この記事は2012年2月14日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です
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日本語ツイッタを広げてなにか書いていると、ほかのことを述べようと思っても、いつのまにか福島の子供のことになってしまうので自分で書いていても退屈である。
おおげさに言うと「見えざる手」がわしの手をつかんで書かせているような具合で、今日の午餐の話をしていても手はいつのまにか福島の子供はなんでまだ福島のいるのか誰かおせーてくれ、というような発言になってしまうので、読む方もさぞかしうんざりであるに違いない。
この世界には嫌がどうでも核のエネルギーのものは断固廃絶すべきだというひとはたくさんいて、わしの友達にもいっぱいいます。
「あぶないじゃないか」という至極まっとうな立場に立って意見を述べている。
自分でも「危ない人」なのではないかと思うが、わしはもともと核アレルギーというタイプの考えはない。
具体的には核融合
http://en.wikipedia.org/wiki/Nuclear_fusion
という反応がケーハクにも「好き」なのであって、生きているあいだにどういう形でか、これが人間の手で完全にコントロールできるようにならないだろーか、と考える。
そういう非人間的で至極ケーハクな立場からは遅延核分裂の制御などは系がいくら複雑でも屋上に屋を架したバカ複雑さとしかみえない退屈なクソ技術であって、あんな面白くもなんともないものを膨大な時間を費やしてベンキョーするやつがいるなんて信じらんねー、自分はなにしろ紙と鉛筆があれば事足りる理学分野にしか興味がないが、工学をやるんだったら、たとえばコンピュータと人間のインターフェースとかのほうがよほどおもしろかるべし、と考えて高校生時代を送っていた。
別に科学の素養などなくても、ほんの少し勉強すれば、いまの世代の原発になどちょっとの未来の可能性もなくて、チョー簡単に言えばトロ火にした核爆弾でバカでかいヤカンのお湯を沸かせて、その水蒸気で羽根をくるくるまわして発電する、といういまの原発は贔屓目に見てもコショクソーゼンとした技術である。
歴史的にも福島第一のマークIは60年代の工業製品で、それがどのくらい古くさいかピンとこなければ、60年代の技術の最先端であった飛行機や自動車の写真を見てみる、というようなことが、あるいは実感をもってどのくらいの頃の技術かを感覚するには良いかも知れない。
Morris 1100
http://www.australiaforeveryone.com.au/world/bad_morris1100.htm
トヨペットクラウン RS41(2代目クラウン)
http://toyopetrs40.shisyou.com/003.html
YS11
http://www.jac.co.jp/entertainment/aircraft_ys11.html
しかも、これも日本ではもう随分しられたことになってしまったが、いまの世代の原子力発電技術では増殖炉が稼働しなければ、石油よりも遙かに資源としての寿命が短い。
わしが高校生のとき、教師が日本ではまだフェニックス型増殖炉の「もんじゅ」を動かしているというので、ぶっとんだが、連続運転すればほぼ確実に「ポン」になってしまうと思われる、あまりにアブナイので言い出しっぺのフランス人さえあきらめたフェニックス型を、むきになって動かそうとしているのは、増殖炉が動かないと認めてしまうと、ウランのほうが石油よりも資源としてはやく尽きてしまって、エネルギー政策として「石油がたりなくなるからやってんだ」という話のつじつまがあわなくなってしまうからに違いない。
わしらは、というのは、わしとガッコ友達は、「もんじゅ」はいつかぶっとぶだろう、と思っていた。もしかしたら削除した記事のなかかもしれないが、多分、この日本語ブログのなかにもどこかに「もんじゅ」の話が出てくると思います。
意外とぶっとばない、というか、いまウエブで見てみると、あんまり動かしてないよーなので、そのせいなのかもしれないが、意外にも「もんじゅ」はぶっとばないまま推移して、津波という(わしの日本の災害種類への想像力が著しく欠落したアタマでは)予想もしなかった災害で福島第一が崩壊してしまった。
ひとの国のことだから、という意識があったとは思いたくないが、思えば無責任なもので、わしも友達も「もんじゅ」はぶっとぶであろう、と思いながら、別に日本にでかけていって反対運動をするわけでもなく、ときどき頭のどこかで思い出しては「まだ、ぶっとばないんだな」と考えて、へえ、と考えていたりしたのだから、たしかに人間には無関心という悪魔が住んでいるのである。
2
何ミリシーベルトなら大丈夫だ、いやダメだ、と日本の人が言い出したときに、どうなってるんだろう、これは、と考えて友達にどう思うか訊いたりしていたのは、ちょうどマンハッタンにいた頃のことだった。
よく訳がわからず、未来における影響がわからないが、むかしから危険きわまりない、とされている災厄が起きたときに「数字」で考えようとする、というのは、ものすごく変わっていて、しかも興味深い反応である。
しかもわしが立っている所から見ると全体が的外れの理屈の遊びにしか過ぎない。
福島第一の事故の直後、外国人のみならず、外国にながいあいだ住んでいる日本人も、「逃げろ!逃げろ!」とツイッタやなんかで叫んでいたのをおぼえているが、英語人の反応は簡単に想像がついて、まず一目散に逃げて、自分の体力やオカネが許す限り遠くまで逃げるだろう。
実際、福島第一事故のあと、英語世界のテレビや新聞のインタビューにこたえたり、英語人のフォーラムで語られたりした事例をみると、速報を聞いて、いきなり自転車に乗ったまま、途中野宿をして関東まで逃げ、そのまま飛行機に乗って逃れたひとや、たったひとり警報を信じて屋上に走ってあがり(前の日に津波警報があったが津波が実際には来なかったせいだという。なんというたちのわるい偶然だろう)津波がひいたあと、やはりシドニーまで何も考えずにまっすぐ「とりあえず」帰った女のひと、歩いて西へ西へと逃げたひと、日本人風の定義をすると「パニック」で逃げたひとばかりであって、外国人は数字に弱いという日本人の信念はほんとうであるのがわかります、というのは冗談だが、とりあえず逃げてから考える、というディアブロ必勝法と同じ定石に従って英語人は行動する、ということを今回も見事に証明したのでした。
「とりあえず逃げた」と書いたが、そのあとに情勢を検討して、日本政府のいうことを信用すべきだと考えて戻ったひともたくさんとは言えないが、少しはいた。
例をとるとアメリカ人は実際大使館が送ってよこすeメールに「日本政府が提供する情報に従って行動するように」と途中から書きだしたので、それじゃ、まあ、日本政府のいうことを信じればいいのだろう、と考えて戻った人が多かった。
まず一目散に逃げる、ということをしないので、「日本のひとだなあ」と考えて驚いたが、そのあと被災地域に残っているひとたちについては、そりゃまあ、そうだろう、と思っていた。
わしの個人の考えとしては東京くらいの地表・食べ物の汚染でも、そこに住んでいるなんてとんでもねえ、と思うが、政府が大丈夫だと言っているのだから、たとえば福島県人にほかになにが出来るだろう。
大昇進して福島支店に赴任したばかりの支店長のおっちゃんは、仕事を捨て家族の生活を捨てて家ぐるみ九州に越す、というコンジョがでるだろうか、と考えると、わしなら出ない。
固有のわし反応は、いきなりダッシュで地の果てまで逃げて、はあはあ言いながら振り返って、「あー、こわかった」をしているうちに会社の逆鱗にふれてクビ、家族と一緒に路頭に迷うことになると思われるが、それはわしが人生に対して投げやりな人間なわりに生命の危険に敏感だからで、いま考えているのは人生に真剣で生命の危険に無頓着な人を前提しているのだから、そういう根性には出場の機会がない。
日本政府は、だから、強権を発動して、鬼になって、福島県をからっぽにすべきだった。
県民が泣こうがわめこうが、おれは福島を愛しているんだと絶叫しながら警官に詰め寄るひとが大量にあらわれようが、断固として汚染地域を封鎖して無人の荒土をつくるべきだった。
東北人の憎悪を一身にあびて日本中の国民のたたきつけるような罵りをうけとめるべきだった。
それが出来るから「国権国家」は機能しているのであって、それが出来ないのは「国家みたいなもの」であるとしか言いようがない。
むかし天皇現人神主義に国を挙げてかぶれていたときの後遺症がまた出てしまったのかもしれません。
3
科学者たちの「放射能を怖がる人達の言う事は科学的でない」という宣伝については、もう、頭から判らなかった。
そもそも、なんで放射能をこわがるのに「科学的」でなければいけないのかが、根がバカなガイジンには理解ができない。
わしなどは日本に住む日本人であれば、さぞかしバカにされただろう、と考えたのは、「そんなことゆわれたって、こわいもんはこわいよ」と言っていたに決まっているからで、かっこうの餌食、というか、ネギさんを抱えて座っている鴨というか、「なにを根拠にそんなことを言うのか?」
「出典はどこにあるのか?」「証拠は?」「科学的な証明は?」
「どんな理論を元にそんな悪意にみちたことを言うのか?」
と、またあのおっかない「はてな市民」のみなさんや小説家の御一党や、むかしなつかしい2ch「おれたちゃ、排外団、ガイジン大嫌い、ヤッホイホイノホイ」だった集団がいっぺんにまとめて再襲来して、うんとこさイジメられたに違いない。
日本人と仮定しているのに排外団にいじめられるのは理屈が通らないが、そのくらいの理屈はあれだけ訳のわかんない理屈や「事実」をこねあげられるひとびとなのだから、余程あたまがよいのに違いなくて、あっちに頼んだほうがよいと思う。
あんまりこねる気もしない理屈の初歩だけを述べると、こういう場合、わしの「常識」ではその辺で科学なんかに興味がないからもっとまっとうな職業について人生を送っているひとびとが「こええ」とゆっているときに科学者が「こわがるな」と言いたければ科学者のほうで「絶対に安全である」ことを証明すべきなので、その「科学的証明」に権威づけをしたければ、「万が一、あなたの子供が放射能のせいで死んだら、われわれはラボアジェのようにギロチンの露と消えてもよいであろう」と述べるのが良いと思う。
科学者などというものは、通常の人間世界の常識からすればやくざそのものであって、つい数年前までは、すごおおおく自信に満ちて、黒板や白板を背にして友達が全部うんざりしていなくなりそーなエラソーな顔をして「我が輩の発見によればAはMなんだからね」とゆっていたのが、その次に壇上に立ったところを見にいってみると、「はっはっは。間違えた。AがMなのではなくて、Aに性質として付随したものがMと必ず相関して起こるZという現象を引き起こすのだった。AはMちゃいますねん。わりいわりい」とゆっているなんていうのは年がら年中のろくでもない人達だからです。
しかも間近な観察によると、科学に志す人間はどうも初等教育における「ホームルーム」とか「道徳」とか「倫理」みたいな諸国であまねく行われている授業は全部眠ってやりすごしていたのだと思われる人間ばかりである。
あんまり、大学の外で放し飼いにしていて良いような人間の集合ではありません。
しかも、特に優秀な部分はだいたい税金で食っていて、やってる研究は世の中の役には立たない、税金ムダにしてナンボの商売じゃ、という特徴ももっている。
日本人は、この先、いっぱい死んでしまうかも知れないし、案外大丈夫で、20年くらいしても、みながピンピンしてるかも知れないが、「なんだかよくわかんねーひとたちだなあー」という印象は消えないものとして残ることになった。
残ることになった、といってもアニメならともかく、日本という距離的にも気分的にも遠い国に興味がある人間など殆どいないので、言い直すと、これから先、日本についてベンキョーしたりする人間はみな「フクシマ」のところにくると、理解が挫折して、ゲゲゲゲゲッ! ゲッ?になると思われる。
4
ここからあとは、小さい、聞こえにくい声で書かねばならないが、福島県にまで子供が居残っているというのを発見して、後世の人は憤慨する、というよりは、不思議に思うだろう。
そう考えないと国の経済がたちいかなくなるという理由から「放射能は、ほとんど大丈夫」と決めた日本の政府ですら、「相当危ない」と考えている地域に子供がたくさんいて、校庭で走り回っている。
東北のひとがマンガで日記をつけているのを眺めていたら、ふたりづれの小学生が
「ねえ、わたしおもうんだけど」
「?」
「放射能、放射能って言うけど、見えないんだから、やっぱり無いんだよねえー」と言い合っているのに行きあって、
「きみたち、甘い」と心のなかでつぶやく母親が出てきたが、
考えてみればあたりまえ、親を困惑させないために子供も知らないふりをしているだけで、自分達の身の上に何が起きているかよく知っている訳である。
言葉の上だけでも安心したいのは子供も同じだろう。
わしのバカガイジン常識…あるいは前回の記事で述べたようにニセガイジン常識でも構わないが…によれば、いまオトナである日本のひとは歴史上、アウシュビッツ収容所をつくったナチを支持した当時のドイツ人と同列に扱われるであろうと思う。
戦争がおわってみるとユダヤ人収容所について「わたしは知らなかった」というドイツ人が殆どだったことはアメリカ兵たちを怒らせ、ロシア兵たちに強姦や殺人の恰好の口実を与えたが、少なくとも日本では、弱々しくか細い、「聞き取りにくい声」で、「わたしは、そんなことはおかしいとおもう」と述べる人がいたことはやや異なる。
しかし、(そういう言い方をすれば)「自分達の子供」を、死ぬかどうか観察実験するための実験動物に仕立てて、その結果を外国人研究者たちが心待ちにしている、という絵柄は歴史のなかでも前代未聞で、こんなものすごい残虐と無責任をリアルタイムで目撃することになるとは思わなかった。
きっと政府のなかには、あああー、またこの先、「非人道的だった。悪魔の所業だ」とかエラソな外国人に迫られて謝ることになるのか、鬱陶しい、おれんとこのガキのことなんだから、おめーに口だしされる謂われはねえーよ、と思っている人が何人かいるに違いない。
欧州人の文明なんか、インディオやアフリカ人をぶち殺して出来た立派な墓石みてーなもんじゃねーか。おめーらの歴史のどこが人道的なんだよ、まったく。
日本は日本の道をゆくのだ。
ひとつの社会の文化なり文明というものは社会が緊張した事態にいきあたると特異的に突出・強調された姿で特徴があらわれる。
日本の場合は、社会の構成員ひとりひとりが「社会の部品」にしかすぎない、あるいは「部品」として機能してくれないと社会として成り立ってゆけないという強迫観念があることが、おもいがけない形で強調されてしまった。
福島県人がそこで育ったなつかしい故郷の土地に執着したり、たくさんの日本人が頭のどこかで微かには鳴っているに違いない「やはり危険なのではないか」という生存本能が出している信号に逆らってひたすらな善意でボランティアで瓦礫を片付けに東北にでかけたりすることは、皮肉なことに、政府の思うつぼ、では言葉の趣味が悪いだろうか、結局は天皇のあとに経済を「国というものの実体」にすえてやってきた得体の知れない「日本」という全体が生き延びることに賛同している。
そうして、その歴史のダイナミズムを生き残ってきた「日本」という何かは、いま福島県の子供がまさに実験動物としての役割を担わされているように、あるいは「放射能は安全か安全でないか」という日本が「安全」のほうに有り金を全部賭けた賭けのテーブルにおかれたチップの象徴の役割を担わされているように、歴史上、個々の成員である個人の生命や幸福など一顧だにしたことがない。
日本が敗北した1945年に終わった戦争のときもそうだったが、社会が破滅的な誤りを犯すときには、原動力はつねに個人の善意であり、被害にあったものを傷む気持ちであり、国の中で自分の愛するものを守らねばならない、という強い決心である。
神様なのか枚挙して要素を並べて違いの影響を俯瞰するにはお互いに影響しあう事象の数がおおすぎる「社会」というものの複雑でほどけない糸のからまるのような力なのかは判らないが、破滅に向かわせるときには意地でも破滅に向かわせる、というようななんだか訳のわからない「暗い意志」を感じることがある。
否が応でもお前達を滅ぼしてやる、という強い意志を感じることがあるが、その「お前達を滅ぼしてやる」と底冷えのする声で述べているものの相貌をよく見つめてみると、自分が自己を犠牲にして支えていこうと思っている当の「全体」である、というのは非常識にみえて、歴史にはいくらもころがっている「常識」であることをつけくわえておきたいと考えました。
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