からの干渉や制約を受けずに個人でいられる」という現実を欠いた、ただの冗談みたいな看板にしかすぎない。
ほんとうは、人間は一本道を歩かされれば、その道に適応性がないパーソナリティは、ずるずると後退して、路傍でへたり込んでしまうか、悪くすれば、並木のどれか、せめてもの慰めに姿がいいのを選んで、首をくくる人が出てくるほかなくて、そういう一本道型の人生を歩くように仕向ける社会はデザインが悪いとしか言いようがない。
戸籍といい、多分、ただひたすら軍隊を強くすることに特化していた近代日本の徴兵制度から来ているのか、斉一性を当然とするのでは、個人など育ちようもなく、個人が育たなくて、ヘータイとヘータイ再生産装置としての女の人しか求められない社会では、民主制なんて夢のまた夢で、なにしろ個人に内在する自由への欲求も起こりようがないので、民主「主義」なんていうヘンテコリンな言葉が定着してしまう。
こういうイメージならどうでしょうね。
人生を「道」とイメージするのはやめて、原っぱだと考えればどうか。
あてもなく、うろうろするの、楽しいとおもうんだけど。
風が吹き荒ぶ丘陵を好んで歩く人や穏やかな陽光が降り注ぐ海辺を歩く人がいる。
遠くに見える、自分と異なる人間が目に入れば、ひと恋しさに手をふる。
それでちゃんとやれるのだということを、わし自身はスペインで知った。
なんだ、競争なんてしなくても、公を気にしなくても、ちゃんと世界は進行するではないか。
アングロサクソンって、やっぱりバカだな、と考えた。
原っぱをうろうろしていても、太陽が昇るところをめざして、どんどん歩いていってしまう人は地平線の向こうに消えていって、ある日突然、「ユーレカ!!」と叫びながらチン〇ンを勢いよくふりふりしながら駆け戻ってくるし、遠くまで行って見るなんて、そんなのつまんないとおもうひとは、ハンサムな青年や気のやさしい女のひとと叢に分け入って、あんないけないことや、こんな人に言えないことに耽って、いちゃいちゃもんもんして、やがて元気な産声が聞こえてくるでしょう。
道だけが世界じゃないのよ。
あたりまえだけど。
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原っぱといえば、多分、大学の4年間は原っぱで探索できる猶予期間として見えていたんじゃないでしょうか。最近では、不景気で就職難という認識なのか、その4年間も良いレールに乗って道を先に、有利に行きたい人が増えているように感じますけれど。それでも、自由度は大きくて道でなく、原っぱ的に楽しんでる人が多い、就職という道に戻れるか不安を抱えながら。就職しても、人生は探検で、同じ職場にいたとしても原っぱにいるんだと思いますが、多くの人に見えているのは型にハマった道出世競争レースや、定年まで無事にアガるための双六のよう道なのかもしれません。
ああ。そうか。大学が原っぱとして機能しているんですね。
逆刑務所というか、刑期の期間中は自由なのか。
おもしろいですね
原っぱ、いいですね。かつてどこにでもあった原っぱですが、東京近郊では住宅地に変わってしまい、自分がかつて遊んだ原っぱも何十年ぶりかで訪れてみたら、すっかりなくなってしまって、驚いたことを思い出しました。こうした原っぱが減ってきたことと、「リクルートスーツ」なるものが出回り初めて今では就職活動する人々が皆同じように見えるようになってしまったことと、見事に同期していることに気付きました。考えさせられます。
むかしの文学本を読むと東京は「原っぱ文化」なのだと、あちこちに書いてありますね。
昔をしらないこちらは、「なんのこっちゃ」ですけど
にゃっはー!いい記事ー!!!
これはもうちょう保存版にして書籍第2部の立ち読みに加えるべきね。
昨日、植物や生態の研究をしてる友人(「合う国は人によって違うからさっさと見つけて伸び伸び生きろ」が口癖)とチャットしてて
「社会が受け入れてくれない?社会なんて地球の中の琵琶湖みたいなもんだから気にしなくていいよ」
て言われたので、ちょうど、なんだ、すごいわたしの好きなタイプのリンクだ。
原っぱええのー。
美しい顔の人とすみっこでいちゃいちゃしながらたまに起き上がってギター弾いて歌歌ってたい。
>自分の人生は自分のためにある、という簡単なことが明然と判っていなくて、なんだか、ぼおんやりと、そーじゃないかなあー、くらいで暮らしていると、「世の中」や「世間」は、徹底的にそこに付け込んで、きみを利用する。
何だかそうですね。
人生を原っぱ、ようやくそう生きれるようになりました。
子どもは風の子なのに
なんだかお利口さん強いられて大変そうです
無表情な子どもが多いのは
強制的だからなのか
もっと自由にさせたいものです
私も
人間に順番をつけたがる人たちを、もっとみんなで嫌がるといいですね
そうそう。日本の子供って、びっくりするくらい無口なのね。驚いた
見晴らしの良い原っぱ、いいですね♪
近年は原っぱで生きているような気もします。
いつものことだけれど、至極納得されられた。
自分の人生と言われても、僕のそれはまさに一般の道のイメージだった。
気づかないまま、何かわからないものに急き立てられて行進してるような…
どこに向かうのでもなく、自分が居心地の良い場所に止まっても良いのだと。
ヨットで海原に運ばれたあと、エンジン止めてシーンてなるあの全方位感が自由でスリリングでちょっと好き。(て人生でまだ一回しか経験してないですけどね)海原も原っぱですね。
ガメさん、もうツイッタあきらめてこっちで遊びましょう。ここで楽しみにお待ちしています。
ヨットに乗るんだ! あのひともこのひとも隣のばーちゃんとじーちゃんもヨットに乗るNZと異なって日本の人では珍しいかも。 ツイッタは、とっくに諦めてます。ただツイッタしか使わない友達がいるのと周知性が高いのと。そのうち、日本語ツイッタは臭くて誰もいられなくなるでしょうけど
自分の人生は自分のためにある「はず」で、実際は無いのが日本のひとと思います。数時間も暇ができたら自殺が頭をよぎったりイジメに走ったりするひとは多いでしょうし。部品が当たり前の人生なんじゃないかな。
お弁当を持ってふらふらしながら眺めのいいところでご飯食べるの楽しいですけど、空間も狭いのであまり気分転換もしにくくて、テレビやスマホで気分転換するしかない人も多そうです。
誰のものでもない原っぱが少ないんですよね。広い土地は駐車場にされちゃったりするし。もっと何もないところが沢山あったらいいのになあ。