悪い癖で、どうやら、オークランドに飽きてきたような気がする。
むかしは大好きな町だったメルボルンには、自分で判然り自覚できるほど飽きていて、それでもオークランドには、なかなか飽きないね、と自分で不思議だったが、落ち着いて考えてみると、オークランドであるよりは、ハウラキガルフが好きだったので、そうであれば、家は残しておいて、ハウラキガルフには、ときどき会いにくればいいだけのことで、同じニュージーランドでも、更に美しい、素晴らしい海があるBay of Islandsにも根拠地をつくって、ニュージーランド全体を「海の拠点」とみなしたほうが、楽しいことがありそうです。
人間は、世界中のあちこちに楽しい場所をつくった。
日本の人は自覚はないように見えるが、東京などという場所は、そのなかでも、とびきり遊ぶのに楽しい場所で、いま振り返っても、ギリシャ人やアメリカ人、アイルランド人たちと、遊び呆けて、モニさんとふたりで、年柄年中ハネムーンに来ているようなものだった。
だって、なにもかも、世界の他の場所と異なるでしょう?
ちょーオーセンティックな、なんだか文化財のなかで食べているような、赤坂の蕎麦屋で、ambienceに陶然としていると、午ご飯どきで、背広のひとびとが、どやどやと入って来て、ズルズルズル、びっちょべっちょ、ズズズ、クチャクチャ、ゴブリンの宴会のような音を立てて蕎麦を「すすり」始める。
慌てて逃げ出したりしていたが、そういうことも、いまでは、大変に楽しい思い出になっている。
もうひとつは、日本で見た目で判る外国人でいることは、一種の、遮断されたバブルに包まれた移動観客席にいるようなもので、周りの日本の人たちにとっては、なあんとなく存在しないようなものであるらしくて、まるで自分がいないように感じられるので、目の隅で、こちらを盗み見しながら、モニさんの美しさに、ぶっくらこいているのでしょう、ヒソヒソしているのが映っても、基本的に知らんふりをしてもらえるので、もともと世の中とあんまり交渉をもちたくないこちらとしては、とても快適な町だった。
バルセロナに至っては、この世の天国で、バールからバールへ、ふらふらと歩いて、サングリアでタパスをつついて、ピンチョスでワイン、夜になれば、5人でも食べきれないくらい大皿にどっちゃり盛られているのに一人前の豚の頬肉や、旨いうさぎの肉の煮込みで、魂は、すっかり天に昇ってしまって、もう生きているのか死んでいるのかも判らなくなって、天国がここよりいいところなら、いますぐ死んでもいいな、あ、でもいま死ぬと志において自殺で、自殺すると天国に行けないよね、と混乱した幸福なおもいに耽っている。
トンガの海底火山のニュースで、トンガの南の端っこに住む日本の女の人が登場していて、日本の新聞の年齢申告主義で、43歳だと書いてあったが、噴火の瞬間は、ボートで買い物に行った帰りだったと書いてある。
なんという楽しい生活。
おおお、と思ったのは、ボートの通称ロケットランチャーという釣り竿挿しに釣り竿が挿してあったことで、トンガは、水が澄みすぎていて、魚が凝っとこちらを見ているので、釣りに向かないのがヨット乗りには知れ渡っているが、してみると、コツさえ判れば釣りも出来るのだな、アオリイカを釣るときみたいに、こちらの姿を隠して、瞞して釣るのかしら、と、いろいろに考えたが、釣りまで出来るとなると、トンガに根拠地を建設するっちゅうのも、いいなあ、とおもう。
なんでも用心するのが国民性の日本の人達のなかには「噴火があったばかりなのに、バッカじゃねえの」という人がいるに決まっているが、
あのね、
オークランドなんて、火山の真上にある町なんです。
地震はないけどね。
マウント・エデン、マウント・ウエリントン、マウント….と、町中のあちこちに点在する丘は、全部、噴火口で、なんでそんな物騒な所に150万都市をつくったかというと
「だって、最後に大爆発したのは600年も前だから」で、
火山慣れしている日本の人が聞いたら、「ふうーん」と、やや憐れみのこもった眼差しで、やさしい態度になりそうな理由で、
やっと最近になって「休火山」という概念が過去のものになっていて、例えばマウント・フジも爆発するのよ、と聞かされて、ゲゲゲ、になっている。
慌ててオークランド市がつくった、「150万人脱出計画」は、世界最大のエバキュエイション・プランで、概要を読んでいると、夏でも、背筋のほうから寒くなってくるので、納涼にいいのだと言われている
前にも書いたが、佐野昌一は、電気試験所の勤め人時代に、麻雀をしている最中に、若い友だちに
「どうしたら佐野さんみたいに、うまく人生を渡っていけるんですか?」と聞かれて、
「ローン!大三元ドラドラハネ満!運の十さ!!」
と起ち上がって、わっはっはと哄笑したという伝説の持ち主で、このSF作家の後年の筆名、「海野十三」は、これから来ているが、まことにその通りで、人間の一生などは運が100%なので、天災などは、気に病んでも無意味で、
自分の運のフットワークを信じるしかない。
ドッジ、ドッジ、ドッジ。
いままでの乏しい経験が教えるところによれば、引っ越し先を決めるには、その土地の良いところが、自分にとって、どのくらい強烈によいかで決まるのが良いようです。
パチンコが死ぬほど好きなら、やはり東京や大阪がよい。
気に入ったラブホテルが近い町に越したイギリス人カップルも、実際に存在する。
ビンボでも楽しく暮らせる町が、最もよい。
ドッジ、ドッジ、ドッジ。
オカネがまったくないと困るだろうが、食べられて、住むところがあれば、少なくとも知的な人間にとっては天国で、トンガならトンガで、魚を捕って、庭のバナナをむしって、ほっといてもでっかくなるカボチャでも栽培して、暮らしていれば、たいていの都会に住むよりは楽しく暮らせる。
生活の敵は常に意外なところに潜んでいて、それを見いだすには観点を変えることが必要で、例えば、通勤などは、たいていの人間にとっては幸福な生活のball and chainで、幸いにも、というべきなのか、コロナ・パンデミックで、職場に物理的に身体を移動しなくてもすむ人が増えて、ニュージーランドでは80%の人が、「もう通勤生活に戻りたくない」と述べて、ナマケで、流石は英語圏きっての生産性の低さを誇るサボリ大国だが、「通勤をしなくてすむ生活」が、どれほどニュージーランド人の家庭を幸福にしたかは、想像に余り有る。
通勤しなくてすむ生活に通勤生活から移行すれば、収入などは半分でよいのでは、とさえ思う。
住む場所を変えることには、自分の人生について考え直す機会を得られる、という重大な利点がある。
何度も紹介した、youtuberのJonna Jintonなどは、住む場所を変えることで人生そのものを質的に変えてしまった。
ダメな国に住むことよりも、ダメな町、ダメな町に住むことよりもダメな家に住むことが個人には影響がおおきくて、
ほとんどの場合、国が繁栄しているかどうかなどは個人には影響がなくて、
国のありかたについて侃々諤々するよりは、キッチンのベンチを片付けて使いやすくするほうが生活の質は著しく向上するが、
極端な例をあげれば葛飾北斎などは、それをよく知っていて、百回を超える引越は、片付けもせず、掃除もせず、散らかり放題のゴミ部屋になると、
大八車で、さっさと次の住家へ移っていった。
いまはインターネットが水道以上に重要なインフラなので、これに加えて、生活で使う言語がおおきな要素で、
攻撃的で、嫌なやつが多い言語の社会で幸福になるのは難しい。
失礼な人間がいれば、言うほうは面白半分でも、言われたほうはなにかの弾みに思い出して嫌な気持ちになるもので、そういうくだらない人間がウロウロしている社会は立ち去るにしくはないが、
残念なことに、少なくとも、わしが知っている範囲では、日本語社会が最も他人を傷つける言語社会、嘘まで平気で捏造して、自分よりすぐれた他人を傷つけようと虎視眈々の日本語人の情熱は、それだけでものすごいが、
運悪く女の人に生まれてしまうと、論外で、
なにしろ普通に人間として生きようとすると、ありとあらゆる失礼に遭遇する。
挙げ句の果てはPTSDで発狂寸前になって、本人が今度は嘘中傷を平気でやる、大道で喚きながら包丁を振り回しているような、気の毒な女の人に遭遇したこともある。
考えるだけで日本語世界で女の人たちに対する仕打ちを思い出すと気分がわるくなるので、詳しくは書かないが、
日本の社会全体が女のひとたちに対しての態度については、深く深く病んでいて、その病がなにかの弾みで癒えるまでは、日本語の家は出て、日本の社会を後にするほうが楽ちんな人生が送れそうです。
なつかしい故郷の町を出て、峠で、振り返ると、やさしい友人たちや隣人たちの顔がおもいだされて、後ろ髪を引かれて、なんだか泣きたくなってしまうが、「また帰ってくるからね」と小さく呟いて、思いを振り切って前を向いて、思い詰めた表情で、足を速めるきみは、やはり正しいことをしているのだとおもう。
あれほど、きみを傷つけた故郷も、遠くから見れば、きっとやさしい気持で思い出せるようになるよ。
きみの故郷は、ほんとうは、いつだってきみ自身の魂そのものに他ならないのだから。
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先日、日本に入国してさ。
(帰国なんだがもう帰国とも呼びたくない)
隔離施設のあれこれがわたしにはひどいもので、Twitterで怒ってたらえらく沢山の人が来てね。
言うんだわ。
「こうなることはわかっていただろう」っていうゴーカン魔みたいなのとか、
「日本に帰ってくるな」
とか。
その時は意地悪が顔を出して半分面白いなあと思ってたけど、
そう、書いてるとおり、たまにふっと思い出すよね。
…でね、先日。
かつての震災のことで、人から注目を浴びたいがために、嘘八百を並べている人がいて。
現場にいたならそれは嘘だとわかることなんだけど、もう覚えてないと思ってるのかな。
それにマトモそうなコメントつけてる人、同意してる人、(ちょっと考えればあり得ないことだってわかるのに)数万のRTといいね、これは嘘だよ、とわたしが言ってみるものの、そのアカウントをフォローし続けてるフォロワーの人たち…
駄目だわ。
日本語、好きで、北欧にいる時だって日本語で喋っては、すっきりしたり安心した気持ちになってたのに、
もう、あの空間にはいられない。
日本語、頭が淀むんよ。
下手くそですぐに言いたいことが言えなくて悲しくなっても、よその言葉で話してるほうが、ずっと頭が楽だ。
トンガ、いいね。あったかい海があるところは本当にいいと思う。
書いてくれてありがとねー。ちょっと泣いちゃったよ。
すごく良い記事なので残してほしいです。
私は引越は9回くらいかな。気分で引っ越したり、仕事を変える度に勤務地の近くに引っ越ししてきました。
通勤が足枷なのも、自分の経験として凄く良く分かる。
幸運にもオフィスを徒歩圏内に収める事に成功していますが、
電車で通勤する生活が何日かでも続くと精神が摩耗して人生の活力が失われるのですよね。
>遮断されたバブルに包まれた移動観客席
日本人でも(職場内で限定で)進んで自ら孤立していくことで、
働きながらこの『バブル』に入る事ができるけれど
仕事で成果を出し続けて、それを認めてくれる環境を掴む必要があります。
とーっても聞きたいことがあって、ここには書いていなかったことなのでぜひ質問させてください。
一般論として、子供の教育はどう考えますか?
目下我が家においても引っ越しについては最重要課題なのですが、大きな方針は大体決まっています。ただなんとなく後ろ髪を引かれることがある。
例えば自分は、可能だったら都市より農村での生活も体験してみたい、と思いつつ今後の子供たちの成長を考えると、どうしても教育という観点から都市に住んでその恩恵を受け取りたいと考えています。つまり自分の幸せよりも子供への還元を優先させている。
ガメさんたちはどう考えていますか??
> いまはインターネットが水道以上に重要なインフラなので、これに加えて、生活で使う言語がおおきな要素で、攻撃的で、嫌なやつが多い言語の社会で幸福になるのは難しい。
そうですよねー。
日本語人は『説教』をしたがるやつが多い。
先日友だちのドイツ人に、日本語の説教するオッサンがめんどくせえんだよ、と愚痴言ったら、彼女曰く、別にアンタだけじゃなく、そんなの好きなヤツはひとりもいない、とハッキリ言われました。
子供の頃、というか大人になるまで正気で考えられないほど原爆が怖かったのに、
生きていくうちにどうして日本人なんか1人でもこの世にのさばらせておく必要が有るんだろうと思う様になっていました。
今からでももう一回原爆でも何でも落として消せば良いのにと思いました。
次の朝起きると昨日の恐ろしい邪念が体に残っていて飛び起きます。
不信が極まって外に出て、真空に投げ出された様な気持ちになって戻って来て、
魂を日本語に浸す。
また踏ん付けられて、人の道を外れそうになって、体を引き摺って這い出す様に出て行く。
日本語で育んだ魂に亀裂が入っていく。