もうすぐ、三十八歳

最近、ラッキー順風満帆が度を越しすぎて、脳が退化してきてるような気がする。

言語においても、最も適切な表現に、あっ、手が届く、というところで、するっと逃げられてしまう。

息が短い海女さんみたいなものです。

このごろのオーストラリアやニュージーランドのワインには、ソウルらしきものまで、やや備わってきて、おいしいので、アルコールの取り過ぎで大脳が萎縮しているせいもあるし、このごろエクササイズを怠っているので免疫が低下して、風邪をひきやすくなっているせいもあるかも知れないが、この「なにによらず92%くらいまでしかいかない」症状は、なにがなし、いらいらさせられる。

もっとも海に出て、陸影が見えないところまで行くと、突然、伸ばした手が100%にピタピタつくようになるので、なんだか陸の文明の瘴気のようなものがあって、それが体感されるようになったのかも知れません。

なんちて。

実際には、モニさんに肩を支えられて、ヘロヘロヨロヨロ、杖をついて歩いているようなものなのだけど、自分の頭のなかでは、ある日、ふいと「若い日々」に言葉にしないまま、そっと、別れを告げて、荒野の一本道を、小さなバッグも持たずに、ひとりでまだ見えない地平線の向こうの土地にでかけるようなイメージで自分を考えていた。

希望ももたず絶望もせず、ただ自分がなにを見ているのかだけ正確に理解しようと努めてきた。

普段、立ち寄った日本語ツイッタで、日本語の友だちと、ふざけて「写実主義」と呼んでいるが、なにも表現しない、なにも感想を持たない、ただ描写するだけの言葉を拾い集めようとしてきた。

わしが「全方位で専門知性的であろうとしている」と述べた人がいて、おもしろかったが、こちらは、日本語では四方山話をしに立ち寄っているだけであって、相手をする日本語人のほうも、少なくとも最近は、心得ていてくれるようです。

ただ駄弁りに来ている。

関心の対象が、(このあいだTLで話題になった)デカ目デカ胸ミニスカにあるか、

政府批判にあるか、認識と現実の関係にあるかは、人それぞれで、だいたい似た者同士は、似たようなトピックに興味があるので、カフェでも、バーでも、あるいはボートのコックピットでも、ツイッタでも、関心の対象は多岐だが共通して、会話というものは、もともとそういうものであるにしかすぎない。

コロナだし、ちょうどいい、というか、普段、友人達としているような話を日本語でもしようとしている、というところはあるかも知れません。

それも努めてそうしたいとおもっている、というのでもなくて、もう30代も後半なので、「自分でないことは出来なくなっている」というほうが近いでしょう。

わしなどは、むかしから、知的好奇心もたいしてなくて、なにごとかを究明する執念もなく、驚くべし、オカネを稼ぐための9to5な仕事をするのも昔から嫌いでやらないので、なんだか時々おもに数学を利用したアイデアを使って、自動金鉱採掘システムのようなものをつくりあげて、スイッチを入れて、ウイーンウイーンと動かしてオカネを得て、時間は有り余るどころか起きているあいだじゅうヒマなので、退屈してはみっともない、時間のフィリングみたいなものをレシピを見つけて料理しては、これは美味い、これはまあまあ、これは数河杉晋作だのと述べて、ひとり、悦にいっているだけの、どうみてもヒマツブシに生まれてきた人間にすぎないようです。

人間がこの世界に生まれてくる理由は、肉体の感覚器官で、この世界を感じるためなのだ、と考えることが好尚にかなっている。

魂や神や天使は、あるいは悪魔も、世界を理解することは出来ても感覚することは出来ない。

味覚、跳躍に伴う筋肉の躍動の感覚、身体全体で衝撃して、慄えるような性的感覚、中空に不可視の姿で浮遊して、半分、眠っているように、ものういガーゴイルの姿勢で世界を見つめている魂の数々が、ときおり流れ星のように地上に落ちていって、生誕の産声をあげている。

人間の言葉、ひいては知性は、どうやら肉体の感覚優先に出来ていて、

うんうん唸って、構造を考えて、パズルピースを当て嵌めるように精密に計画した言葉はダメで、水の表面に書いた文字のように、次から次に消えて、

手が魂を引き摺るように書き連ねた言葉だけが、世代から世代へ受け継がれてゆく。

バカな頭で考えて、やっとそれが判ったのが20年くらい前だったのではないか。

人間が「生涯学習する」というときの「学習」の内容は、言語の丘陵を歩いていて、あっ、この角度からだと世界はこういうふうに見えるのか、

この頂きからだと、こんなに遠くまで見渡せるのか、

世界を見る角度や、こういうときには、このくらいの距離をとって見るのがいい、というコツを学ぶ、という部分がおおきい。

あるいは興味があれば、sextantを使って自分が立っているところの歴史的な位置や文明群のなかの位置を知る方法も学ぶことができる。

「世界はいまもむかしも楽しい素晴らしい場所で、それが判らないのは何もしたがらない怠惰な人間だけですよ」と祖母は述べていたが、ほんとうのことで、自分でも信じられないくらいナマケモノだが、世界を楽しむことまではサボらなかったので、態度はいつもやさしいが、あれでなかなか考えには厳格なところがある、ばーちゃんにも、ちょっとくらいは勘弁してもらえそうな気がする。

無論、人間が持ちうる最大の才能は「幸運」で、人間が「成功」したり、幸福になっていったりするのは、自分の能力は5%もなくて、すべて運によっている。

例えば伴侶が自分に向かない相手だったりすると、人間の一生は、短くて一回性なので、取り返しがつかないダメージを受けてしまう。

その次が健康で、パワフルで強靭な体力を持つ人間の一生は、自分で言うのは酷いが、人間の一生という、特に若いときには苛酷な悪天候の連続なような、吹き荒び嵐のなかを、まるで天使が集まって推してくれているようなスムースな加速で、渡り切らせてくれます。

30代後半になると、この健康のエンジンの出力が低下してくるのが予感されるようになる。

どうしようかなあ、と、誕生日を、すぐ道の先に見て、木の切り株に腰掛けて煙草を一服する人のようにして考える。

これから、どんなことがやれるだろう。

残りは百年もないのだから、天地創造は無理です。

くだらない人間の相手をして、少しでも時間をとられるのは、もうそろそろ、是非、避けねばならない。

ほかに、なんにもやることがなければ、いまでもだいぶんエネルギーを使っている、日本の人が「偽善」だといって、とても嫌がる、チャリティに進むのが、もっとも気持ちの帳尻があいそうな気がする。

パッと考えても、いまのマイクロ金融には重大な欠陥があって、理論上の数学的なモデルひとつとっても頼りないどころか、のっけから矛盾した代物なので、改善して友人達や自分のオカネを投入すれば、例えばアフリカ大陸のどこかで飢えてうずくまっている子供たちを、もう少しは多く救える。

Greta Thubergのように、荒野を歩きながら、民衆に世界に迫る危機を叫ぶような役割は到底むりだが、いちばん自分が向かなさそうな地球温暖化問題に関しても、人間の友人間ネットワークを通じて、やれることは少しはありそうです。

どこに向かって歩いて行くのかは、相変わらず判っていないが、歩いて行ってはいけない場所は、もう判っている。

中途半端で宙ぶらりんな年齢である気もしなくはないが、もう待っていることは出来なくて、これから、選んだり、捨てたり、していかなくてはならなくなっていきそうだと考えています。



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