「時間を取り戻す」_経済篇

(この記事は2011年1月3日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)

英語ではconfidenceという。
confidence、という言葉を見て「自信」という日本語が頭に明滅してしまったひとは、もうそこで大誤解が始まってしまっている。
一回深呼吸をして、そーか、 confidence、という言葉があるのだな、と思ってくれるのでなければ困ります。

「経済」というものは一面、政治のように信条によって一致することのない、さまざまな思惑をもつ人間の心理の複合体だが、この confidenceはいわば経済という欲望と恐怖心がないまぜになった巨大な乗り物の燃料で、これによって経済は動く。

confidenceが高まってくれば投資家は投資し、ビジネスマンは「いよいよ貿易風がふいてきたぞ」とつぶやいて、帆をあげて出帆して事業拡張の冒険に乗り出す。消費者は猛烈な勢いで物欲のトローリー(カート)にものを積み上げてレジに並ぶ。

一方で市場が冷え切って困憊しているときに、なんらかの理由によって合理的なconfidenceを獲得しているひとは比較的簡単に市場における勝者になってゆく。
ひらたく言えば「金持ち」になります。

日本の経済が凋落したのは、そして、その低落の谷間から抜け出せないでいるのは心理的には無論このconfidenceが失われてしまったからで、あたりまえだと思うが、経済を再建したいと思えばどうすればそれが再び獲得できるか考えないと仕方がない。

日本にいるあいだ、「どうしてこの国のひとびとにはconfidenceがないのだろう」と考える、わしの眼についたのは、日本という国に参加している人間全体の「途方もない忙しさ」と「空間のなさ」でした。
へっ? そんなことが経済と関係あるの? というひともいるのかも知れぬ。
おおありなんです。
急に訳のわからない不公正ないちゃもんをつけにくるのでおおありくいは嫌いだが、おおありはおおありなんだから仕方がない。
お話をつくるのが上手だとゆわれているしな。

時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。

日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。

ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。

文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。

confidenceというものは、いったんなくなってしまったところからは、世界との距離が少しあって、自分を取り巻く世界のさまざまな要因を「世界が動いているのとは異なった時間のなかで」観察し考えてみないと恢復できない性質のものなので、3時間ぼんやりと海が見られないひとには再獲得できない性質のものである。
世界と同じ時間で自分が動いてしまうことを、多分、日本語では「流される」というような言葉で表現するのだと思うが、言い得て妙であって、自己の意識としての時間の流れと世間の時間とが一致してしまえば、「個」というようなものはなくなって、流れのなかで溺れてしまうだけである。

しかし、そんなことを言っても、おれはビンボーヒマナシで時間がないんだよ、というひともいるに違いなくて、実はそれは正しい、というか、経済上は重要なことを示唆している。

「賃金が安い国は賃金が安い国との競争になる」
というのは別に経済の知識がなくても直感的に明らかだと思うが、デジタル製品がその良い例で現代の経済では「ものをつくる」社会は際限のない低価格競争に必ず巻き込まれる。すると必然的にその市場で労働するひとの賃金は安く抑えられ、安い賃金で労働するひとの社会では時間が失われ、confidenceも失われてゆく。

おもいきって高い賃金を支払うことに決めた社会では、通常、知財産業か知識集約型の社会にならざるをえなくなってゆきます。
むかし、工業に職人的要素が残っている頃は、そうでもなかった。
前にも書いたことがあるが、レクサスの熟練工員はボディの表面を手でなぞってみて、ミクロンの単位の凹凸がわかる。
日本と並んで(といっても日本よりはややうまくもちこたえているが)製造業にしがみついて将来を失いつつあるもうひとつの「先進国」であるドイツ人は、さまざまな職人的な工夫によって機械に「文化」をしみこませるのに巧みなので有名である。
そういう「質の差」によって高利益をあげることが可能だった。

義理叔父が「どエクセル」と呼ぶ、中国の「KINGSOFT OFFICE」の表計算ソフトは、使っている方から見ると、通常のビジネスで使っている限りマイクロソフトの「エクセル」と何も変わらない。
インターフェースも同じならデザインまで同じである。
中国製の、いま名前がちょっと思い出せない4輪駆動車はどこからどうみてもトヨタの「ハイラックスサーフ」と同じクルマだが、ひとつだけ違うところがあって、オフロードはおろか坂があがれない。
乗り心地、に至っては尾てい骨クラッシャーとゆわれたロシアのラーダ(わしが子供の頃はまだニュージーランドの道路を走っていた)よりまだひどいといわれている。

でもキングソフトの表計算はエクセルと同じ関数式を入力しても計算を間違ったりするわけではない。
ふつーに使えます。

ところが、クルマをつくるためのジグもデジタルデザインできるようになってゆく。ラインが自動化されロボットが導入されるとアナログ要素は極小になってゆく。
人間の能力に依存しなくなってゆくと、「安くする知恵」があるほうが勝ちます。

これも前に書いたように、日本の経済は「ものづくり」にこだわる限り必ず中国に大敗する。大敗するのみならず、ものづくり社会として同質なので、併呑の憂き目をみることになると考える。

暇がないのがビンボーなせいならば、思い切った高賃金を払わなければならない。
それも若い世代に払わなければならないのは「トザイケーザイ」の記事に書いたとおりと思う。
そこから生まれる人間として過ごせる「時間」だけが、社会のconfidenceを生み、経済再生のドアを開ける。
一国の経済にとってはおもいきった高賃金に移行するというのは、個人の懐を豊かにする以上に「社会の体質を変える」ひいては「産業構造を改革して別次元に移行する」というたいへんに大きな意味がある。

空間のほうは、いうまでもない、というか、日本や北欧の都市くらいひどければ人間としての気持ちなどもちようがない。
日本や北欧で「空間」がものすごく高価なものになってしまって、人間が呼吸するのもたいへんな有様になったのには、北欧においては過大な社会保障、日本においては農家への補償がその最も大きな理由と思いますが、今日は気が遠くなるようなすみれ色の青空の夏の日である。
遊びに行かないわけにはゆかないので、残りはまたこの次。



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3 replies

  1. 携帯ではなくラップトップを開いてこれを書き始めました。Twitterではなく、このコメント欄にお返事を書くことにしました。画面の広さや字数制限は単なる物理的な制約ではなく、思考の地平を変えると思われます。それはちょうど、「高賃金」が「個人の懐を豊かにする以上に『社会の体質を変える』ひいては『産業構造を改革して別次元に移行する』というたいへんに大きな意味がある」のと同じように。だからと言って、立派なことが考えられるわけではないのだけど。

    私はこの記事が大好きです。まず、confidenceの意味は、自分が自分自身に対して持つ、私は私のままでいいという揺るがない”自信”に満ちた安心感、であるということがわかりました。そしてそれは、余裕がないと持つことができないことであることも。当たり前ですね、condidenceは余裕なんだから、余裕がないと持てない。それから、「併呑」という言葉をはじめて知りました。他国を自分の勢力下に取り込むこと。漢字をよくよく見て文脈を考えればわかるはずが、辞書を引いてやっと納得。辞書ってすごいね、安心させる何かがある。

    さて、「時間」。「文明人で精神が健全」であるためには休まなければならない、というのは本当にその通りだと思います。子どもは直感でそれを知っているらしく、近所のイッペイくんは、4人きょうだいで他はみんな女の子だからか、週末、晩御飯を一人うちに食べに来ることがあります。私たち夫婦と何を話すでもなく静かにご飯を食べて、その後、ソファーに座って、一人ぼおっと過ごしています。ご両親には、晩御飯を食べ終わるのが遅くなるから帰るのもちょっと遅くなるとLINEで伝えておいてほしいとのこと。イッペイくん、曰く、静かに一人でいたいのだそうです。一人で豊潤な時間を過ごしているのだと思われます。(今はコロナが蔓延しているので、近所の子供たちをうちに迎えることはしていないのだけど、)彼らはうちに来ると、特に何もすることがないし何かをしろとも言われないので、折り紙を折ったり本を読んだり絵を描いたり踊ったりお話をしたりしています。お話の中には、実は異母・異父きょうだいがいることや、学校の授業の中で道徳の時間が一番嫌いだ、というようなことも含まれていたりします。踊るのは好きだけど学校や友達の前では踊らなくて、さこちゃん(=私のこと、子どもたちとご近所さんは私のことをこう呼びます)のところで踊るだそうです。すごく上手なのに。小さい人たちを見ていると、一人一人人格があって、世間というものに疑問をもったり、それに対する自分なりの回答を得たりしながら、生きていることがわかります。大人にもですが、健全な精神が宿るよう彼ら小さい人たちには十分な時間が与えられるべきだと思います。

    思えば、私も、子ども時代、潤沢な時間が与えられていました。学習塾に行ったこともなく、うちにあった近代日本文学全書を読んだり、美術部だった母の世界なんとか画集などを眺めたりして過ごしていました。そう言えば、母は、なぜ週末まで部活を子どもたちにさせるのかと中学校に物申す部活反対派でした。

    今、ありがたいことに、人生初のサバティカル(=研究のための研修期間)を1年いただけていて、じっくり腰を据えて研究をすることができています。論文や専門書を書くのは、授業や会議の合間に3時間、間があいたからといって(私には)できることではなく、その前に同じだけの時間が必要です。6時間執筆するには、6時間の助走が必要。ぼうっとしたり、構想を考えたり、関連の本を読んだり、お茶を飲んだりする助走時間があってはじめて、文章が書ける。文明的なことをするには潤沢な時間が要るということですね。

    自分の人生を生きることも同じです。夫は、体と心がついていかなくて、今年の4月から6月まで3ヶ月休職しました。そして、6月のある日、会社を辞めてビール醸造所&ビアレストランを開業すると、決心しました。このまま会社に勤めていれば経済的には安泰なのだけど、それは彼にとっては、自分の人生を十全に生きることにはつながらないことを、休職してはじめて心から納得したようです。新しい人生を歩むことを決めることができたのも、心と体を休ませる時間があったからでしょう。

    (でもね、創業はとても大変…借金も新たに抱えることになるし、数年は自分自身の給料は出ない状態になるようです。ま、勝算がなければ、大きなリスクを背負って起業しないのだけど。)

    (あと、夫の名誉のために追記すると、彼の会社は製薬会社で、彼は新しいメカニズムの睡眠薬の創薬を提案しプロジェクトリーダーとしてFDAや加、豪、香港などの国で承認・認可される薬を開発しました。創薬の世界では提案から認可までは気の遠くなるステップがあり、提案から認可に至るのはほんの数%と言われています。この薬(Dayvigo、デエビゴ)は認可されて1年で日本で最も売れている睡眠薬になったそうです。ちなみに私も、私の心療内科のリン先生も、この薬の恩恵に預かっています。彼は、このプロジェクトで燃え尽きてしまったのかもしれません。)

    なんだか、徒然なるままに書き記し、長文になってしまいました。まとまりもないし、あまり自分では納得のいかない文章ですが、まあ、いいか。コーヒーを淹れて、頭を休ませます。

    またね。この記事を書いてくれて、ありがとう。

    • 「6時間執筆するには、6時間の助走が必要。」ということばをみて、ああそういえばそうだったなと思えました。

    • 助走時間と言う言葉はいいですね。脳の端っこに染み付いている、時間を無駄にしてはいけない、時間がもったいない、とかいう強迫観念みたいなものを追い払うのにいい気がします。

      自分自身を振り返っても、ふと思いついて何か新しいことを始めるとき、というのは、ある程度心に余裕のあるときで、たぶん、十分な助走時間が取れたときなんだろうなと思います。

      そして、自分の中から思いついたアイディアを形にしようと取り掛かるときのあの突き動かされるような楽しいワクワクする感じは独特だなと思います。人から勧められたり、人がやっているのを見ていいなと思ったりして何かを始めるときにはあの感じは無いなと思うのです。たぶん、研究者の方々もふとひらめいて猛然と机/実験室etcに向かう、みたいな瞬間があって、そんなときはすごくワクワクしてるんだろうなと想像します。

      現実的な問題が降って湧いても、あのワクワク感が持続しているうちはそれが問題を乗り越える行動の原動力になって働いてくれる感じがします。そう考えると、助走時間という言い方はすごくしっくりきますね。

      あのワクワクする時間の総量が人生の豊かさなのかなあと直感的に思います。

      休息/助走時間→ひらめく→ワクワクしながら取り掛かる、このサイクルがうまく回っていると人生が豊かになっていくイメージができます。悪意の入り込む隙はないし、膠着した人生から抜け出られそうな気もします。

      忙しいときほど、予定に「助走時間」を書き込んでそれを死守するくらいがいいのかもしれないですね。

      ちなみにこの文章は、作業環境のトラブルで仕事ができなくなってしまい、ぽかっと空いた時間に書いています。そして今、窓の外の雲の隙間の青空をぼーっと見つつ、このまま一日休みにして午後は散歩にでかけたらいいんじゃないかと思い始めています。

      それから、この記事を読んでいて、最近書かれた「原っぱの効用について」を思い起こしました。こっちは「時間」に焦点をあてていて、あっちは原っぱのイメージから似たようなことを伝えようとしている感じがしました。 この記事は10年前のもののようなので、きっとこの10年ガメさんは手を替え品を替え?、日本人の心にむかってこのようなメッセージを送り続けていたんだなあと思い感動しました。(ver5を知らない遅れてきた読者です。)その根っこにあるのは善意ですね。

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