ハウラキ・ガルフ

ニュージーランドは、昔から、飛行機や船に乗る人が多いので有名です。

いまは少し厳しくなったようだが、飛行機の免許なんて、日本のクルマの免許取得程度で、しかも、これはいまでも変わらないのではないかとおもうが、免許取得のコストも世界でいちばん低い。

気楽なものなので、わしガキの頃、82歳のばーちゃんが免許を取ったりして、ローカル紙のニュースになっていた。

多分、世界記録として残っているのではないかとおもいます。

普通の国なら、到底飛行を許されないオンボロ飛行機を飛ばせるのもニュージーランドで飛行機の操縦桿を握る人が多い理由のひとつでしょう。

整備不良のセスナが、よく南島の山のあいだに墜落する。

飛行場も、カンタベリーのような農場地帯に行くと、オープンロードを走っていて、プライベイト飛行場の滑走路にグラマンのT4が鎮座している、なんちゅうのは、普通の景色です。

飛行クラブに行くと、スピットファイアVIや、アメリカ機のなかでは最も人気があるムスタングP-51、わしがだいだいだいすきなタイガーモスが並んでいる。

もっとも飛行機の操縦は観念の上では3次元空間の自由が得られて、「空を鳥のように駆けめぐる」楽しさにあふれているが、現実は、かなり退屈な乗り物で、考えて見ればわかるが、例えば、草臥れたので、ちょっとそこの積雲に乗って、一休みで午寝、というわけにいきません。

たいていは点から点へ飛んでいくだけで、ぜんぜん面白くない。

北米に住んでいれば、町から町へホップして、距離もちょうどいいので、飛行機には移動手段としてのメリットがあるが、ニュージーランドは小さな島国で、隣のオーストラリアは2400km先なので、そうおいそれとは飛んでいけなくて、どうも、あんまり軽飛行機にとっては条件がよくないようです。

ジョン・トラボルタはボーイング707とボンバルディアのチャレンジャー601の、大型旅客機を二機も持っていて、自宅が空港みたいな飛行場になっているという飛行機狂で有名なひとだが、あるいは、将来は、もしかして、いろいろなことに飽きて、他にやることをおもいつかなくなってしまえば、自宅に飛行場をつくって、操縦特性も乗り心地も、えらく良くて、銃弾が当たると簡単に火がつくせいで「一式ライター」と呼ばれるほど戦争にだけは向いていなかったが、航続距離も遠大だった、一式陸攻のレプリカをつくってオーストラリアから飛び石伝いに日本まで飛んで行ってもいいのではないかとおもうが、それまでは、いまのまま自分の飛行機はフライトクラブに貸して、飛行機の大家さんでいいや、とおもっている。

船は、日本では、ちょーちっこいボートにも免許がいるとかで、ぶっくらこいてしまったが、ニュージーランドには、もちろん、そんなめんどくさい制度はなくて、わしはコーストガードが発行するスキッパーライセンスを持っているが、別になくても、60フィート船も操れれば、VHFの無線を使うことも出来ます。

船を持つというのは金銭的には愚かの極みで、建造40年くらい経った船でも、海に出られるコンディションのものならば、最低限の33フィート船でも、「中古価格」で1200万円くらいはする。

そのうえに価格のだいたい1割程度が毎年毎年維持コストとして消えてゆくので、オカネの使い方としては狂気の沙汰で、ちょっとオカネモチならば買う40フィート船は日本円で一億円は軽く超えてしまう船ばかりで、気が付いた人もいるとおもうが、金銭上は、乗り物であるというより、維持費がかかる別荘だと考えるほうが感覚的にあっている。

いま、ゲームになっているので有名な服部名人のボートをグーグルで検索してみると、多分、33フィート船で、あまり見慣れない船影なので、日本製かどこかの船だとおもうが、たしかこのひとは、ニュージーランドのネルソンかピクトンか、そのあたりに自分のボートを置いてあったのだとおもいます。

どうやってもオカネがかかるかといえば、そんなことはなくて、わしが初めて自分で買った25フィートのヨットは、すんごいオンボロだったが、50万円するかしないかくらいで、船底に穴が開いていたりして、自分で直して使っていたが、後でブラックジャックで勝ったオカネで8馬力の船外機をつけたが、風まかせで、維持費は、全部自分で直したり塗装したりだったので、限りなくゼロに近かった。

ヨットは特に、「バケツで汲み出す水の量が浸水してくる水の量よりも多い限り沈まない」というくらいで、相当オンボロでもブルーウォーターを航行できるので、若くてビンボなきみには、最も向いている。

と、ここまで書いて、そうか、日本の人に「ボート」と言ってもイメージが湧きにくいんだったな、と気が付いたので、代表的なディスプレイスメントのケイディクローガンの船内画像を、二枚

     

©Kadey-Krogen Yachts

 

ね? 小さい家みたいなものでしょう?

土地代がただの住宅とみなして、船に住んでしまう人も多い理由が呑み込めるとおもいます。

一方では、トレーラーボートと呼ぶ、トレーラーに乗せて、自宅の庭や通りに置いておける68メートルくらいの高速船も、ニュージーランドでは人気があって、いちばん数が多いのは、このクラスだとおもわれる

オークランドは、海に付属しているような町で、よくハウラキガルフのアネックスだなどという。

ニュージーランド人が、たいへん誇りにおもっているのは「海が生きている」ことで、もう先進国では、ここくらいのものかもしれません

わし海友で考えても、オーストラリアのグレートバリアリーフから越してきたひと、サンディエゴやマイアミから越してきたひと、みんな、自分たちの海が死んでしまって、「生きている」海を求めてやってきたひとたちで、

海のコミュニティの人間たちにとっては、最後の楽園で、ニュージーランド政府が釣り人に課している、様々な厳しいルールにも、よいことであるとおもう、という反応が一般的であるようです。

特にCOVID禍以来、モニとわしの遊び場は、もうレストランやバーも行く気になれないので、海に移行した。

だいたい直径が120kmくらいのハウラキガルフの内側は、少なくとも、ちょっと点在する島に近付けば20Mbp程度だがインターネットも使えるし、船内には映画を観るためのプロジェクタスクリーンもあれば、小さいほうの40フィート船でも、ヨットもディスプレイスメントでも、冷蔵庫も冷凍庫も家庭用の大型がソーラーパネルで発電してインバーターで240Vに変換された電力で使えるので、なんだか家にいるようなものです。

なにをやっているかというと、ハウラキガルフには、北島の浜辺はもちろん、おおきな町があるワイヒキ島を始めとして、人口が一桁の小島、無人島に至るまでたくさんの島と浜辺があって、沖合に錨をおろして、ディンギイで上陸してピクニックをする。

磯にたって、船からは釣りにくい、アオリイカを釣る。

空を横切る、でっかいミルキーウエイを甲板に寝転がって眺めている。

珍しがって、寄って来る、鴨さんやカモメ、ブルーペンギンやイルカと遊ぶ。

夏は、もちろん、プラットホームから海に飛び込んで、泳ぎます。

アジアの暖かい海になれた移民のひとたちは、水が冷たいと言って嫌がるが、白い人たちは根がアホなので、心臓が止まりそうな冷たい水に飛び込んで、きゃあきゃあ言って喜んでいる。

ハウラキガルフでは、アオリイカ、真鯛、サバ、鰺が釣れるが、ハウラキガルフを一歩でると、カツオやヒラマサ、運がよければマグロやミナミマグロが釣れる。

もっとも釣りは、あんまりメインの楽しみではなくて、海というのは不思議な場所で、なあんにもない、360度、見渡す限りの水平線に囲まれた「膨大な水」のまんなかで、心をからっぽにして、青空を見つめて、ぼんやり、まどろんでいるのが最も楽しくて、表現の適切さとしてヘンだが、最もエキサイティングでもある。

わしは、もともと海の上にいるときのほうが、ぐっすり眠れる半魚人体質だが、ある夜も、先んじて、舳先のベッドで、ぐうぐう眠っていると、モニさんが起こしに来た。

「ガメ、起きろ。面白いことがあるぞ」という。

モニさんが「面白い」と述べて、つまらなかったことはないので、アンダーパンツとTシャツのまま、ついていきます。

船尾のプラットホーム(←水面に近いとことに張りだしているステージみたいな場所)にディンギイのオールを持って立つと、明かりを全部消して、

モニさんが水をオールでかき回した途端、水の表面にオーロラが現れたような美しい緑色の光が踊りだす。

いるとは見えなかったのに、夜光虫がいて、攪拌された水に沿って、ほんとうに海のオーロラとしか見えない光の文様を描いている。

そのうえに、夢中になってオールを動かしているモニさんは、言えば怒るに決まっているが、まるで五歳児のようで、真剣な表情で、子供の身体の動かし方で、ジッと水面を見つめている。

「写真、撮らなくていいよね」とマヌケなことを言う、わし。

モニさんがふり向いて、「うん、撮らないほうがいいとおもう」

記憶のなかの光のほうが、デジタルに調整された画像に焼き付けられる光よりも、ずっと美しいに決まっているもの。

「ずっと、一生、一緒にいようね」と、再びマヌケな科白を述べるわしに、モニさんは、あの美しい笑顔でニカッと笑って、

「当たり前だぞ、ガメ」という

病があって、死が、この先にはある。

永遠に幸福なままだけでいられるわけはないが、幸福そのものは永遠なのだと、モニさんの透明な笑顔が述べている。

この幸福な瞬間が残りの一生を覆い尽くしてくれますように、と神に祈るが、口はださなくても、お互いの祈りの声は聞こえてきます。

海の、静寂の言葉で。



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4 replies

  1. 笑ってしまう
    そうか、根がアホなのか…だからあんな冷たいところに…

    >アジアの暖かい海になれた移民のひとたちは、水が冷たいと言って嫌がるが、白い人たちは根がアホなので、心臓が止まりそうな冷たい水に飛び込んで、きゃあきゃあ言って喜んでいる。

    >永遠に幸福なままだけでいられるわけはないが、幸福そのものは永遠なのだと、理屈ではなくて判る。

    やっぱりここは、何度読んでも、おお!詩人だ!さすが!と思うな。幸福そのものの本質を切り取っている。的確に。
    復活せんきゅー。

  2. 70colorsさんも、哲人どんも、引用している、

    「病があって、死が、この先にはある。

    永遠に幸福なままだけでいられるわけはないが、幸福そのものは永遠なのだと、モニさんの透明な笑顔が述べている。」

    のところ、わたしも大好きです。

    その中でも特に「幸福そのものは永遠なのだ」のところ、昨夜暗唱して寝ました。

    いろいろ思うところあって、思うだけじゃ足りなくて、寝返りを何度も打ちながら、身悶えしながら、涙しながら、何度も何度も反芻しました。

    今ちょうど、自分が、自分たち夫婦が、動こうとしている方向で本当にいいのか非常に不安になっていて、その不安の奥底に、相手を思いやる気持ちがあって、そして、その不安が大きければ大きいほど、その相手を思う気持ちは強くて、もう、それはわたしのものなのか、夫のものなのかわからないほど。

    ガメ氏も「夏の跫音」に書いていたけれど、わたしも、よくあります。夫にコーヒーを淹れて持って行ったり淹れてもらったり、あっあれ壊れているから買い換えないとね、とか、あの人どうしているかな電話しよ、とふとした言動が、ちょうどそのとき、まさにそのとき、お互いに、なんとなく同時に考えていたことで、テレパシーでもあるのかなと思う瞬間。心と心が言語を介さずにつながっているような瞬間。大抵は、わたしの言動が、ちょうど夫の考えと一致していて、夫は驚くのですが、わたしはあまり驚かなくて、だってわかるもん、自明よ、って思うのだけど、「なんで、僕の考えていることがわかるん?」って言われるときは、幸福感に包まれる。

    この幸福が私たち夫婦にはこれまでもう何百回も繰り返されていて、だけど、これからも、これがこれまでの何倍も繰り返されることを願っている。「死が、この先にはある」ことも「永遠に幸福なままだけでいられるわけはない」ことも知っているのだけど。

    2021年11月18日
    ボイクマン総子

  3. お二人の言葉少なな会話に込められた情感に圧倒されました。

    永遠の価値のある一瞬、そんな時の記憶を持つ人は幸福な人だなと思います。それ以外の何がどうなろうとも。そして、そんな幸福な人たちがこの世界に居るのだということが、温かな希望のように感じます。遠い国のおとぎ話のようにも感じられるけれど、人は生きていくためにおとぎ話が必要なのだとも思います。

  4. がめさんのエッセイは情感の伝わる文章だと思います。質量揃った読書に裏打ちされているのだろうなと。実体験を何気なく書き表すことはとても難しくて私にはほとんど出来ないけれども、水が流れるが如くさらりと描写されているのも好きなところです。

    最近は言葉にするのが色々と億劫なのだけど、善意は悪意の十倍重ねないと打ち消される。という友人の言葉を思い出したので、白い石として一つ積んでおきます。
    また書いてくれてありがとう。

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