水の映像

 

この記事は2011年3月13日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5 」に掲載された記事の再掲載です

 

 

CNNで見た内陸に向かって速やかに広がるツナミの映像が頭から去ってくれないので、嫌気がさして、
CBDのシビックシアターにThe Manganiyar seduction
を観に行った。

あの殆ど滑らかにすらみえる水の広がり、やすやすと内陸をめざして広がってゆく水の広がりの下で何百あるいは何千という人間が自然の力で殺されてしまったのだ。
レポーターの声も泣いていたが、観ている人はみなあまりのことにショックを受けて押し黙ったままだった。

ツイッタでクライストチャーチの地震を観て、「災害など、もともと観る側にとっては、ただの楽しむためのショーである」とわざわざ言いに来た日本人がいたが、ああいう人にとっては、破壊がこれほど大がかりになれば、ますます興奮させられるショーだったのかもしれないが。

日本にいて日本語が出来ない友人たちのためにフォーラムの一部を開放した。
日本語情報をチェックしてメールでの質問に答える。
医者の友人達が加わり、地震の専門家の友人が加わり、…というふうに、あっというまに、いつもは悪態をつくのが専門の友人達が、あまり馴染みのない名前の(わしの)友人達の質問に答えている。
あっというまに知識ということに関しては無限にパーであるわしなどは不要になってしまう。

電話がかかってくれば、それに応える。
しかし、電話のほうは、もともと大した危険のなかった東京の友人が多かった。
たいへんだった、たいへんだった、と言いながら、よく訊いてみると電車がなくなったのをよいことに、そのヘンの浮浪者のおっちゃんや名も知らぬ女や男の会社員たちと酒盛りをしていたのであって、「たいへん」なのは二日酔いの頭痛らしかったりした。

言葉が出来ない国での災害は、ひどい孤立感に悩まされる。
お腹に子供がいるイギリス人の女の友達は、東京にいるが、風向きが変わっても大丈夫か、という。
むろん原子力発電所の事故のことを訊いているのだろう。
当座は30キロ以上離れていればとりあえずは大丈夫と思う、と答えたが、未来の母親としては何百キロ離れても、ほんとうは不安だろう。

実際、しばらく考えているようすだったが、「交通渋滞がひどいが南にいけるだけいってみる」と言っていた。

そういうことがあったあとで、モニとふたりで The Manganiyar seductionに行った。

The Manganiyar seductionは、北インド、Jaisalmar, Barmer, それにJodhpurがあるTharの砂漠地帯のムスリムたちのビッグバンドが演じるパフォーマンスで、
その中休みなし90分の、パワフルで圧倒的な演奏は楽しいものだった。
誰でも知っているとおり、北インドの人々は中東や近東、トルコや、最近ではアフリカの人々ととも音楽世界を共有しているが、
西洋の音楽とはまったく異なるが素晴らしい構成力、機知、太古の文明がもっていた感情に現代人を力ずくで引き込む力において、畏怖すべきものがあると思う。

なんの脈絡もないことだが、The Manganiyar seductionの砂漠のにおいのする音楽に身を任せているあいだじゅう、わしはニュージーランドと日本の地震のことを考えていた。
しかし、今度はそれは頭にこびりついて離れない、いわば慢性のべっとりとした残酷性として思い浮かべられていたのではなくて、音楽によって、脳細胞の別の領域から喚起された、別の方角からやってきた悲哀として思い出されたもののようでした。

あの巨大な津波、
あれほどの圧倒的な暴力は神がもし存在するものならば、神の「意志」によって起こされたものでなければならないが、現代人であるわれわれはすでに神には「復讐」や「懲罰」という感情をもつ能力が欠落しているのを知っている。
言語というものを調べていってだんだんに判ることは、旧約や新約を書いた言語の構造では神が成り立たない、ということにつきている。
無限、ということについてちゃんと考えられない言語に神が関わりをもつとは到底かんがえられないからです。

同様に思惟の自立性ということにおいては人間の一個一個が宇宙と等価であるのでなければ、神の事業はうまくいかないが、そのひとりひとりの人間をあっさり殺戮してしまう暴力の棍棒をもっている事には、神の側に盲目な暴力をもつ必然性があるのでなければならない。

それはあくまで無慈悲、あくまで残酷を極める意志だが、人間の側からつくられた言葉の事情を修正して考えれば、当然であるともいえる。
人間のほうから見て、神というものがいかに自然そのものに近い馬鹿者としてしか扱いがたいか、というそれだけの事である。

The Manganiyar seductionのアンコールは、43人のバンドのなかでただひとりのヒンズーの奏者のために、みなが奏でるヒンズーの曲だった。

Slumdog Millionaire

http://www.imdb.com/title/tt1010048/

の冒頭に、ムスリム達がヒンズーの集落を集団で襲撃して、殴られた主人公の母親が絶命するところがあるが、インドの国内での二宗教の抗争は深刻きわまりない。
ところが、音楽を仲介にして、いわば思考を暫時停止することによって、The Manganiyar seductionの面々は、ただひとりのヒンズー音楽家を労り、28人が「カーン」という名前のムスリム達を引き連れて合衆国に入国し、「敵対する神の国」を旅行することの困難を笑い飛ばしてきた。

それが人間の側にとっては、どれほど重要なことであるか。
あるいは、開演の前に、モニとわしは劇場のバーでワインを飲んでいたが、
中年夫婦がくれば、わしはわしらのテーブルの席をさして「Help yourself! 」ともちろん言う。

夫婦が、ちょっと迷って、はにかんだように礼を言いながらテーブルの向かい側にかければ、わしらは、天気の話やインドの話をする。
劇場の美しいインド的装飾の話もします。

いままでも、ずっと見てきたように、神にとっては人間の思弁や叡知よりも、そういう無意味な親切や偽善と言われればひとたまりもないかもしれない思いやりのほうが、ずっと「こたえる」に違いない。

神が人間の愚かさによって混乱させられる一瞬なのだと思います。



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