日本がつまらなくなった、というようなことではなくて、なにしろ日本と縁が切れてから11年経っているし、最近は、日本語を読むのも億劫だしで、あんまり日本について考える、ということがなくなってしまった。
とても残念な気がするが、仕方がないものは仕方がない。
そのうえ、最近はニュージーランドから出ないで暮らしていて、別宅があるメルボルンにさえ、コロナ以来だから、えーと、二年以上も行ってなくて、
拡大版ひきこもり、というか、ボートやヨットで遊んだり、リザーブで散歩したり、はなはだしきは、裏庭で小さいひとびとやモニと、テントを立てて、キャンプしていたりで、楽ちんを極めて、多分、難局におけるサバイバル能力みたいなものはゼロになっているのではないだろうか。
自然は、ひとを飽きさせない。
特に海は、毎日、どころか、刻々と変化して、昨日とおなじ海に戻ることは二度とない。
十年前は、ハウラキガルフはおろか、オークランドベイにさえ鯨がやってきて、オルカの一家が宙を跳んで、高速ボートを出して水上をとばしているとイルカたちがやってきて競走する賑やかさだったが、人口が増えて、ひとの暮らしが豊かになって、ヨットもボートも、倍近い数になった結果、内海ではカモメやウミウが飛んでいるくらいで、シーライフがお出迎えにくる、ということはなくなってしまったが、少しおおきな船が要るハウラキガルフの外縁に行くと、人間にうんざりしたイルカさんやオルカさんが、相変わらず、自分たちだけで遊んでいる。
遊興目的も含めて、コロマンデル半島の東側での帆立漁を禁止したり、釣り上げる鯛のおおきさの制限が25cmから30cmになったり、持ち帰っていい魚の数の制限を厳しくしたりして、十年前の海に戻そうとしているが、こう人口が急激に増えてしまっては、それもうまくいくかどうか。
最近、マリーナのクラブでの仲良しのひとりは、お気に入りのヨットを北島の北端に近いマリーナに移して、クルマではなにしろ遠いので、飛行機を飛ばしてヨットに乗りにいく方式にあらためたが、結局は海がだんだん衰えていって、ああいうやりかたが一般的になっていくのかも知れません。
北島の北端部分をノースランドというが、ノースランドには自分の船を係留できるジェッティ付きの別荘建設が流行っていて、むかしなら2000万円もしないで買えたのが、一億円近くもとるようになって、なんだか閉口してしまうが、住宅市場は、いったん下り坂に入ると、まず別荘から価格の崩壊が始まるものなので、無駄遣いをしたくなければ、気長に待つのがよさそうです。
2021年は、前半はニュージーランドは世界でも珍しいゼロコロナの国で、国民は嬉しくて仕方がなくて、カフェもレストランも満員で、二万人だかのコンサートに集まって、よかったよかったをやっていて、世界に報道されたが、MIQの管理の隙をついて、たったひとりホテルの裏から街に出たデルタCOVID陽性のオーストラリア人から、あっと言う間に広まって、なにしろレベル4ロックダウンに、みんなが飽き飽きして、二度とごめんだ、という気持もあって、政府はelimination政策をいったん諦めて、ワクチン政策に切り替えざるを得なくなっていった。
ワクチン接種のおっかなさは、よく判っていて、わし自身、毎年クリニックから来る「fluのワクチン無料(ただ)だよー。こぞって来てねー」のemailに応えて接種を受けに行ったことはないが、こればっかりは仕方がなくて、やむをえず出かけて、二回目などは副作用でヘロヘロになったりしながら、ブースター接種まですませてあるが、いま観ると、政府が進めてきたThe 90% PROJECTも、おおむね達成されているようで、オークランドで言えば、二回のフル接種率は95.9%になっている。
ワクチン接種率はあがっているが、ニューイヤーズ・イブのクラブパーティに招かれたイギリス人DJが、またも出ましたUK人の自分勝手で、隔離ルールを守らずにCBDのクラブを巡回してしまって、オミクロン陽性であることが判明して、人気タレントらしく、ひと晩で100人以上の濃厚接触者をつくりだすという偉業を成し遂げてしまったので、今晩からダンスクラブパーティもコンサートも解禁になるオークランドで、さて、これから、どうなるか。
2022年は、なにしろニュージーランド人はニュージーランド人なので、悲観的で、
「オミクロンが猖獗して経済は大沈没、ホームローンも家賃も払えなくなって路頭に迷う家族が続出する」ということになっている。
「だいたいビンボがお似合いのこの国で20年もバブル経済が続くのが間違っておるのだ」と妙な怒り方をしているおっちゃんも、たくさんいます。
ニュージーランドは、5年前だかは、OECD諸国家中、出生率が最高になったくらい年齢構成が若い国で、一方で、ご多分に洩れず高齢人も増えているが、
移民が門前市をなす勢いで、延々長蛇の移民申請の列をなしていて、常に人口増大の圧力下にある市場なので、「バブル経済」も仔細にみると、銀行と不動産業者と開発業者が手をつないで、浮かれて踊っているポルカの様相をみせている部分もあるが、急速すぎてバブルに見えるだけの経済成長局面である部分もある。
問題なのは対収入比率では、到頭、世界最高額になった住宅で、
日本の人とほぼ変わらない低賃金国であるのに、住宅は、中央値が6000万円だかなんだかで、不動産市場に国富が集中しすぎていて、それが経済のアキレス腱になっている。
考えればすぐに判ることで、夫婦で家を持っているとして、カップルのどちらか、収入が多い方の稼ぎは、まっすぐに消えて、もう片方の収入だけで食べている状態で、しかも悪い事にニュージーランド人は、昔から見栄っ張りが多いので、ローンが組めればポルシェだのフェラーリだのと買ってしまって、そんなことをやっていれば当たり前で、他のことに使えるオカネなんてあるわけがなくて、消費市場は、ぎょっとするほどサイズが小さい。
累卵の危機というが、ニュージーランドの経済は、一瞬でも賃金の上昇がとまれば、そこでガラガラと崩れ落ちるほかはないルイルイランラン♫な、音だけだと楽しげだけれども、危ないなんてものではない経済なので、オーストラリアも同類で、これも、来年は、いったいどうなるか。
英語諸国は、もっかいつのまにか居座ってしまったインフレ退治に躍起だが、日本に、いま世界を覆っているインフレがやってくると、といって、ほんとうは、あの国は統計を誤魔化しているのではないか、と、ずっと疑いの目で見られていて、事実なら、もうとっくの昔にインフレになっているのかも知れないが、ともかくインフレになってしまうと、もう何度も述べたように「インフレになるなんて、なに言ってんの?そんなもん来るわけないだろう」と嘘ブック、じゃないや、嘯く黒田総裁の「すべてを計算しつくした」大博打で、オカネをじゃんじゃん刷って、MMT思想そのままの、「いくら借りたって国がつぶれるわけねーだろ」でやってきている日本は、インフレを抑制する金融政策の選択肢がなにもない、という、「日本って、ほんとうに中央銀行、有るの?日銀って、日本政府の御用達銀行っていう意味じゃないの?」と、いまでも囁かれている国なので、真っ逆さまで、
希望は今度の政権は、どうやら見合った額の法人税を減免するやりかたで「企業の賃金上昇を事実上義務化する」方針であるようで、こういうことを遅きに失する、と評すべきではなくて、良い事をするのに遅すぎるということはない、と、英語人式に言いたいが、顔を近づけてみると、「霞ヶ関省庁間での調整」の結果なのでしょう、なんだかヘンなことがいろいろあって、
肝腎な、赤字に喘いでいる中小企業はどうするの?利益がないのに法人税減免もなにもないもんだ。ダメな会社はつぶれちゃえば、ということだろうか、とか、これでいくと企業の投資意欲は減退してしまうよね、とか、現実にうまくいくかどうか、心もとなくなってくる。
日本は、なにしろ明治以来、国の稼ぎは全部軍備に叩き込んで、北朝鮮どころではない文字通り桁違いの金遣いの荒さで、巨大戦艦大和のような、おもいつきでつくった役立たずの化け物のようなベラボーに高価な兵器をつくったりする一方で、その戦艦に乗り組む水兵の姉妹は、貧困のあまり売春婦にされて売り飛ばされるのが当たり前という国富の底が浅い国で、戦後も、なにしろ戦前の、家は掘っ立て小屋、食生活は白米だけのご飯を見るのが徴兵された兵舎の食堂が初めて、ちゅうような、とんでもないドビンボ生活が基準なので、
ひところ、社会のエリート夫婦のあこがれだった「文化住宅」を1956年公開の小津映画「早春」でみると、呆気にとられるようなあばら屋で、小さな小さな、画面で見てさえ判るような安建材でできたTiny Houseです。
60年代70年代を通じて、日本経済の最盛期だった80年代になってさえも、
欧州人は日本の住宅を、はばかりもせずに「ウサギ小屋」と呼んで、
フランスの首相Édith Cressonなどは、在任中であるのに、日本人を指して
「ウサギ小屋みたいなアパートに住んで、二時間かけて通勤し、高い物価に文句もいわないfourmis jaunes」であると述べている。
いくらなんでも、fourmis jaunesはひどいでしょう、とおもうが、子供のとき、日本に越してきて、あまりの家のボロさに、ぶっくらこいたのは事実で、成田から東京に来る途中、川を越えて東京に入ったあたりで、スラム街が見えたが、かーちゃんととーちゃんに訊いてみると、それは「マンション」というもので、日本の人からしたら、あそこに住むのは夢の生活なのだ、と聞いて、子供心に「これは迂闊に日本の人と住宅の話をすると危ないよーだ」と考えたりした。
ニュージーランドのなかでもクライストチャーチの北の郊外にあるワイマカリリは農業家といってもビンボな人が多いが、このワイマカリリのランギオラという町の近くで酪農をやっている家の友だちの両親が、1990年代に招かれて、北海道の酪農の視察に行ったことがある。
夕食の席で、北海道は、どうでした?
日本の人って「サイロ」とかいう建物を使うんでしょう?
と訊いてみると、まるで汚らわしいものを見て、その記憶を吐き出すのだ、という子供の目から見て怖くなるような調子で、
「日本人が豊かだなんて、オオウソですよ。あの貧しさ!惨めったらしい身なり!思い出すだけで吐き気がする」
と真剣に嫌悪をこめて力説するので、ぶっくらこいてしまったこともある。
なにもそんなに憎々しげに言わなくたっていいんじゃないの?と、ガキわしは考えたが、そのころ日本に出かけたおとなたちの感想は、なべて、
「カネモチ国だと聞いていたのに、日本人の生活があまりに貧しいので驚いた。ニュージーランドのほうが、ずっと豊かだよ」だった。
でも、統計上だと、ニュージーランド人の年収の二倍以上あるみたいだけど、と、かわいくないガキぶりを全開にして混ぜっ返すと、下品なおっちゃんなどは、「日本人のことだからタイかどこかで、悪い遊びに全部使ってしまうんだろうさ」などと述べて笑っていた。
幸福を国民に分配する。
国と社会は国民が幸福になるのを助けるために存在する。
国家の運営の最終でゆいいつの目的は、自国の国民が幸福になることである。
政府というものの存在意義の最も根本的なことを、都合良く忘れて、個のための全体どころか、全体が個々人にのしかかって冨を吸い上げる仕組みをつくっただけだった戦前戦後の日本の倒錯した社会の在り方は、結果として、日本の国富を、ぎょっとするほど底が浅い、安普請のものにした。
使われるべきものに使われないまま、どこかの組織か誰かのポケットで眠っていたオカネが、バカな使い方で消えてみると、驚くべし、後に残ったのは、ただの貧弱な生活でしかなかった。
例えばバルセロナの町を歩いていると、これでもかこれでもかこれでもかあああ、な数のベンチがあって、向かい合ってグループで談笑するための、つくりつけられた椅子まである。
どの国でもおおきな町に行けば、拡幅された道路を、新設された自転車道が縁取っている。
押しも押されもしない、英語国きってのビンボ国家、ニュージーランドでさえ、延伸を繰り返した高速道路は全て無料で、田舎道も制限時速100km/hで走れるように整備されている。
オークランドは、だんだん押しくら饅頭みたいに人がぎゅうぎゅう詰めになって、例えばATMに並ぶ人と人のあいだの間隔まで、クライストチャーチの半分以下になってしまったが、なんとか息がつける町のままで存在できているのは、ドローンで撮ると、まるで町全体が森のなかに沈んでいるように見える、リザーブと呼ぶ、公共緑地の数の多さのせいであるようです。
個人が人間として生活できる環境の蓄積を「国富」という。
日本は、いまでも大好きな国だが、残念なことに、日本政府は、考えからして、すでにオンボロで、環境国富どころか、生来そなわった自然まで、ぶち壊しに壊して、平然としている。
インフレを隠しようがなくなると、日本語人は、裸のまま冬の通りに、おっぽりだされてしまうようなものです。
生活を豊かにするための積み重ねが、まるでないので、いまちょうど「何が買えるか」ベースの日本の賃金は60年前に戻ってしまったところだそうだが、そうなると、生活そのものが、そっくり60年前に後戻りしてしまう。
世界中、2022年は苦難の年になりそうだが、日本も例外ではありえないようでした。
現代日本語の「役に立つ」は「使い捨てにできる」と、ほぼ同義だが、日本社会は「役に立つ」人間を大量に生産するために、これから社会を改革していくでしょう。
具体的には役に立たない学問の場になっている大学を縮小し、生活の役に立たない美しいだけの古い建物をどんどん壊し、なにより、ちょっぴりしか役に立たない地方の小都市は、バッタバッタと切り捨てにかかるに違いない。
2022年から日本が国として分け入っていくフェーズは、これ以上個々の国民の生活の質を下げることで吸収させる余地が少なくなった社会のありかたを、一歩進めて、国民の生活そのものを消費して、国家として再建する方策以外は有り得ないように見えます。
むかしは通例にすぎなかった「餓死」が、また日本に帰ってくる日も近そうです。
国も社会も、誰も助けてくれない2022年を、せめて、きみとぼくと助けあって、言葉をうけとりあって、生きていかなければ。
ハッピー・ニューイヤー!
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最近ドラえもんを読んでみましたが、のび太の家が今の基準からするとずいぶん立派に見えました。同じような物件が練馬区にあるか調べてみたらそんな物件は存在せず、もっと狭い物件ばかりが出てきて驚くとともに、この数十年間日本の住環境は藤子F先生が描いた当時よりも確実に貧しくなっていることに落胆しました。これが今後益々悪くなるのかと思うと本当にやりきれない思いがします。
「文化住宅」懐かしい言葉に、今で言う古民家に住んでた幼少の自分が憧れの気持ちを抱いたのを思い出しました。井戸水が枯れたとか記憶にあるだけの自分にはまだ覚悟のしようもありますが、今の若い世代にはより厳しい現実が待ってるのかも知れません。今と違うのはあの時は常に上昇局面だったので皆心が明るかった。これからは下降局面だから、そこが一番心配です。
どんな状況になっても優しい気持ちでいられるように努力しなければ。
しいぃいいっ。そんなこと大きな声で言ってはいけません。
子どもの頃、白い団地があちこちに建てられた。狭い敷地。階段下の猫の額ほどの花壇。幸福と豊かさを示すチューリップ。チューリップが咲かない時期はただの草むら…駐車場はカローラで満たされ、自転車置き場はママチャリがだらしなく並び、日焼けしたプラスチックのブーブーカーがゴミ箱行きを待っている。
白い団地が幸福の象徴だなんて何かが間違っていると感じてた。そこで幸福になるためには幾つかの条件が必要だった。髪型は聖子ちゃんカットで、制服のスカート丈はミディアム。白い靴下を履き、ニッコリと純白の笑顔で白い箱に自分を嵌め込む必要がある。カローラ以上の車には乗れないし、カローラ以下の車にも乗れない。
好きだった人の彼女が高島平団地に住んでいた。標準的な女性。男性の理想の清楚で慎ましやかで、控えめで、多くを望まない。今思うとそれは自身を脅かさない女性、ということだったのかもしれない。男性自身が活躍することを諦めていて、バブルの狂乱も覚めた目で見ていたに違いなく、自分の頭に重りをつけてそれ以上望まないように目の前にある標準的な幸福で満足する様に自分を押し込めていたのではないだろうかと、この記事を読ませてもらって思った。
その人は文学を好み、何が美しくて何が哀しいか、楽しいということが何かも知っている様に見えたのに、なぜ自ら箱に詰まりに行くのか不思議だった。
白い団地は私にとっては凶器でしかなかった。凶器としての団地に喜んで住むには、狂うしかないはず。所定の動きしか許されない場所。張り付いた様な非現実的な笑顔で、嘘の暮らしを重ねる。抑圧された人々は妻を殴り、殴られた妻は子を殴り、虐待するかもしれない。そういう表向きは笑顔を振りまくチューリップを象った暮らしが、本当は人間は喜びもあれば悲しみもあるのに、ただそこには明るい笑顔しか存在してはならないので家の中は一層暗く狂気じみていく様に思える。無理をしてでもそこに詰まっていようとするのはなぜなんだろうとずっと疑問だった。そうか、あの団地も国の問題だったのか。
人の想念が一定のキューブ状に整えられて隣り合わせに詰まって群落を形成していると思うと、近くを通るだけで呼吸がおかしくなるのを感じる。
いや到底清楚で純粋で辛くても笑顔でピンクのルージュを引いているという様な女性にはなれそうもないこと、そういう女性でなければ愛されないということに対する苛立ちや嫉妬が、白い団地群落を悪魔の巣窟みたいに見せるだけで、ほんとうはみんな決められた幸福の中で、決められた幸福を謳歌し、なんの問題もないのかもしれない。
問題がないと思ってしまうのはなぜなんだろう。
世界第2位の経済大国(!)って言ってた時から「日本は貧しいんだよ全然豊かじゃないよ!」って言っても、ほとんどの人は「は?」って感じでキョトン顔されたものですが、今も大して変わらないかも。
「豊かさ」が何かわからないし知らない。知らぬが仏で、知らない人はここまま知らない方が幸せでしょうね。