カルボナーラの謎

 

(この記事は2013年6月13日に「ガメ・オベール日本語練習帳 ver 5」に掲載された記事の再掲載です)

「ほんもののカルボナーラ」という話を英語でも日本語でもときどきみかける。
イギリスやニュージーランドのカルボナーラは通常生クリームがどっちゃり入っていて胃の弱い人は蒼白になりそうな「リッチ」なソースだが、クリームが入るのは邪道だということになっている。
「ソースをかけて混ぜるという発想そのものが間違っている」というひともいる。インターネットでもいろいろ書いてあるに決まっているが、イタリアにいるのだから心がけてプリミにはカルボナーラをなるべく食べるべ、ということにした。

プリミにはなるべくカルボナーラを食べる、といってもなにしろイタリアの田舎というところはやたらとおいしいものが多いところであって、パスタといえど例外ではない。
エミリオ・ロマーニャはラグーソースが有名な地方で、ラグーソースは日本語で言えばミートソースだが「鵞鳥のラグーソース」や「鹿肉のラグーソース」のパスタを頼むと、野趣が風味に残った「肉とはこういう味のものを言うんじゃあああ」と言いたげな雄渾な味のラグーソースで、パルミジャーノを焼いてパルミジャーノ煎餅みたいなものにした「パルミジャーノで出来た皿」にトルテッリが鵞鳥のラグーソースがどっちゃりかかった姿で出てくる、というような豪勢な料理があるので、そーゆー場合は、いかに探究心の強いわしと言えど、どうやっても「カルボナーラスパゲッティ」とかは頼めません。
そんなものを頼んだら、鵞鳥の神様が夢に現れて「愚か者」とわしを叱咤することだろう。

「鉄板焼き」について由緒ありげなことを書いてある本もあるが、ふつーに考えて元プロレス選手のロッキー青木が考えたアメリカ料理が、なああーんとなく日本の料理なような顔をして往来に看板を出しているのだと思われる。

韓国焼肉料理店というのも日本にはたくさんあるが、(これをいうと、いっつも韓国人のお友達に「ぶわっかもの」とゆわれるが)、あれもふつーに見ていって朝鮮戦争のときにいっぱいやってきたアメリカ人がバーベキューをするのを見ていたのが淵源であるように見える。

もっとスパゲティナポリタンといういまでは日本の人にも日本料理だと周知されるに至った「ケチャップを焼いてしまう」というすごい発想の料理があるが、実は「スパゲッティナポリタン」はオーストラリアにもニュージーランドにもあって、名前はナポリタンで「イタリアではお袋の味である」とイタリア人が経営しているイタリア料理店のチェーンのメニューに書いてあるが、もちろんイタリアの料理店にはそんな料理はあらしまへん。

カルボナーラは、そこにいくとちゃんと殆どイタリア全土のイタリア料理店のメニューに載っている。
あんまりめぼしいパスタ料理がメニューになくて、でもピザとかっちゅう気分じゃないし。セコンディは重すぎるよねー、と思うときに「じゃ、カルボナーラにすっか」という具合で注文されることが多いように思われる。

印象でいうと高級店であると黄色いカルボナーラと白いカルボナーラが半々で黄色いのは卵黄で、もしかすると4個くらい卵を使っているのではなかろーか。

卵が使われていてパンチェッタが入っているのが条件。
イタリアの人には「戦後のローマの店が始めた料理でアメリカ軍がいっぱいもってきた卵で栄養をつけるためのパスタなんだよね、あれ」という人もいる。

このガルダ湖西岸にある有名なレストランのカルボナーラは、ものすごくおいしかったが、見ればわかるとおり。
卵はパスタにからめて、スクランブルエッグ風に料理されていて、その上にカリカリ寸前に炒められたベーコンが載っている。

 

ベーコンエッグじゃんね、これ、としたりげにひねくれてみせることも出来るが口にしてみれば一舌瞭然紛うことなきカルボナーラの味で、すげっ、すげっ、すげっと下品な賞賛の言葉を口にしながら、世の中にこんなうまいカルボナーラがあるのか、と呟くことになる。

下のふたつはトスカナのカルボナーラで、上が卵黄で黄色いカルボナーラ、下がナマの卵黄の色は消滅している白いカルボナーラ。
上に載っているのは両方tarutofo(イタリアントリュフ)で、ウンブリア(トスカナの隣でがす)が産地なので、ウンブリアやトスカナでは季節になるとカルボナーラにぴったりあうイタリアントリュフが€4ほど余計に出すとのっかって出てくることになっている。

 

下のカルボナーラはアレッツォのレストランで出てきたもので、これはアスパラガスが載っている変わりカルボナーラ。

(画像、行方不明中)

あちこちで「カルボナーラの謎」考究のために隙さえあればカルボナーラを食べながら考えたことは、スパゲッティ・ア・ラ・カルボナーラは、「ラーメン」みたいな食べ物なのではなかろーか、ということでした。
イタリア人は日本の人がラーメンに狂うほどカルボナーラに狂ってはいないが、由緒ありげな説明(炭焼き党が発明した。炭坑夫の夫が滋養をつけるために妻たちが考え出した…)がいろいろある割には、どうやら歴史は存外新しくて、戦後で、しかも身元がはっきりしないこと、シェフが守るべきルールは「パンチェッタを使う」「卵を使う」のふたつしかなくて、それさえ守られれば生クリームをどっちゃりいれよーが(下の写真はカルボナーラ発祥のラツィオのものだが生クリームがはいっておる。クリーム入りカルボナーラはイタリアでもありますねん)

 

卵黄を大量にいれてねっとり感をだそうが、シェフの自由です。
あんまりシェフが「勇気をだして新しいアイデアで伝統に挑戦する」タイプの店で無くて、ごくごく守旧的な店でもいろいろな「変わりカルボナーラ」が出てくるところは、ティラミスにもちょっと似ている。

 

イタリア人がそんなことを言われても「きょとん」としてしまうに違いない「ほんもののカルボナーラ」や「ほんもののスパゲッティ・ボンゴレ」が、余興でも議論になるのは、日本やニュージーランドがいかにイタリアから離れた国で、観念としてや、ごく限られたイタリアでの経験として輸入された「カルボナーラ」の真正度について講釈をしたがる人がたくさんいる、要するに「イタリアが全然わからない国」であるからだと思われる。

距離や文明の質の違いのうえで「遠く離れたものを輸入する」ことには、硬直化や訓詁学化、観念化がつきものである。
当の「カルボナーラ」を発明したイタリアでは断然バラエティに富んだカルボナーラが多種多様に存在するのに、イタリア移民がおおぜい住んでいるアメリカでさえ、「イデアのカルボナーラ」めざしてシェフたちが切磋琢磨し、その厨房から出てくるカルボナーラを待つテーブルでは、「こんなものはカルボナーラと呼ぶことはできない」と憤然とする客や、「ほんとうのカルボナーラ」について声を低めて秘密結社の会合参加者のような上目遣いでひそひそと語り合う客たちが息を凝らして「真のカルボナーラ」が到着するのを待っているのは、「遠くから輸入されたもの」の宿命だと思う。

アジアにおける民主主義の難しさの本質はそこにあって、まったく違う土壌、まったく異なる考え方のひとびとが考えた社会を、もっかアジアのひとびとは自分達の国で実現しようとしている。
日本は、どんなに日本に対して意地悪なアジア人に聞いても、その試みの先頭走者です。

カルボナーラから類推するのでは酷いが、きっと、ここでも最も重要なことは「真の民主主義」や「なにがほんとうの民主主義か」ではなくて、自分達の舌にそっくりなじむ、自分達にとって違和感のない民主主義をレシピを変え、鍋のなかの失敗を繰り返して、シェフと客が協力しあって、「これなら、いいんじゃね?」の状態にもっていくことなのではなかろーか。
レストランで声高に「真の料理かどうか」を議論したがる人に料理の味が判るひとが存在した験しがないように、イデアの民主主義を観念の世界で完成したがる人が民主主義を議論するのは、実はそれ自体民主主義という「現実主義の化け物」の本質に反している。

あんまり観念的になって「正しさ」ばかり狂ったように主張しなければ、日本人のことだから、フランス人やイギリス人が、「ええええー、こんなの民主主義っていうかなああー」と一見して驚いても吟味してみると「これはたしかに民主主義で、しかもよく出来ている」と思う、新しくておいしい民主主義、できると思うけど。



Categories: 記事

1 reply

  1. 新しくておいしい民主主義みたいなものが、政治とはあまり関係なさそうなところでチラホラ現れつつあるような気もするんですけどね。一度大きく崩壊してからでないと新しいものが育たないのかもしれません。

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