後ろ姿の日本

日本の様子どころか、日本の人の考え方や感情の動き方が、どんなふうかの感覚もなくなってしまったので、いよいよ頭のなかの「日本」も乏しくなって、言語としての日本語だけが頼りで、日本語をめぐるシチュエーション全体が不思議なものになっている。

簡単にいえば、以前には「こちらのいうことが判ってもらえなくて、がっかりする」ことが多かったのが、最近では、それに加えて、日本語人が言っていることのほうも判らなくなってきたので、会話が成立しないところに来てしまっている。

困ったなあ、とおもうが、困るだけで、なにか出来るわけでもないので、ほっぽっておくしかないよね、ということになっています。

社会的には女のひとをめぐる考えは、むかしから、理解できないくらい隔絶があった。

伊藤詩織さんの勇気がある行動で世界じゅうに知れ渡った日本の女の人への社会を挙げての絶えざる虐待は、端的に社会事象として顕れているだけで、普段の感覚から、デカ目デカ胸ミニスカ愛好家が雲霞のようにいることから始まって、性的犯罪者に甘い、「あのひとはいいこともやっているから」

「彼は将来がある人間だから」で、神様が雲のうえから見ていたら、椅子からずるっこけて地上に墜ちてきてしまいそうな、すごい理屈が社会の通念になっている。

英語世界も、長い長い男主導の歴史がある社会なので、至る所で「男のほうが偉い」が顔をだすが、それにしても、例えばニュージーランドでふつーの男の人は、日本に移住してくれば、過激なフェミニスト、と看做されることになりそうです。

日本では女の人は、根底的に性的消費物で、かろうじて生殖機能において社会に貢献しているだけで、ときどき研究者としてすぐれていたり、バリバリに仕事ができる「キャリア・ウーマン」であるのは、間違って女に生まれた「例外」なので、なんだかもう別世界で、女の人の地位のランキングが世界で122位だかなんだかだそうだが、別世界のものを同じランキングで並べても仕方がないんじゃないの?というくらい社会として異質である。

アメリカ合衆国などは英語世界では性差別が激しい男社会で有名で、ほかの英語世界からは、あきれられたり、疎まれたりして、女のひとの側だって、黙っていはしないので、論点をはっきりさせて毎日闘っているが、日本の場合は、それともちょっと別で、レディファースト文化とフェミニズムがごっちゃになっていて、「女性を尊重する」と繰り返し述べる人の書いたものを読んでいても、女の人を大事にするのは、いいが、そもそも、その「女の人」自体を自分とまったくおなじ人間だとは看做していないのが言葉の端々から感じられて、読んでいて、げんなりしてくる。

例えばアトランタに行けば、むかしから、女の人は、たいへんに丁寧に対応される。

エレベータに乗るでしょう?

ボタンは必ずボクスに同乗の男の人の誰かが階を訊いて押してくれます。

下りるときは、人の壁がさっと空いて、真っ先に降ろしてもらえる。

ドアに近付くと、男の人の誰かが、間髪をいれずに開けて、特に自分でドアに手を触れる必要はない。

自動ドアが普及して、いっそ不便になったといってもいいくらいです。

女の人に失礼なことを言うなんて、とんでもないことで、礼儀をわきまえなければ、レディに失礼なことを言うな、近くの男の人に睨まれて、下手をすると殴られるかもしれない。

しかし、こういう土地柄の町では、当然に、女の人の、男と対等な人間としての地位は、とても低い。

まして男と女は、対等もなにも、まったく同じ人間だと述べると、相手は吹き出すかもしれません。

日本語世界では、どうも、そこのところが、ちゃんと呑み込めていないらしい。

なにからなにまで異なっていて、日本語人で最も友人になるための障壁になっているのは、このぎょっとするような女の人たちへの考え方で、自分の経験でも、温厚で成熟したおとな(そこのきみ、なにを笑っておる)であるわしが日本語で激怒に至るのは、特に、友だちだとおもっていた相手においては、いったい女の人をなんだとおもっているのか、と、やりきれない気持ちにさせられた時で、がっかりさせられて、こんなバカを友だちだとおもっていたのか、と、自分の愚かさにも腹が立ったときに限られるようでした。

別に異なるからいかんいかんと述べているわけではなくて、そもそも日本語に興味を抱いたのは、なにからなにまで世界の他の国と異なっていて、なんでんかんでん正反対と言いたくなるくらい違っていて、それであるのに、ちゃんと普遍性を持つ文明として成り立っていたのがおもしろかったからで、

なぜ「普遍性がある」と初めから確信していたかというと、日本文明の「美」への、いわば審美眼がしっかりしているからでしょう。

ガキわしが、むかし、日本に滞在して息を呑んだのは、判らないなりに能楽であって、竹の林に囲まれた、苔むした石の階段がある寺であって、クルマからおりて、かーちゃんや妹とみあげる小高い丘の鎮守の森であって、

折にふれて呼んでもらった、廻廊に囲まれた中庭のある料亭の佇まいであって、美しく、華やかに、でも、はんなりと着飾った女のひとたちの畳の上に座った姿だった。

そうしたものたちの、いちいち美しい、一幅の、注意深く構成された絵画のような日常が、普遍性となって、言語にも灼き付いている。

小津映画に狂ったりして、後年に、だんだん日本について判ってくると、二層構造のように感じられて、京都の、この世のものとはおもわれない美しい建造物と庭園群が、フランス人向けの有名ガイドブックに「寺と寺のあいだは醜悪な景観が続くので下を向いて歩け」と書かれてしまう、醜い通りで結ばれている。

気高い美と、ドロドロと呼びたくなるような情欲と物欲がむきだしの、蛮性を帯びた下級兵卒の群れであるような醜悪な人間の群れが混在している。

いまでも理由は、ちゃんとは判っていないが、この日本語のブログでも何度か書いたように、部分として気が付いたことは、いくつかある。

日本語社会が西洋的な倫理を持っていないこと。

どうやら、その原因は、効率的に、強い軍隊と、その軍隊を生産面で支える近代風な社会をつくろうと考えて、例えばintegrityのような倫理語彙には「余計なもの」として訳語さえ与えなかったこと。

20代になって、おとなになった自己で実地に日本社会を経験したくなって年に数ヶ月という長さで滞在してみると、いろいろなことを通じて、事情がわかってきて、例えば、食べ物でいえば「ほんもののカルボナーラ」というような言葉に遭遇して、カルボナーラなんて戦後窮乏してタンパク質源が決定的に不足したイタリア人たちの窮状に同情したアメリカ軍が、無料で大量に放出した鶏卵を日常料理として取り込んだローマのレストランがレシピをつくった知恵で、今出来もいいところで、「ほんもの」もなにもないもので、現実にもイタリアをクルマで旅して歩けば、一目瞭然、卵とパンチェッタかなにか、加工肉が載っているのがゆいいつの要件で、呆れるほど異なる様々な「カルボナーラ」があって、変幻自在、融通無碍で、年を追うにつれて、シェフが代わるにつれて、どんどん変化もしていくが、日本では「これがホンモノのカルボナーラです」という。

そういった細部を見ていて気が付くのは、「模倣」というものに、付きものの、有名な欠陥であって、根が大地に付いていないものだがら、固定的で、変化させていけない部分が、社会のあちこちに出来て、その部分から社会の進展の足を引っ張りだして、最近では、到頭、腐臭がする部分さえでてきてしまっている。

もうひとつは、西洋から輸入するときに解釈に失敗した事物が、異様なものに変化した例で、たとえば「全員が納得するまで話しあいを続ける民主主義」なんて、民主主義総本家のフランスや、テキトー民主制のイギリスの人間が聴いたら、ぶっとんでしまうような考えを、いいとしこいたおとながマジメに信じている。

どんな結果になっているかですって?

当たり前の帰結で、なにも決められなくて、なにも変えられなくなっているのに決まってるじゃないですか。

余計なことをいうと、この「全員が納得するまで話しあう」という素っ頓狂な民主社会のアイデアは、多分、近代以前の村の寄り合いや、上は、老中会議のような「合意探し文化」を、そのまま民主社会の議論のやりとりで出来た意志決定のための会議に投影しているので、正体は、もたれあい社会に典型的な全体主義です。

「個人」を殺し、異物を排除し、結束を固めて厄災を乗り切ろうとする。

なかでも戦後にアメリカから運ばれてきた考えから腐りはじめていて、日本の伝統的な体質と齟齬をきたす企業社会のありかたなどは典型で、終身雇用をやめてフリンジベネフィットや名誉の分配で成立していた企業社会に、アメリカ式のコスト主義と競争論理を持ち込んで、安定と安心を求めて、引き換えに全体への献身を惜しまない日本企業文化を見事なくらい破壊してしまった。

破壊してアメリカに成ってしまえればいいが、そこは模倣の悲しさで、

一方では大学を卒業すると志願兵みたいな若いひとびとが一斉就職をして、年をとれば、

組織ごとに決まった年齢で、またも一律に「定年」を迎えていたりして、そのうえにコスト主義は文化として誤訳されて低賃金主義に落ち着いて、出生率の低下も含めた、市場の縮退を招いて、目もあてられない長期低落に墜ちていった。

日本は、「西洋化」を目指したアジアの国として、原理から切り放された「役に立つ」部分だけを輸入しようとして、いま振り返れば必然性のある、模倣者に特徴的な陥穽に陥って、苦しみぬいている。

酸素が次第になくなってゆく密室で、喘いでいるようなもので、これから、少しずつ文明全体が窒息してゆくのでしょう。

ゼノフォビア、性差別、「何もしないためなら何でもする」努力型の怠惰とでも呼びたくなる、懸命な無為、どれも、考えてみれば近代化を進める出発点において「役に立たない余計なもの」として判断されて捨てられた概念の欠落から起こっていて、一見、社会の成長に無駄どころか邪魔なお荷物に見える「善意」や「倫理」、「絶対価値への信念」が、どういう見えにくい役割をもっているか、日本は、人口が一億を超える巨大な国として、まるごと社会と国民を投企して、実験に飛び込んで、いま結果を受け取ろうとしているところなのだとおもっています。

問題が起きると、慌てて問題がないことにする、こちらは近世以前からの伝統も手伝って、不可視で、どこに問題があるかも良く判らないまま、日本の人は四つん這いになって、よく見れば周回ループになっているだけのコースを、懸命に這い回っている。

どこまで行けば出口があるのか、と渇えるような気持ちで、何周も何周もおなじ場所を廻っている。

「きみたちは、おなじ場所を堂々めぐりしているだけだよ」と述べる人は、日本語人にもいたはずだが、もうそういう言語は殺戮してしまったので、

耳障りの悪い言葉は聴かなくてすむようになって、心地よい言葉を次から次に消費しながら、この先には天国があるはずだと信じて、たゆまず、煉獄の底へ向かっている。

日常では全く使わない言語で、いわば現実のディテールから切り離された言語を使って考えていると、そういう全体像ばかりは、やけに鮮明に見えるようになってきます。

もう鐙摺山の後に立ち上る積乱雲の高らかに響き渡るような眩しい白さや、

きみの、やさしいため息は、思い出せなくなっているのに。



Categories: 記事

4 replies

  1. 「日本語の言葉の意味」そのものが、わたし(たち)とガメさんの間では少しずつズレていることはなんとなく勘付いていた。
    (君がずれているのだ、という根源的な指摘はさておいておくれ)
    これ以上ズレてしまっては困るなあ、とまるで他人事のように考える。
    もう既にズレているものの取り返しがつかなくなると、和訳に関わってくるからです。もう起こっていると思うけど。
    どんなに素晴らしい作品が他言語で生まれても、日本語でそれを知ることはできなくなる。

    取り返しがつかなくなる。

  2. 日本に住んでいますが、考えて意見を言うタイプの私に以前からあった、自分のこの国での異分子感は、今やとてつもないものになっています。
    多くの国民が政治を考えないことで搾取され貧困化し、もともと自らの理念を考え持つわけでなく他人との比較でのみ幸福度を測る殆どの国民は、余裕がなくなって”身内さえ良ければいい”という思いで動いて生きています。
    自分で考えて動く人が圧倒的少数であり、マスメディアがジャーナリズムを完全に失っているこの国に、若者が希望を抱けるはずもありません。
    このような恐ろしい状況でも、ほとんどの国民は問題意識を抱くことさえできません。
    それが本当に恐ろしいことです。

  3. ガメさん、twitterはやめたけど、これらはちゃんと読んでますよ。
    お元気そうで何よりです。

    > 「模倣」というものに、付きものの、有名な欠陥であって、根が大地に付いていないものだがら、固定的で、変化させていけない部分が、社会のあちこちに出来て、その部分から社会の進展の足を引っ張りだして、最近では、到頭、腐臭がする部分さえでてきてしまっている。
    >
    > もうひとつは、西洋から輸入するときに解釈に失敗した事物が、異様なものに変化した例で、たとえば「全員が納得するまで話しあいを続ける民主主義」なんて、民主主義総本家のフランスや、テキトー民主制のイギリスの人間が聴いたら、ぶっとんでしまうような考えを、いいとしこいたおとながマジメに信じている。

    日本社会の「模倣」に対して反発を抱いていた僕にとって、「本物」を求めることは若いころからの課題でしたが、逆にそのことで、たとえばカルボナーラやナポリタンにしてもそうだけど、本質を見失うという失敗を冒している、という事実に、ガメさんのおかげで気づかされたんですよね。

    民主主義の件で僕が悩んだのは、「全員が納得する」ことなんてありえないのに、日本社会の頚城の中にいると、その呪縛から逃れられないところです。
    僕は割り切りが早い人間なので、いいところで一度結論を出し、必要に応じて修正していけばいいではないか、と考えるのですが、日本人相手だとそうはいかなくて、ツラいなあ、と思うことが多いのです。

    女性問題に関しては、日本はもともと母系社会で、女性が主人公だったのが、西欧社会から男性社会のスキームを表面的に入れてしまった上に、さらにその修正でフェミニズムを入れるという2重の間違いを冒していて、弱い男が性的に女性を消費してもお咎めがない一方で、女性が個人の責任感の自覚なしに偽物のフェミニズムを振り回す(たとえばKuToo運動のひととか)というピントがずれたことをやっているのが最大の問題なんですよね。

    日本のリベラルの最大のおかしなところは、個人の存在意義というものを全く理解していないところで、それが目に付く自分には、彼らははっきり言って度し難いほど腹が立つ存在では、あります。

    個人に対する敬意なしに女性尊重もヘッタクレもあったものじゃない。
    だから、彼らは言葉だけで女性尊重と言いながら、本当に女性に沿うという気持ちがないから、平気で女性を貶めることを言うんです。
    というか、そもそも女性尊重よりまず個人尊重だろう、筋違いなんじゃないの、といつも思います。

  4. いつも興味深く読ませて頂いてます。
    今回の記事もとても考えさせられたので、少し思ったことを書いてみます。

    確かに「善意」や「倫理」、「絶対価値への信念」という言葉は日本人の自分にはピンと来ないです。それよりも「慈悲」や「人の道」、「徳を積む」という言葉の方が心に浸透してくるのですが、このような古びた言葉を本気で使って話をする人は今はあまりいないようです。でも本当は日本人が日本語を使うなら、簡単には西洋語に翻訳できないけど自分たちとしてはしっくりくる(意味をなす)、こういう言葉で話さなければならないのではないでしょうか。

    どういうわけか不幸なことに、日本が西洋と出会い近代に移行する過程で、「アジアは醜い」と思ってしまったような気がします。「アジア人である自分は醜い」と。そして自分の美意識が壊れてしまった。
    自由や平等や人権など、人類共通の絶対的な価値となり得る(とされているらしい)西洋の概念を、受け入れる動機が自己嫌悪だったとしたら、どんなにロクでもないことになるでしょう。

    自己を蔑むものは倫理からは遠い。
    自分を蔑むということは最も倫理的でないからです。

    (これに対し、中国人などを見ていると、自分達の文化や価値観への尊厳を保ったまま、それらの英語に翻訳し難い観念を、どうにかして西洋に向かって表現し、対話するために英語や国際性を身につける、という姿勢を感じる時がある)

    小学校ぐらいの頃、漠然と「日本人に生まれてしまった以上、ニセモノの人生を送るしかないのだ」と思って絶望したことを思い出します。何がきっかけかは覚えていませんが。

Leave a Reply to EkaiCancel reply

Discover more from James F. の日本語ノート

Subscribe now to keep reading and get access to the full archive.

Continue reading