海のほうから陸を見るくせがついているので、プタカワの木が風にそよいでいるのを見ても「このくらい風があるとホワイト·キャップが出てるな」と一瞬、海が白い波頭の広がりになっている光景を思い浮かべる。
風には、おおきなヨット、次に、おおきなエンジン船、が強くて、小さなエンジン船が最も弱い。
ヨットの方は小さくても、自分ひとりで乗っている分にはサイクロンの海でも大丈夫なくらいです。
忙しいが。
プレーニングと呼ぶ、例の、後尾に200馬力300馬力くらいの船外機を付けたヤマハやマーキュリーのアウトボードの、8m内外のボートは、静かな海面でも、止まれば動揺が激しくて、安定していたいとおもえば、いつもいつも高出力で疾走していなければいけないところが、なんだか、ある種のひとの人生を思わせて、哀切なところがあります。
最も楽ちんで、いいのは、ディスプレイスメントやシャフトドライブのセミプレーニングの14メートルくらいの船で、バストイレも、冷蔵庫も冷凍庫も、家庭サイズのものが付いていて、ラウンジにはカウチがあって、ベッドも12メートル船の舳先の形あわせたV字型のボート寝床ではなくて、通常のダブルベッドが置かれている。
一方では50フィートを越える船のように、海上を動き回る砦のような高々とした趣はなくて、海面が近くて、すぐそこで、セミプレーニングなどはトランザムのスイミングプラットフォームに出れば海の水が、ボートが速度を出すにつれて追いかけてきて、
足をひたひたと濡らしている。
風だけが問題なので、太陽が照りつけても、最小ボート組を除いてはエアコンもあるので、むかしのように船内は暑くはない。
電源はソーラーパネルで、トラックやバスに使う程度の容量のバッテリーがいくつか船底にあって、240Vの家電はインバーターで動かします。
この頃はClassic Kiwi Bachと呼ぶが、ニュージーランドには簡素な掘っ立て小屋にいて、夏を楽しむ習慣がもともとあって、ボートの内装も、それに倣っていたが、最近は贅沢になれて、bachよりも海を移動する別荘のおもむきになってきた。
自分でも、いちど便利になれてしまうと、クラシックボートまで改装して快適に過ごせるようにしてしまうので、ときに25フィートくらいの昔から持っているオンボロ·ヨットに乗ると、いつまでも卯建があがらない旧い友だちにあったような、不思議な気持になります。
海を彷徨するのは無条件に楽しい。
釣りをすることもあるが、たいていは、新しい釣りのアイデアが浮かんで試してみたりするときくらいで、あちこちの入り江を訪ねて錨をおろしたり、あるいはおおきなボートならば、360度水平線の、見渡す限り陸影もない海のまんなかで、濃紺の海に囲まれて、ぼんやり雲を見ていたりする時間がいちばん長いようです。
陸地から遠く離れて、海のまんなかで夜を迎えることには良い点があって、満天の星空、南半球特有の、空をふたつに分けて、垂直に、どおおーんと屹立しているミルキーウェイを甲板に寝そべって見つめていると、それだけで泣きたくなってくる。
気が付くと、ぼくは帰ってきたんだ、ぼくは、やっと帰ってこれたんだ、と意味不明の言葉を、自分に向かって話しかけている。
子供の時は、毎年毎年、他の家族よりも、遙かに短い期間しかニュージーランドにいられなかったとーちゃんとふたりで、尾根から尾根へ、日本で言えば、ちょうど鎌倉の天園のような道を、三日も四日も歩いて、世界中の、ほとんど森羅万象について話をした。
その記憶が強烈で、人間は、他には人が見えない自然のなかでしか、まともにはしていられないものだという、ヘンテコリンな考えが染み付いている。
ラスベガスにブラックジャックのテーブルを囲みに行くときでさえ、そうで、クルマを飛ばして、赤い砂漠のまんなかの赤い岩の山で、太陽という最も苛烈な自然と対話する。
まして海は、ほんとうに隅々まで「神の言葉」で出来ていて、人間のような退屈で凡庸な存在は歯牙にもかけない。
人間の意識にとっては残された最後の自然で、それでも、例えば10年前は、海に出れば、内湾のオークランドベイですら、鯨が遊びに来ていて、オルカの家族が、コンテナヤードから、それほど離れてもいないところで、雄大なジャンプを披露していたりしたが、いまは、ボートやヨットが増えすぎて、よくブルーペンギンが、波間を漂っているところに会うしかなくなって、おかげで、自分が持つ船は、外洋に出られるように年々おおきくなって
陸がみえなくなるくらいのところで、やっと、鯨やイルカに会えるところまで海も追いつめられている。
そのうちには南島にホリデー用の家を買って、そこにjettyを付けて海に出るのでなければ、神聖な生き物としか形容のしようがない、鯨たちにも会えなくなっていくのかも知れません。
海のまんなかにいると、人間は、いつのまにか、孤独な、寂しいシンボルに似た存在になる。
生身の人間自体が、言語に大層似てきて、神様が光を集めてつくった、
小さな小さな、眼を凝らさないと、よくは見えてこない、ひとりぼっちの輝きに変わっていく。
生まれてから、成人して、老いて、また自然に還っていくまで、
泣きたいような思いで、絶えず、自分はどこから来たのか、自分はどこへ行くのか、混濁した意識で考えている。
混濁が晴れて、言語がうまい具合に排列されて、思考の手をひいてくれて、
鮮やかな光の朝のような、すべてが明瞭な輪郭と色彩で見える場所へ連れて行ってくれることもなくはないが、そんな輝かしい一瞬は、数秒ほども続かない。
せめて海をさすらって、途方もない自然を、神がつくった生命たちの家の廻廊をめぐっていたいとおもっています。
人間の世界から、ときどきいなくなってしまうことが多くなるけど、また手紙を書きます。
写真、ありがとう。
何度も見返しては、いろいろなことを考える。
日本語をやって、よかったと思いました。
午後は、船のタンクに水を入れに行かなくては。
1200リットル容量があるんだけど、それでも、真水は、いくらでも必要で、もう少し大きなタンクに換えようと思っているの。
水という自然の輝きが身体のすみずみまで満ちて、あなたにもぼくにも、
ついに神の祝福が訪れますように。
では
(タイトルの「海神へめぐりやまず」は堀川正美の詩から採りました)
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いいなぁ
私の安心できる場所はお布団のなかだけど
帰ることのできる海があれば
お布団から出られるかもしれない
いいなぁ。またNZに行きたくなる。海の話、ボートの話、もっと読みたいです。