Gloriousという。
いちどだけ全裸で大通りを歩く人間を見たことがある。
フットボールの競技場に塀を越えて飛び込んで、どんな場合でも滑稽にしか見えない例の男ヴァージョンの性器を激しく上下左右に振りながら全力で走り抜けるぶざまで物好きな若い男みたいに走っていたわけではないんだよ。
シドニーにKings Crossっていうところがあるんだけどね。
午前零時をまわった繁華街の舗道を向こうから回りの男達より頭ひとつ背が高い女の人がこちらに向かって歩いてきた。
トレンチコートを羽織っていてね。
踵のたかい銀色のstilettoを履いているひとだった。
ところが近付いてきたその美しい容貌の女の人を見たらトレンチコートの下は何も着ていない。
おまけに十メートルくらい手前になったら、コートを後に残して脱ぎすててしまって、stilettoをはいているだけになった。
もう少し精確にいうと、ダイアモンドあるいはダイアモンド風のネックレスとネックレスとデザインがあっているイヤリング。
宝石とstilettos.
非現実的な光景だった。
おまけに、ここがとっても重要なのだと強調したいが、周りの男達も、あまりのことに、まるで気が付いていないかのようで、びっくりして振り向いている人はいるが、あれほど美しい人が一糸まとわずに歩いているのに、マヌケなからかいを述べる若い男も、口笛も鳴らなくて、いま書いていて気が付いたが、あの女の人は少なくとも元はファッションモデルであったか、その訓練を受けたことがあるのに違いなくて、キャットウォークを職業的に颯爽と歩く人のように歩いてきて、すれちがうときに、はっきりとぼくの顔を見て、目を覗き込むようにして
Deus te benedicat.
と述べた。
笑うなよ。
その女の人は、たしかにそう告げて歩いて去っていったんだよ。
次の日会った大叔父に、その話をしたら、「あの辺はコールガールが多いから、麻薬をやりすぎてハイになった売春婦だったのかもしれないね」と感想を述べていたが、大叔父は物理学者で、物理学者らしく世界を説明するのがいつも下手で勘も手際も悪い人なので、まったくあてにならない。
きみは、どうおもったのかって?
初めに書いたでしょう?
あまりに美しい人だったのでGloriousという単語が感想のすべてで、視覚的な記憶は細部に至るまでいまでも残っているが、リアリティのかけらもない、というよりも地上性のかけらもない出来事の視覚記憶に圧倒されて、言語的な感想はもちようがなかった。
ただ、その出来事に出会ってから、ぼくの頭はえらくまともになって、世界が明然と見えるようになった。
世界がキンッと冷えてるんだ。
硬度が増して、
分解能がいちだんあがったCCD/CMOSみたいに輪郭も色彩もシャープになって、現実がぼんやりとしたものではなくなった。
多分、ぼくの退屈はそこから始まったのだとおもう。
過去の自分の姿がおもいうかぶときに横から見た姿がおもいうかぶのは、どんな場合でも悪い徴候なのだけど。
冬で、氷のような細かい雨が降っていて、ぼくはヴィクトリアパークというクライストチャーチの南の丘陵にある公園の小高い岡に立っている。
ぼくは正しいことを言う人間が好きじゃないんだ。
正しいことを述べる人間に相槌を打つ人間に至っては、耐えがたいほど嫌いであるとおもう。
なぜかって?
簡単なことだよ。
そういう人間はうんざりするくらい退屈だからさ。
2ユーロ硬貨をいれると正しい答えが奥から押し出されて取り出し口からコロンと出てくる「賢者」ほど世の中にくだらないものはない。
ぼくは生まれてからこの世界がずっと嫌いだった。
きみはほんとうに努力すれば立派な人間になれるとおもうかい?
自分を十分に訓練すれば、初心者の頃には足をかけることすら思いも寄らなかった何百メートルにもわたって切り立ったあの垂直な崖を登攀できるようになるだろうか。
自分を抑えつけるようにして、学問的好奇心と興味にかろうじて起ち上がりたい気持を宥められて、いつのまにか鳥の声が聞こえ始める朝方まで本を読み耽る毎日を繰り返せば、ザイルやハーケンの使い方になれて、頂点がめざせるようになるだろうか。
よろしい。
そういうことがありうるとして、それはそれとして、では、きみの遙か先を面白半分のような軽い身のこなしで、するすると登っていくあの人は誰なのか?
その人が踏みにじった頂上にずっと遅れてたどりついて、一面の雲海を照らし出す神々しい日の出に跪いて神に感謝するきみがやっていることの意味はなにか?
いったい、きみが祈っている神は、彼が祝福された神とおなじ神なのか?
なにを言っているのか判らないふりをしてもダメだよ。
ぼくはもうずっと前から、少なくとも日本語では、「いつか、どこかで」という記事
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/
に書いた自分とおなじ種族に対してしか話しかけないことにしているし、その記事に書いたように、ぼくにはきみがぼくの話す言葉のひとことひとことまで判っているのを知っている。
もう、すっかり知っているんだよ。
ぼくは生まれてからずっとこの世界が嫌いだった。
分かれ道に立って、きみは右へ行くか左へ行くか思い悩んで、懸命に考えて、あらゆる理性の能力を動員して、右の道を選ぶ。
でも、ほんとうは、右に曲がることは、潜在意識が夢の機能と時間を借りたりして、ずっと準備をすすめていて、きみの「決断」とは何の関係もない。
認識は錯覚にしかすぎない。
Alfred JarryのLe Surmâle(「超男性」)は、超特急列車の前を、なんだかのんびりこいでいる(そして超特急よりも遙かに速く走ってゆく)自転車乗りの赤い薔薇から始まるが、それは凡庸を説明する一枚の現実の写実画であるにすぎない。
ぼくがこの世界が嫌いなのはそうやってすべてが潜在的に予定されているからなのさ。
成功も失敗も初めから定まってそこにある。
過去のヴィクトリアパークでは、記憶のなかのぼくがこちらを向く。
びっくりしたでしょう?
こちらを向いて正面から見ると、過去のぼくは三次元の像ですらなくて、そこには何もない。
おずおずとためらいがちに見えた、過去のぼくの動作は、重ねられた後景の世界とは時間の流れが異なるからにすぎない。
Alfred JarryのLe Surmâleに倣っていえば、この世界はぼくらに対して仕掛けられた「愛情を吹きこむ機械」だが、きみとぼくの全裸の魂は、胸を張って、この世界を堂々と歩ききってしまわなければならない。
きみとぼくの言葉と音楽が、逆に世界に向かって愛情を吹きこんで、この世界を破壊しつくしてしまうまで。
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