英語ではWokという。
日本語では「中華鍋」かな?
若い大スター小山明子が、恋に落ちた、名も無い助監督だった大島渚のオンボロアパートを、いちゃいちゃもんもんするために内緒で訪れたら、調理器具が中華鍋だけで、あとは、綺麗さっぱり、なあああんにもない、潔いほどのビンボぶりに感動した、とインタビューで述べている。
調理器具、と書いたが、大島渚は、顔を洗うのも、お湯を沸かすのも、なんでもかんでも中華鍋ひとつで賄っていたようで、
国民党軍の兵士は、番傘と中華鍋を背負って勇敢に戦うので日本軍をびっくりさせたが、後で聴くと、使い勝手がいい中華鍋を「育てる」のは、たいへんな手間と時間がかかるそうで、何事においても徹底して現実主義である中国の人にとっては、「いのちの次に大事」なそうでした。
ネット喫茶は、そこしかいるところがなければ、やむをえないものはやむをえないが、なるべく早く、ガス口がふたつのコンロがあるだけでもいい、それもなくて岩谷産業のポータブルガスコンロしかないのでもいいから自炊が出来るポジションにつくのが全ての始まりでしょう。
ほんとうは中華鍋を使えるくらいの環境はビンボ人生を立て直すには必要であるようです。
まずは、そこを目指すにしくはない。
そこまでは、どうするのか?
ビンボを生き延びる秘訣は、いろいろな人の例を見ると、希望を持つこととモバイルであることの、ふたつであるように見えます。
ビンボがにっちもさっちもいかなくなって、やがては首をくくるに至るのは、どうしても病気の親から離れて暮らすわけにはいかないとか、十七歳で産んだ子供が学校を変われないとか、モバイル性を奪われている場合が多い。
ほんとうは、親も捨て、子供も捨てて、必死に生き延びるしか他に方法はないのだけれど、やさしい人びとには、それもならず、共に滅びる人生を選択して、それはそれで、非難されるべきではないとおもわれる。
個人を自殺に追い込んでいく社会は、問題どころか、ないほうがいいような社会だが、自殺に追い込まれて、死ぬのは怖い、でも、生きていく方法がないとおもいつめて自ら死を選ぶ人は、当たり前だが、「非難される」というような筋合いのものではない。
自殺が悪いとおもっておもいとどまれる程度の苦しみで、自分という最大の友だちを殺すに至る人はいないでしょう。
まして、列車への飛び込み自殺をされると出社時刻に遅れて迷惑だ、と述べる人間にいたっては、神様だって、こいつのほうが死ぬべきだったのに、と心からおもうに違いない。
60年代の流行語は、意外に、人の気持を励ましてくれるものが多くて、例えば
「そのうち、なんとかなるだろう」という。
感情的にのめりこんでいかないで、いわば事務的に、打てるだけの手をすべて打って、あとは神様にこっちをふり向いてもらうしかない、というのは、ガメ・オベールという人の
ガメ・オベール日本語練習帳(青土社刊)「生活防衛講座 シャーリーズ・セロンの場合」という文章に判りやすく書いてあります。
実際、観察していると、神様は、冷笑家が特別に嫌いなのは当然として、泣いたり喚いたりする人も嫌いなので、ハロー・ワークに行く、生活保護を申請する、… ビンボを打開する、その社会に備わったシステムをすべて利用して、自分の食い扶持を支えながら、自分に出来る事、陶器をつくることであったり、小説を書くことであったり、音楽を演奏することであったり、とにかく、これなら人よりも続けられるということを、やっていくしかない。
コンビニのバイトというようなのは、つらいだけで、あんまり感心しないが、それしかなければ、やらないわけにはいかなくて、なんだか機械のような気持になって、手順手順をこなしていくしかない。
なかには、コンビニやマクドの仕事が実は人間として向いていて、正社員になって、ビジネスマンとしての道を歩いていく人も、ないとはいえない。
ビンボなほど、忘れてはいけないのは、時間給であろうが、なんであろうが、意に染まない仕事は「そつなくこなせてオカネと時間が剰る」仕事でなければならないことで、東京に住んでいて、出超で、それが達成できなさそうなら、移動することが肝腎なコツのひとつであるとおもいます。
英語が判る人なら、追いつめられる前に、文無しでも、例えばシドニーに渡ってしまえばいい。ビザを取りにくい国なら、ペーパーなしで暮らしても、あんまり追及されない国を選ぶのが大事で、アメリカなどは移民局が厳しくて、特に有色人に対しては容赦しない上に、雇用側も、ペーパーのない移民の弱みにつけこむことになれていて、薄給で、掃除モップなみにこき使われるので、やめておいたほうがいいかも知れません。
国内なら、ヨソモノを嫌う土地柄の町はなるべく避けて、前もって、ネットでもいいし、友だちに訊くのでもいいから、ヨソモノを受け入れる土地柄かどうか聞くことが大事で、自分が見聞きした名前で述べると、佐久市には「ヨソモノ」で定着した人が多くて、そのうちのかなりの数の人は、初めは上田や松本に定着しようとして、受け入れられなかった人でした。
その土地土地で、いろんな事情があって、軽井沢は創価学会王国なので、創価学会の伝手で、受け入れられて、定着した若い人も多かった。
日本国内でも外国でも、自分と相性があう土地柄は必ずあるもので、ホーボーさんになってでもいいから、あちこちで働いてみて、ここなら中華鍋を買って住んでみてもいいな、とおもう場所を見つけることです。
職業についても、相性がいちばん大事で、ひとのいうことなんて聞く必要がないのはもちろん、小さな声でいうと、法律だって、まともな社会ならば、ほんとうに生きるために必死に暮らしている人間には片眼くらいはつぶってくれるものです。
例えばニュージーランドでは売春は刑罰の対象にはならないが、買春側の男の側は、見咎められて、カネで性を買うなんて、あいつはそれでも人間か、と顔を顰められても、時間決めで、男に自分の身体を貸してやっているほうは、事情があるのに決まっていて、嫌な仕事を我慢しているだけなのが判っているので、警察も女の警官を派遣して、やくざにたかられていないか、安全を確認したりするくらいで、あとは、ほっておいてくれます。
へんなことをいうと、売春のような仕事にすら、向き不向きはあって、
カシノのブラックジャックテーブルを一緒に囲んだのが切っ掛けで、なかよくなった年が上の、とんでもない美貌の女の人が、元は、「わたしは高いのよ」と笑っていたが、高級娼婦と言われる類の人で、あとでは売春ビジネスのボスになっていった。
このひとなどは、「男なんて大臣でもビリオネアでも、言うことが偉そうでくだらないだけで、いっぺんマヌケな裸姿になって、わたしの上に乗っかってしまえば、カクカク腰を動かして、なんだか自分の空想の世界に入り込んで、ただいってしまうために無念無想になるだけの、からくり人形みたいなもので、『早く終われよ』とおもってるだけで、あれそのものは、そんなに嫌なものでもないわよ」と、ほんとうかどうか、述べていた。
他人が何を言おうが、どう思おうが、なにしろ、こっちは生きていかなくてはならないので、御託に付き合っているヒマはないのでしょう。
簡単にいえば「こうあるべきだ」「こういう仕事でなければ未来につながらない」などと考えるのは愚の骨頂で、いま生きていくために、自分にとって辛くてたまらなくはない仕事を選ぶしかない。
行き当たりばったりで、ここがもしかしたら大事かも知れないが、なんでもかんでも、やれることはみんなやってみて、ある日、鍵がかかったドアばかりで、どうにもならない、死ぬしかない、と思い詰めていたときに、おもいもかけないドアが、トンッと開いて、未来の地平線へと広がる広闊な場所に出てしまうのが、普通のなりゆきであるようです。
バーテンにしろ、コンビニにしろ、ホステスでも、売春でも、
ひとつだけ気を付けるべきことは「自分をひとりで、ほっといてくれる職場を選ぶ」ことで、会社であれギャングであれ、組織が個人を巻き込もうとするような場所は避けなければいけない。
組織に首根っこをつかまれてしまえば、個人としての人生が終わってしまうのは、国でも、吹けば飛ぶよなギャング組織でもおなじことで、
ニュージーランドなどは、世界で最も覚醒剤に汚染された国で有名だが、いわゆる薬漬けにされて、もう自分が人間であるかどうか定かでなくなったまま、ありとあらゆることをさせられる人が、たくさんいることが、コロナパンデミックで、麻薬の運び人の売春婦の人びとがウイルスのスプレッダーになって陽性者が増えたことで、また社会の話題になったが、高い給料であったり、覚醒剤であったり、組織の側は、さまざまな手を使って人間を支配しようとするので、それだけは心して気をつけるべきでしょう。
そうやって地獄を通行して、「普通の生活」に帰ってきたら、きみが、まず初めにやるべきことは「希望を持つ」ことです。
えっ?希望?
そんなもの、どうやったら持てるの?
ぼく、持ったことないや
と述べる人のほうが多いとおもわれるが、あのね、希望を持つ早道は、
愛する人をつくることなんです。
騙されたとおもって、やってみるといい。
自分は、このひとのためなら、なんだってやれるんだ、という人は、誰にも必ずいるはずです。
いないよ、そんな人、と言うきみは、まだ相手に会えていないだけですよ。
近所の角を曲がったところにあるベーカリーで働いているかもしれないし、
インターネットの上で、見知らぬ誰かと激しく言い争っているかもしれない。
でも、ちゃんと「どこかにいるはずだ」という気持で世界を眺めていれば、
案外、すぐに出くわすのではなかろうか。
愛する人が出来てしまえば、もうしめたもので、きみは生活の全き保証を手にいれたも同然で、昨日まで、かろうじてしがみついていたバラバラになりそうな筏が、いつのまにかボートの形をなしている。
数年もすれば、大船(たいせん)になってゆく。
そこでも、まだビンボかも知れないが、もう身を噛むようなビンボじゃないよね。
そこに至るまでには地獄を通行するかもしれないが、愛情に追いつく地獄の記憶はないのだと言われている。
深く水に沈んで呼吸もできずにもがいていても、水面の光が見えれば、人間は必ず最後のちからを振り絞って、水面に顔が出るまで、水を蹴っていけるものだと信じています。
あきらめちゃ、ダメだよ、絶対に。
大丈夫。もうすぐ、愛する人と一緒に、手をつないで、明日までセールで4割引きの中華鍋を買いにいけるさ
では
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母が残した歪んでしまった中華鍋の底を、木槌で叩いて整形いるところに、このブログが届いたので笑ってしまった。
希望は、大切に思う気持ちに宿るんでしょうね。
諦めずに木槌を振い続けます。
いつも素敵な文章をありがとう。
ガメさんは優しいなあと思います。それは弱った人の心にすっと寄り添う優しさです。上から目線の叱咤激励は弱った心を押しつぶすけど、寄り添うように語られる言葉は心を動かすんですよね。泣けて、ちょっと元気がでて、ちょっと勇気がでて、きっとなんとかなるって思えてきたりするんですね。それがempathyということなんだろうなと思います。日本語社会ではなかなか見つからないものだから、このブログはとても貴重です。
>希望を持つ早道は、愛する人をつくることなんです。
というのはその通りと思います。
弟の同級生(男性)で、ずっと独り身だった方がいて、親、特に母親から、「自分のうちは格式が高いから、あの人と結婚しろ、この人と結婚しろ」と言われ続けて、でも、うまく縁談がまとまらず、50になって、という方がいたのだけど、
このお正月に実家に帰って聞いた話では、大学時代から好きな人がいて、でもその人は結婚していてお子さんもいて、という状況だったのが、離婚なさったので、その方と結婚することになった(もう結婚された)らしい、です。
ご当人、本当に幸せいっぱいだそうです。相手のお子さんが大きくなられるまでずっとずっと待っておられたそうです。他にもいろいろと待っておられたんだろうと思われます。
ビンボー話とは違うけれど、愛する人がいるということは、なんと素晴らしいことか、と思いました。
愛するみんなに幸あれ!
その人は、まだ20歳の学生のうちに好きな人との間に子供ができてしまった。
結婚しないつもりは毛頭ないのですぐに結婚し、堕胎させるつもりもやはり毛頭ないので、一児の父となる。
しかしながら学歴はなく、就職した先は、日本でもっとも悪名高いテレビ業界の、そのまた末端の孫請け制作会社で、人間ではなく家畜として扱われた。
赤ん坊がいるから一家の大黒柱として仕事を辞められないだろうと足元を見られ、弱みに付け込まれ、まともに労使契約も結ばれず、なんと年収100万円にとどかない(信じられないでしょう?そういうのがある世界なのよ)薄給の薄給で朝から晩まで奴隷のように働かされていた。
相談にのった私は、とめどなく出てくる仕事の愚痴を遮って「とにかく、今すぐその仕事を辞めろ」と忠告した。
賢明な男で、一週間後には職場の上司を殴り飛ばして辞職したよ。
この前久しぶりにその男に会ったら、子供がもう一人生まれて、上の子は中学生になったって。建設会社や警備員や運送会社を渡り歩きながらなんとか日銭を稼いでいたらしい。あの頃よりは収入は増えたが、朝から晩まで働いて毎日くたびれているという。
子供の写真を見せてもらうとね、父親とまったく同じ笑顔で笑っていたよ。
「やっぱり、笑顔が君とそっくりだな」と僕が言った時の、彼の一瞬の照れ笑いが、彼の幸せが何かを物語っていたなぁ。