「ガメ、Spirited Awayの見すぎなんじゃない?」
さっきから、モニさんが、可笑しそうに、心配そうに笑っています。
夢の話をしているだけなのに。
列車に並んで、地面すれすれを飛んでいく、白い龍が出てくるあたりから、当然のことだが、もうマジメに聴いてもらえなくなってしまった。
横須賀線の、むかしのボックス型に向かい合った普通席で、ぼくは、なぜか老夫婦に久闊を叙している。最後に会ったのがいつのことだったか、思い出そうとして、どうしても思い出せないので、不安になっている。「あのときは…」と言われたら、いったいどうすればよいのか。
あの後、頭を強く打ったので記憶がないんです、それとも一度死んで甦ったユダヤ教徒の男の話でも、すればいいのだろうか。
話は、冬の小樽の美しさや、阿寒湖に行こうとして地元の人に
「この雪では十日かかって、つくかどうか」と言われて、悄気てしまったこと、
軽井沢の氷った森の美しさや、冷たい、パリパリと乾燥した音を立てそうな空気、例の、
鐙摺山の後ろに聳え立つ、雄大な積乱雲の、白色よりも更に白い、
雄大な垂直な姿に及んでいる。
途中で、なんの考えもなしに、お愛想のようにして
「日本って、いい国ですよね」
と、間投詞のように述べると、
老夫婦は、喋るのをやめて、ミカンを剝いていた手まで止めて、
凝っと、ぼくの顔を観ている。
見る見るうちに、ふたりの両眼から涙があふれてきて、
「外国の方に、そんなことを言ってもらえるとは、思わなかった。このごろの日本では、もう他国の人は見向きもしてくれないものだとばかり思っていました。わたしどもの知っている日本は、こんな国ではなかったのですが」
と言う。
しばらく、ためらう様子を見せてから、
私どもの倅が、みなさんには、たいへんご迷惑をおかけして、
たいへんなご迷惑を、おかけして
あんな筈では、なかったのです。あなたさまたちを苦しめることになってしまって、決して本意ではなかったのです。
そういうつもりでは、なかったのです!
捕虜の収容所は狂気の世界だった。狂気は伝染するんだよ、と倅は、よく申しておりました。
終戦のあの日、日本刀を振り上げてしまったのも、狂気のゆえで。
狂気ゆえで。
「狂気のゆえで」という声に続いて、どこからか、微かに、だが確かに
「狂気ゆえで」と、細い、響くような声が繰り返しているのが聞こえている。
ふたりとも、起ち上がって、新橋では逗子まで乗っていくと述べていたのに、
次の横浜で下りるから、と、ついさっき述べたこととは異なることを言う。
なにもかも、起きてくる事柄の順番が、現実と異なっていて、
たしかに夢のなかは、夢のなかで、
ひと続きであることを拒否して、
あちらへ飛び、こちらへ飛び、
脈絡もなく動いて、
揺らいで、
跳ね返って、
非現実の光を浴びて、燦めいている。
中でも自分でも起きたあとに思い返して、安普請な夢に感じたのは、いつか義理叔父が5年ぶりに戻った日本で、聴いて、思わず顔を覆って泣きそうになったと芝居がかったことを述べていた科白を、老婦人が、そのまま別れの挨拶として述べたことで、
絣の、小さな小さな、薄い、痩せた身体を折って、
「お名残惜しゅう御座いますが、私どもは、ここで失礼いたします」
「あなた様も、きっと、ご自愛をなされて、お元気で、健やかに過ごされますように」
と不思議な言辞を述べて、いつまでも、名残おしそうに、去りがたそうにしながら、ホームに下りて行った。
さて、いまのふたりは、ほんとうは誰であったのだろう、と、ぼんやり考えていると、
通路を通りかかった、1930年代のものに見える三つ揃いを着た、丸ノ内の会社の社員然とした、丸眼鏡の中年の紳士が、
「ああ、あのふたりはね、あなた、悪霊なのですよ」
と唐突に話しかけてきて、
え? どういう意味ですか?
と問うと、それには直截の返答もせずに、
「何度も酷い目に遭った。
南洋で眠る友人たちも、
九段で眠る友人たちも、
大気のなかに、言霊となって融けこんでしまったひとびとも、
酷い目に遭って、おかげで、自分たちがやってきた数々の悪業は忘れて、ただきみたちの蔑みの眼差しだけを記憶に刻みつけて来た」と放心したように呟いている
気が付くと、車輌は、50年代の三等車輌で、床を清掃するのに使うのでしょう、嫌な油の臭いがして、
なぜか、みなが、こちらを見て、黙って、ぼくを見つめている。
ああ、そうか、この人たちは、もうみんな亡くなっているのだな、と、やっと気が付いたところで、目が覚めた。
目は覚めたのに、起き抜けの、ぼんやりとした頭の暗がりのなかには、焼け落ちた駅舎の前を、まだ影のようにひとびとが歩いていて、
ある人は片足がなく、
ある人は顔の半分が焼けただれていて、
髪が焼けて、頭の皮膚が剥がれて、白い頭蓋が見えている人もいる。
眼窩から眼球が飛び出して、垂れている人までいるのに、
どの人も、唇を引き締めて、ひとつの方向に向かって一心に歩いている。
待ってください、そちらに行くと崖です。あなた方は、みな崖から飛び降りようというのですか、と言ってみるが、もちろん誰ひとり、こちらを見てくれる人はいなかった。
西に向かっている。
ぼくの日本は、救い難く古い日本で、なにしろ日本語自体が、明治時代に書かれた本から汲み上げた言葉が、ほとんどで、新しくとも、せいぜい戦後の現代詩で、60年代か、どんなに後でも、70年代のものなので、
西の空があって、
蜻蛉が飛んでいて、
見渡す限りのススキの原に、
レインコートを着て、ポケットに手を突っ込んで、少しだけ前屈みになった
風に髪をかき乱されながら、背の高い男の人が歩いている。
至るところに水があって、
水があって、
銀座ですら、数寄屋橋から築地に向かって、
水がゆったりと流れていて、
東京は水の都で、
その掘や川の美しい河岸を
柳の木が縁取っている。
ぼくの祖国の柳とは異なる、
ほっそりとして、いまにも折れてしまいそうで、
やさしい姿の、柳の木が、どこまでも続いていて、
遠くには、霧がかかったように白濁した空気の向こうに、赤い、屋台の提灯が見えている。
あんなに遠くにあるのに、盃を傾ける赤ら顔の中年の男の顔が見えて、自分の父親が死んだときの様子を話しているのが聞こえているのは、どういう訳なのか。
ごろんと、曲がった木の、捩れた幹のように、蒲団のうえに転がっていて、
子供のような小さな性器で、口は、半開きに、少しだけ開いていた。
急に、判ったことがある。
ああ、ここだ。
ぼくは、一度、ここに、来た事がある
やっと戻ってきた。
どのくらい歩いたのだろう。
もう、15年が過ぎている。
日本語は、草木(そうもく)の言葉で、まるで風が囁くように、耳朶に触れて、耳殻に心地よく、空気の微かな振動を伝える。
もう、いいですか?
ここまでで、許してもらえますか?
ほんとうは、もっと遠くまで行きたかったが、もうぼくには力が残っていない。
きみの言葉が、どうしても聞こえない。
唇が動いているのは判るのに、何を訴えているか、もう判らなくなってしまった。
雲の下の、どこか、遠くから怒号が聞こえて、やはり遠い、異なるところから痛みを呪う叫び声が洩れて、憎しみあう言葉が、伝える意志ももたず、ただ暴力のように正しさを競っている。
それはもう言葉とは呼びうるものでなかった。
それはもう、かつてのやさしい姿を失っていた。
あれほど美しかった言葉の、変わり果てた、醜い姿を、ぼくには、もう、見つめ続けている勇気がない。
いつのまにか、中天から、真っ逆さまに墜落する肉体になって、あなたは自分が叩きつけられる地面を見ている。
ぼくは四階建てのアパートの、屋上の端に腰掛けて、頬杖をついて、落下する、重力を一身に背負って地面に叩きつけられて血の海を広げてゆく、一千の若者たちを、眺めている。
こんなことになるなんて、15年前には、誰に想像できただろう?
きみの言葉を学ばなければ、こんなに深い、痛みのあまり、痛覚さえ麻痺した、きみの絶望も知らないですんだのに、
もうきみの血のなかに分け入ってしまって、ぼくの言葉は、きみの流す血で、びっしょり濡れて、
ぬぐいようもない。
どうすればいい?
いったい、ぼくには、きみに、別れを告げる勇気があるのか?
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最初の記事は布団の中で夢うつつで読んだからなのか、本当に夢を見ているような記憶だったけど、2度目のこの記事もまた良かった。
劇中劇のようのかな、夢中夢と言うのかな?美しいような儚いような景色を見た気分。
会ったことはない戦死したとされる祖父もきっとこの列車に乗っていた事でしょう。
「千と千尋の神隠し」って
「Spirited Away」つーんや。
へぇえ😲❗️
言霊達が列をなして
身投げしようとしてるの、
怖い・・・
美しく、流るる水が必要だよ。
冬の情景を描写した部分は美しいです。読んでいて情景を思い浮かべる
すごいものを読んだな。
と思ってラップトップを開いたけど、しばらくキーを打てずにいる。
そこは、僕たちが知らない場所だ。ガメさんは随分遠くに行ったんだね。
ちがうな。遠く、では言い表せない遠さ。
夢から夢に跨ぎ歩いた先に、ようやくたどりつくようなどこか。
死んだ後に見る夢で、生まれる前に完了している、後悔。(あぁ、その言葉を選ぶのか自分は。)
知っているけど、知らないんだよ。知っているような気がするだけで、本当は書き割りのようなドラマ仕立ての紙芝居でしか知らない日本。
だけど、僕が4歳のときに死んだ祖父の匂いがする。陸軍の兵隊として北支に行って、病を得て除隊して、それから世田谷の小さな家と畑から決して出ようとしなかった祖父。天皇は随分と小さい人だったよと僕の母に向かって静かに笑って話した祖父。祖父の飲むキリンラガーの匂いが好きだった。
鎮魂されないままの魂は、今はどこにいるんだろう?僕たちはもう鎮魂の作法を忘れ去ってしまった。
今はただ、雲下の雷鳴だけが聞こえる。
ガメさん。日本語はあなたに出会えて嬉しかっただろうと思うよ。