左翼と右翼 2 ユートピアの終わりに

日本の人の正義は、ひどく幼い。

怒りのぶつけかたは、子供の憤懣の爆発を思わせて、残虐性まで、子供の獣性を感じさせた。

マスメディア、例えば新聞が、古い頭で、判らないなりにネットを取り入れたつもりで、日本社会の最悪の部分である幼児性をネット世界の「論客」や「インフルエンサー」をインタビューの相手や書き手として起用することを通じて、輸入してしまって、日本人が育ててきた戦後社会は日本語ネットに破壊されて、おおきく後退してしまっている。

ひところは、びっくりしたことには「インターネットが悪い」ということになって、グーグルの掘削が浅い、そのうえ1995年以前の世界は存在しなかったのでもあるような当時の検索が批判されたりしたが、いくら言語の壁があると言っても、まわりを見渡してみると、特に英語世界において、どうも話が違うので、インターネットそのものに矛先が向くことはなくなったが、日本語インターネットが社会を、どんどん荒廃させてゆくほうは、ネットそのものに責任を負い被せることがなくなったぶんだけ、たしなめようもなくなって野放しになっている観があります。

だんだん判ってきたのは、日本語には、閉じた空間のなかに数が多い参加者をおいた状態では、頷き合いと同調を尊んで、NOや異なる意見を忌む文化のせいでしょう、まるで集団全体がひとつの生き物のようになって、目を血走らせて、「敵はどこだ!敵を殺せ!」と言い合いながら、手に手に松明を持って、自分たちの狂気の叩きつけ先を探す性質があるらしい。

日本語インターネットが膨らむにつれて、ネット上の言語空間のおおきさに比して、参加者の数が過剰になると、日本語の歴史にある、鬼畜米英、贅沢は敵だ、満州十万の英霊に申し訳ないと思わないのか、お馴染みの空気が出来上がって、戦後は少しは人間としての矜恃を取り戻して、恥ずかしい考えだとされていた「通報しました」文化も、ちゃんと復活している。

おもしろいのは、文学にも流行歌にも「20年後の、この国で」という表現が頻出する、1960年代後半は、同時に「戦争を起こしたおとなたち」への激しい反発が満ちている時代でもあって、追いかけて読んでいくと、このころから「おとな」であることや、おとなびた態度は、なんだか濁って汚れた態度だということになって、「子供の純粋さ」「子供のストレートさ」が持て囃されるようになっていきます。

映画でいえば、まるで若者がぶつかってもびくともしない包容力そのもののような佐分利信演じるキャラクタは人気が低迷して吉永小百合や石原裕次郎が憧れの対象になって、当時人気があった怪獣映画でも、いま観ていて恥ずかしくなる「子供礼賛」の脚本になっている。

おとなは汚れたものだ、ということになれば、ものごとの許容の幅が失われて、その結果としては、現実に対処する能力が、社会として、著しく低くなっていくのは当然のことにおもわれる。

司馬遼太郎が、やや理想化された明治時代を描いた「坂の上の雲」を産経新聞の連載小説として発表すると、戦後すぐの左翼思想全盛の時代に、倒産しかけて、「なんでもいいから朝日と正反対のことを書け」の大号令で会社を建て直した、つまりはなんでんかんでん朝日新聞が主張することと正反対の記事を無差別に書くことによって、ほんとはショーバイの勘に過ぎなかったのに、あたかも思想として右翼化したような印象をもたれていた産経新聞の夕刊が舞台だったこともあって、当時の「知識人」を先頭に、「進歩的」な考えの勤め人や学生たちも、こぞって、激しい口調で司馬遼太郎を非難しはじめます。

いわく、軍国主義者

いわく、右翼作家

いわく、戦争賛美者

そこから、日本に興味をもつ外国人が、ぶっくらこいちまうような日本の「左傾化」が始まって、言っていることだけ聴いていると社会主義革命国家なのに、やっていることはカネモウケ爺そのまんまで、国民は熱心に人民戦線民主主義的な理想を語りあいながら、出世競争に明け暮れる、という不思議な印象を世界に与える国になってゆく。

この時代は一見はリベラルの黄金時代とでも言う様相を呈した時代で、

朝日ジャーナルや読書新聞、岩波書店の「世界」に至るまで、「大衆」ベースで利益があがってしまうくらい、「意識の高まり」がものすごかった。

就中、戦前の大日本帝国がいかに酷い国だったか、戦後も中国侵略を進出といいかえる姑息さで、いかに歴史を塗りかえようとしているか、リベラル人たちは、意気盛んに、ここを先途と論陣を張っていた。

ところが一方では、戦後日本を大日本帝国の継承国家にしよう、戦後のアメリカに押しつけられた民主制と自由の日本は、また原爆を落とされては敵わないから、外見を胡塗して装っているだけの、世を忍ぶ仮の姿じゃ、な側の日本社会は、例えばサブカルチャーの、観ていて、多分、冗談めいていても、安倍首相の「愛国心」は、そのマンガ少年時代の記憶が元になっているのではないかと感じるが、少年マンガ文化の至る所に種をまいて、日陰の、子供部屋の片隅の、社会の表からは見えにくい場所で、「日本は悪くない。英米欧の人種差別的罠に騙されてはいけない。日本は自衛のために起ち上がっただけだ。わたしたちは被害者だ」と吹きこんで、子供たちのあいだに同じ「日本」という言葉で国家をすり替えて、戦後日本ではなく大日本帝国の後継者としての日本を愛する気持ちを育んでゆく。

自分の国を愛したい熱心さが仇になって、この世代は、見事に戦後民主主義と日本、といっても、そのほんとうの顔は大日本帝国、への愛情の、ふたつの相反するものへの愛情を育てていきます。

そこにインターネットがやってくる。

インターネットの特徴は、誰でもが参加して、思いのままに話すことが出来る点で、試験による選別なしに学生をうけいれた欧州の大学とおなじようなもので、その結果は、まずカオスから出発することになる。

もうひとつの特徴、というより欠点は、特に初期において「数」の世界であったことで、支持する人間が多いことが正義の証しと錯覚されていた。

フジテレビがいかにして松竹大船撮影所に打ち勝ったか、考えてみればわかるが、事象の質の理解力に劣る人間社会では、常に愚かなものが大多数を獲得する。

愚かでいることには知的意志を必要としないからです。

いっぺん、バカになってみればわかる。

人生が、とっても楽だから。

毎週、異なる女の人たちの脇で目をさまして、朝からシャンパンを飲んでケラケラ笑って遊んでばかりいた本人が言うんだから、間違いない。

なんちて。

愚かな人間というものは、なにしろ認識の解像度が低いので、本人が、薄ぼんやりした、うすらバカ頭で、「だいたい似たようなものだ」と感じたものは、みな同じものだということになっている。

フジテレビと松竹大船撮影所でいえば、小津安二郎は、画面の人物の角度までなんどでも計測して、やり直しさせる高解像度の世界認識で出来た映画で、テキトー演技でお涙頂戴の「お茶の間ドラマ」や「メロドラマ」と競合しなければならなかった。

もちろん、負けました。

だって安っぽい涙と人間性への強い共感から流れる涙の区別がつかないんだもの。

松竹経営陣は、小津の映画は、どれも全部おなじだ、と認識解像度が低い人間らしい意見で、「あんなもの日本国内でしか通用しないし、もっといえばテレビでも視聴率がとれない」と言われて、ずっとあとで、欧州の熱狂的なファンたちが日本にまでやってきて京橋のフィルムセンターに巡礼し、ビデオ店でVHSを物色するようになるまで、ほとんど忘れられた存在になっていった。

インターネットは、日本語では、いわばテレビ化して、どんどん参加者が増えて、どんどん質が悪くなっていった。

「リベラル=日本の悪口を言う人」な、幼稚を極める一群の愛国人、いわゆるネトウヨが、バーチャル街宣車の屋根に立って、「日本の悪口を言うな。ぼくが許さん」の御託を並べるようになるのは必然だったでしょう。

このネトウヨなるひとびとは、驚天動地の知識のなさと知力のなさの両方を兼ね備えた、無敵のバカっぷりで、ネトウヨに連なるひと以外で、多少でも彼らに知性があるとおもった人は皆無だとおもわれる。

いま観ても誰にも判りやすい頭の悪さです。

あまりに、ひどいので、「あんなのは放っておいても無害だろう」と考えた人が多かったのも当然といえば当然でした。

ところが、ところーが

好事魔多し

東横線は痴漢多し (←良心的なので日比谷線が東横線に変わっている)

意外な弊害が生じて、このネトウヨがあまりにバカタレで、誰がみても「主張」が間違っているのを利用すれば自分が売れるのではないかと考えたリベラル人?たちの一群があらわれた。

パヨクと自称する人までいるが、こんなのが左翼なわけはないので、どう呼べばいいか、60年代に澎湃ホーハイとしてあらわれた、七人のこびと、ハイホー、ハイホー、「進歩的知識人」の出来が悪い模倣者で、日本語ネット語でいえば

「ぼくが考えた知識人」みたいなひとびとです。

彼らの登場で、なにしろ論議の質が、これ以下の下はないネトウヨのレベルまで下がってしまったので、テレビとおなじで、全体の質そのものがひどいものになって、水とバカは低きにつく、という、元のレベルまで這い戻るなんて到底不可能なところまで堕ちてきてしまった。

観察したところでは、日本語ネットの直截の破壊者は、この自称リベラルのひとたちで、このひとたちの罪は重い。

岩波書店や筑摩書房が彼らの本を嬉々として出しているところを観ても、「あれはネットの質がわるいだけのことだから。ネットを見る時間を減らしたらどうですか?」

の、いつもの言い逃れと嫌みは、あんまり通りそうもない。

 

彼らの、愚かな人間にとっては、とても判りやすい、テレビのバラエティショーなみに理解しやすい主張は、ものを考える力がない人達の溜まりのなかで輻輳して、無数に並べた音叉のように共鳴して、日本語は「愚か者の言語」に、あっというまに堕ちていきます。

到底、思考の道具としてすら使えないものになってしまった。

結局できあがったのは、子供が夢見たユートピアで、幼稚な正義が錦の御旗の役割をはたす、現実とつながりを保ちうる知性の撲滅をめざす社会が完成して、いまに至っている。

左翼や右翼という語彙がまったく日本の現実政治を説明できないのは、日本には政治が存在しないからだ、と前回に書いたが、政治が存在しないのは、おとなが存在せず、自然の帰結として社会に人間性が存在しないからでしょう。

森の人と呼んで尊敬している、わし年長友が日本語人は「ユートピア」を誤解しているのだと詳述していたが、その当の誤解の真上に載っかってしまっている日本語人は、はて、あの森の人がいうことが判っただろうか、と考えました。

それとも、判らなかったのではないかしら。

この七十年、ずっと、理解できなかったように。

 

 



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3 replies

  1. ある時Twitterで中東を研究しているらしい学者らしき人物が
    「リベラルなあの欧州の国の性犯罪率の高さについて書きました!!!」
    と鼻息を荒くしていてえらくびっくりしたもんです。

    「リベラル」を犯罪が起きない魔法の言葉かなんかだとでも思ってるんだろうか。
    この人は本当に学者なんだろーか、どうやってそこにたどり着けたのかしら、としみじみ考えちゃった。

    バカでいると責任から逃れられるような気がしてある種の人たちには便利かもしれないんだけど、わからないことは
    「わからない」と認めて学んだり教えを請うことから始めたら良いのになあ、といつも思っておりまする。
    (ちなみに、上記の件をその国の人間に話してしまったら
    「君はしばらくTwitterに行かないほうがいいと思う」とものすごーい怖い顔で禁止令を出されてしまったのを思い出した。そうなのよ。)

  2. 学者だからすぐれた人間だろう、と考えるのは日本の人くらいかな?

    「あの研究をした人だから、すぐれた知性だろう」と考えるのとは真反対の考え方だよね

    • なははそれはそうだ。権威主義的かしら。

      「左翼」についてどうもわたしが思っているものとは違うような?と最近その話をしていて気がついたのだけどまだうまく言語化できない。
      わたしもまだ知らないんだと思う。

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