クローズホールドな午後

だいたい三十二歳、くらいのつもりで暮らしていたら、誕生日が来たので指折り数えてみて、ほんとうは三十八歳だったので、慌ててしまっているのだとおもわれる。

こんなはずではなかった、と心からおもう。

人間の年齢は、三十五歳の手前くらいまで歳をとっていって、そこからは1歳ずつ若くなっていくのではなかったっけ?

日本社会のように、年柄年中、ほとんど嫌がらせのようにして、年齢を書かせる社会とは異なって、ニュージーランドでは自分の年齢を考えるチャンスが少ない。

そのうえに、職業柄、というと、えっ、あなたに職業があったんですか、とギョッとする人がいそうな気がするが、ともかく、職業柄、自分の年齢を考える必要がない事情もあって、普段は、なんだかテキトーに、自分の気分にあわせて年齢が若くなったり歳をとったり、頭のなかで右往左往している。

しかし、数えてしまった。

なぜということはなくて、事故みたいなもので、そういえば、わしはいくつになるのだろうか、と考えて数えてみたのが運の尽きだった。

37歳じゃないか!

とおもって驚愕したが、足し算を間違えていて、ほんとうは38歳だった。

あのですね。

32歳と38歳はおおきく異なるが、37歳と38歳はおなじなんです。

32歳は、わしが大ハンサムであることもあって「青年」だが、37歳と38歳とかで自分を青年だとおもうひとがいたら、顔がみたい。

このひとだよなあ。

鏡を見ながら考える。

自分が38歳であるという性器の大発見、いや、これはわざとです

世紀の大発見をして、わしがまずやったことは部屋を片付けることだった。

なぜですか? って、知りませんよ、そんなこと。

なんだかムシャクシャしたので猛然と部屋を片付けてしまった。

それからでっかい木桶の、横綱雷電の棺桶の倍以上あるホットタブに、一目散に入った。

それから暫く、40.5℃のお湯のなかで茫然としていました。

年齢自体は、あんまり社会的に意味をもたない国に、というか環境に、わしは住んでいる。

だいなかよしのひとりは十七歳年下の旦那さんと普通に暮らしているし、ちょうどmeneposeで、突然、体温が急上昇したり、発汗して、今度はまた急激に鬱状態になったりもして、いまちょうどたいへんな時期だが、旦那さんはインターネットや本で、懸命に勉強して支えている。

これが逆に例えば二十四歳年下の奥さんであると、周囲には年上の夫に対して「あのひと、危ないんじゃない?」の空気が漲っているが、そのくらいが多分、年齢を意識して生活しなければならなくなる、ゆいいつのシチュエーションで、そうでもなければ、鏡さえ見なければ、十年一日、永遠に若さを保てる社会ではあります。

社会のほうはカンベンしてくれるが、自分という最も近しい隣人は、そうはいかなくて、38歳と判明した瞬間から「こらこら、きみ、いいとしこいて、そんなことやっていていいのか」と、うるさいなあ、というか、四六時中、話しかけてくる。もうあんまり時間がないんじゃないの?と言いたいのでしょう。

わしは自分で考えても、ひどいナマケモノだが、ナマケモノなりに、なのかナマケモノゆえに、なのか、案外、無駄なことをするのが嫌いです。

マイナー言語の習得のように、自分の立場からすると、まるごと完全に無駄な大事業に臨むのは大好きだが、習得のために買った本が、英語で長々と文法だの構文だのと書いてあって、おもいだしたように「例文」なんちゃって、「おおきな犬が門の前に座っています」などと書いてあると逆上するほうです。

夾雑物は人間を愚かにする。

バカタレな社会は、どこもそうだが、引越するくらいのことで、山のように書類を書かせるような社会の役所で、これとこれにご記入ください、とか言われると、おもわずボールペンを握りしめて、チ〇チンと日本刀をふりまわして眼がロンパリ(←戦前の日本語。眼がロンドンとパリを同時にみている。stabismusのことで、もちろん堂々たる差別語ですね)なサムライの絵を描いてしまいそうになる。

余計なことばかり、させるなよな、とくさった気持ちになります。

そのうえに38歳となると、いよいよ身辺整理を迫られて、いままで曖昧にしてあった四方山(よもやま)なこと、日本語の語法として正しくないのはわかっているが、四方山で八方山なことを、すっきりさせないと前に進めない気持ちになってくる。

アメリカは、自由を守るために、こんなふうにやっているのに、日本政府はダメではないか、とSNSに書き込むことは、38歳ともなれば単なる自己満足の「夾雑」であることが判っている。

社会を見る視点は、通常はふたつしかなくて、自己の生活を通してみるか、自己の職業をとおしてみるか、しかありえない。

一週間に二回、ゴミを生ゴミからリサイクル、あるいは理由不明なくらい細分して「こんなゴミの出し方を強いる社会はおかしいのではないか」から出発する社会への批判は、ふつう、正しい主張に育っていく。

どうして、わたしだけが三度三度の御飯を作らないといけないの?

なぜ、わたしだけが家を掃除しなければならないの?

も同じですね。

阿古智子さんという人がいる。

この人は現代中国を社会学的な立場から考察することが職業だが、その窓から、香港で起きていることを見ていて、自分の学問に衝き動かされて、起ち上がって、たいへんなリスクを冒して、いまの中国政府の圧政に抗するひとたちと手を携えて戦い始めた。

自分の職業が、行動を命じている良い例です。

いちばんダメなのは、お題目を追いかけて「善意」や「正義」のために「論陣」を張ってしまう人で、このタイプには特徴があって、やたら挑発的攻撃的で、「アベ一派」だの「靖国礼賛」、「歴史修正主義」自分がカッコヨク見えそうなアジテーション語は、総動員して自分の存在感を示そうとする。

なんのことはない芸人みたいなものですね。

ただこれは、何年か見ているうちに、眺めているほうも、このあいだまで「慰安婦問題がわかってない!」と述べていたのに、「トランスジェンダーの女の定義がわかってない!」と述べていたりするので、そーか、コピーライターみたいなものね、と判って、酷い人になると歴史研究者から哲学者に肩書きがいつのまにか変わっていたりして、おもしろいが、ここまで来るとコピーライターというよりも詐欺で、なんだか、そういうことか、と納得しやすくはある。

閑話休題

余計なことを省かねばならないので、ものごとを考えやすくしていかなければならないが、そのためには、見通しをよくするために生活を簡潔にしなければダメでしょう。

上に述べたように、自分の生活や職業から生まれた必要から離れたところで政治や社会を考えるのは、たいていは無駄で、だいたい、そんな自己満足のひまつぶしみたいな「体制批判」をやるくらいなら、銃砲店を襲撃して、武器を手にいれて、1968年の金嬉老のように、家に立てこもって自己の主張を述べたほうがまだしも思想的に誠実というものです。

あるいは、ほんとうに、十分に絶望が深ければ、言葉の力に絶望して、有名ジャーナリストの立場をかなぐり捨てて、機関銃と爆弾の世界に自己を投企して、最後は西ドイツ政府に嬲り殺しにされたウルスラ·マインホフに倣うほうがよくはないか。

武器によって社会を変えるというよりも、結果としては、文学的な世界への絶望の表現になって終ってしまった革命家は日本の重信房子を含めて、世界中に何百人何千人といるが、ツイッタで、お手軽に「体制批判」をして、あまつさえコガネを稼いだりしているひとびとに較べれば後生に絶望を伝えるだけでも、なんぼうも、まともであるような気がする。

自分に帰らなければならない年齢、というものは、ひとによって異なるが、いつかは「自分」という家に帰らないわけにはいかない。

なんども述べたが、黒澤明の映画「生きる」で、階段の途中で、「あなたを誹謗するやつらをほうっておいていいんですか?」と訊ねる「同志」に、足を止めて、振り返って、「わたしには、もう、そんな時間はない」と述べる志村喬の姿は、万人の肖像でなければならないのだとおもう。

人間は、折角、五官を備えた、性的なスリルと悦楽や、味覚、筋肉の躍動を感じる装置としての肉体をもって、この世界に生まれてくるのだから、魂や神様では決して味わえない、「肉体を通してみた世界」に触れ続けたほうがいいのは、もちろんだが、それと並んで、ほかの思惟や言語の活動を、すっきりさせて、ものが見えやすくしていくようにもっていかなければ、歳をとっても、馬齢を重ねる、という言葉があるが、ただバカになってゆくだけです。

あと、お酒もやめようね、と「自分という友だち」が述べている。

はいはい。

すごい時間の無駄ですからね。

お酒を飲むのはよいことだが、習慣化するという欠点があって、まるで無意味に朦朧とする時間が増えるので、いいとしこいて飲んでいてよいものではないようです。

ニュージーランドは、もうすぐ、煙草の喫煙そのものが違法になって、麻薬扱いになるが、本来は自他の寿命は縮むが、ニコチンは、思考のある種類の部分は明晰にするとおもうが、毒性がバレちったものは仕方がない。

これも、子供のときに戻って喫煙を再開する、というわけにはいかなさそうです。

そうやって考えてゆくと、最も有効なのは自然の存在を生活のなかで、もっとおおきくしてゆくのがよさそうなのに気が付きます。

おおきな自然。

ストレスを発散させたり、気持ちを和ませるためのものではないんだよね。

森を歩き回り、海を逍遙していると、あたりまえではないかと言われそうだが、自分が自然の一部にしか過ぎないことが、細胞のひとつひとつにしみとおるように了解される。

なんだ、そうだったのか、とおもう。

ブレーズ·パスカルの「人間は考える葦である」は、「人間は葦である」のほうがよかった。

人間の一生の後半は、多分、自然に帰ってゆくために存在する。

やがて、そのうちには、がやがやと自分を取り巻いていた、さまざまな人声が、遠ざかって、かすかになり、完全な静寂のなかに自分が分け入っていくのが、もっとも幸福な一生の過ごし方であるようにおもわれる。

なんだか、びっくりするような明るさで輝くオリオンや、南半球に特徴的な、夜空を垂直に岐かつ天の川も、陽光に輝く、厚みのある質感を感じさせる海の表面も、森林の、意外な場所で、ひとつだけ、ひっそりと咲いている真っ赤な花も、言語を求めている。

成熟とは、結局、政治や社会を論難する言葉から、自分の身の回りの人間を対象とする言葉に変化して、やがて、このおおきな自然に身を委ねるための言葉を獲得していく謂いなのかも知れません。

道を急ぐことはないが、ときに消えかける道のありかを、見極めて、一緒に本来の人間の言語を訪問できれば、と考えています。



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2 replies

  1. 人間は葦である
    自然の中にいないと忘れます
    いつもありがとうございます
    私も年忘れるのでこれからはだいたい〜って言おう

  2. クローズホールドな午後。
    黄昏ですね。
    JAMESさん38歳は若いと思いますけど。
    老いと共に自然が好きになるのは何故でしょう。

    実は人に時間はなくてあっという間に終わってしまう。

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