この記事は2011年5月27日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です
1
人間の頭のスイッチの入り方というのは、訳がわからない、というか脈絡がない、というかなんのこっちゃというか、不明なスタートの仕方をする。
「War Horse」という芝居のことを考えていたら、いつのまにか戦争のあれこれを考えることになってリデル・ハートのことを考えていたはずなのに、日本式居酒屋の前を通って日本語も見た瞬間に、考えは、突然、「セシウム137はもしかすると乳腺に滞留するのではないか」という誰かの話にとんでいってしまった。
セシウム療法やチェルノブリでの反芻動物の記録が混線しているのに決まっているとすぐに気がついたが、ナスやもちこはん、優さんやジュラさんや仙台の「とら」さんのことを考えて不安でいてもたってもいられなくなってきてしまう。
うーん、あれは、どこで見た知識だろう、どんな話だったろうとずっと考えていて、午ご飯を食べに行くレストランに着くまで考え込んでしまった。
乳腺に滞留するとすれば成人だって女のひとびとは無事ですむわけがない。
子供の感受性でのみ低放射線障害があらわれる、という話ではなくなってしまうからです。
レストランはラファイエットにある気楽な店であって、いま確かアメリカと連合王国の両方で16週間ヒットチャートのトップを占めているアデルが、マンハッタンにいるときには毎日のようにやってくる店です。ごくごく自然にしていられるひとのようで店のひとにはたいへん評判がよいようだ。
午後3時ともなれば他に客もいないので、顔見知りのアフリカンアメリカンのねーちんウエイトレスと、よもやま話をした。
モニは「ガールズデイ」でお友達とでかけちったのでいないのよ、とか、
21日の「世界の終わりの日」にはどうしていたか、
ユニオンスクエアの近くに出来たノードストロームのアウトレットて、めちゃくちゃ安いんだぜ、
あのワイン店で働いているおじいちゃんはアンディ・ウォーホルの愛人だっっという噂のあるひとなのを知っていたか。
そーゆえば、アンディ・ウォーホルは「Society for Cutting Up Men」を名乗るおばちゃんに銃で撃たれて重傷を負ったことがあった。
「表面だけ見てくれ」とゆったのは、内面は砕け散ったガラスのようにもう残っていない、と感じたからだった。
そういうことを知っているヴィレッジのひとたちがいまも彼をその内面ゆえに愛しているのはなんという皮肉なことだろう。
60ドルの食事にチップをいれて80ドル払って、戸口にもたれかかって葉巻をくわえたねーちゃんが退屈そうに店番をしているギャラリーに寄って帰ってきた。
それは、(多分)微生物のイメージでつくられた極彩色の造形がコンピュータの画面のなかをゆっくり動きまわる、なかなか感じのよい展示であって、値札の25000ドルを払う気はしなかったが、のんびりするには良い展示でした。
「さんきゅ」とゆって店をでかかったが、急におもいついて、
「セシウムって、知ってるかい?」と訊いてみた。
「セシウム? なに、それ、クラブの名前かなにかなの?」
笑うと以外なくらい幼い顔になるねーちゃんは、にっこり笑ってこたえておる。
「雨と一緒にふってくるのさ。たまらないと思わないか。そんなことがあっちゃいけないんだ」
「?」
ねーちゃんは、ひょっとするとこのバカでかいにーちゃんは発狂しているのではないかと思ったに違いない。
まだ、わしを見つめてにっこり微笑しているが、心なしか微笑が凍り付いておる。
「じゃ、またね」というと、やっと安心したように、
「よい午後を」という。
別に信じてくれなくてもよいが、バカわしは涙がでてきそうになるのをこらえるのに苦労した。
雨に濡れる自由すらない国で、これからあの国のひとたちはどうやって生きていくというのだろう。
ガメは涙が出てきそうになると襟を立てる癖があるといつもモニに笑われるが、
このクソ暑い天気じゃ立てる襟もありゃしない。
ちぇっ。
2
帰りに寄った不動産屋でアメリカ人のバカ英語を1時間聞いていたら頭痛がしてきた。
英語の発音から品性というものをいっさい省きとって、10までのボリュームを無理矢理12にまであげるとアメリカ人の「英語」になる。
おまけに「R」用反響型アンプリファイアつきです。
とうてい人間の言語とはおもわれない。
レストランやバーでも、たとえばロンドンのレストランに較べてニューヨークのレストランは店内の「音」が悪い。
ロンドンの低いが明瞭でしっかりした響きが木霊しているような店内に較べて、ニューヨークのレストランは5つ星でも、男達の涎がついていそうな下品極まる「R」や、アメリカの女たちに特有の、どう表現すればいいか、喉の奥で金属製のカエルがクルマに挽き潰されたとでもいうような嫌な音が耳について、わがままが言えるような高級料理屋ではテーブルを変えてもらうこともよくあります。
観察していると、身体が小さい女のひとに、あの「地獄の声」の持ち主は多いようだ。
身体が小さいせいで声帯も短いので、ああいう性質の声をつくらないと合衆国のすさまじい騒音のなかでは声を届かせられないのだと思われる。
美しい女のひとが蝦蟇の群れが喉の奥でいっせいにうがいを始めたような酷い声で、テーブルを囲むひとたちに向かって絶叫しているのを見ていると、アメリカという国は、なにがなし、もの悲しい国であるな、と思えてきます。
わし自身の英語は、この頃は特に「えっ?」と聞き返されることがあるようになってきた。
相手にあわせる親切心がだんだん失せてきたからで、育った環境で使っていた英語がそのまま出てきてしまうことが増えたからでしょう。
アメリカ人の表現によると
「ガメの英語は、なんだか怠け者が投げやりに話しているよーだ」
「単語の頭のほうしかちゃんと発音しない」
「どもってるひとみたいだ」
という。
うるせーんだよ。
あんたらのほうが訛っているので、わしの話している言葉を「英語」というのじゃ。
あんたらが鼻について嫌みっぽく思うアクセントはちゃんと省いて話してやっているではないか。英語の心、米語知らず。
ときどき、嫌味な性格を発揮して、揶揄かうつもりでアメリカ語の下品まるだしのアクセントで話してやると、マジメな顔をして「なんだ、普通にも話せるんじゃないか」とかゆっておる(^^)
言語が腐ると皮肉も通じないもののようである。
ともかく、不動産R男の下品英語の攻勢に耐えて、回転ドアを開けて出てくる頃には、わしはふらふらであった。
マンハッタンは好きだが、ここのひとびとの英語にだけは慣れるのは無理なよーでした。
3
もう二週間もしたら欧州へ移動しなければならない。火山灰を心配してくれるひともいるが、モニとわしは「火山灰が南に降りてきたら、そのままいればいいや」というチョーえーかげんな予定なので、それはどうでもいいのです。
わしはjosicoはんがツイッタで火山灰の話をしているのを読みながら、
「せめて放射性物質も火山灰のように目に見えればいいのに」とヘンなことを考えた。
もうひとりのツイッタ友達の「とら」(@toratanuki1 )さんが、
仙台のうららかな陽に庭石でえばっている自分の家の猫のことを書いている。
あんなうららかな光景に死の影がさしているなんて考えられるわけはないだろう。
フクシマの事故が起きてから一ヶ月は、世界中の人が「逃げろ!」「頼むから逃げて」
「なぜ逃げない」「逃げてから戻るかどうか考えればいいじゃないか」と日本に向かって叫び続けていた。
なぜあれほどの被曝を受け続けながら汚染された町に居座っているのか理解できない、と考えた。
しかし、想像力を働かせてみれば、いつもと同じ風景の何も変わらない穏やかな住み慣れた町にいるのに、「逃げろ」とゆわれても、ピンとくるはずがない。
セシウムやストロンチウムの同位体がせめて火山灰のようなものであれば、窓を閉めきっていてさえ見る見るうちに室内に堆積する「汚染」に怖じけをふるって、あるいは嫌気がさして、その場合にはたとえ無害でも逃げ出したことでしょう。
人間もまた自然の一部なので、自然の世界の事象には「勘」というものが働く。
泥水色の濁水は「飲んでもダイジョーブです」とゆわれても、なかなか飲めるものではない。
クルマの表面も干した洗濯物にも肌にもシャツにも髪の毛にも、しつこくしつこくまとわりついてくる放射性物質が目に見える汚れならば、言われなくても遠くの町に行ったのかもしれません。
勘が働かない、ということは防御の姿勢がとれない、ということでもある。
目に見えないものを「危険だ」とゆわれるのも「安全だ」とゆわれるのも、どっちも人間にとっては「実感が湧かない」点では同じで当たり前である。
どちらよりに考えても起きる実感が同じならば、いままでどおりの方が楽でもあれば「安全」でもあると考えるのは当然のなりゆきなのかもしれません。
まして、ただでさえ日本では絶対に信頼できる存在の「おかみ」が「安全だ、安全だ」とデマを流し続けているのだから、国民の義務として自分の直感を偽るというほうが安心も出来るでしょう。
家に戻って、インターネットで見てみると、過去にはセシウム137が乳腺に蓄積されて乳癌を発症したという確かな例は一例も見つからなくて、少しほっとしました。
こんな特殊な症例に過去例がないからといって安心するのはバカげているが、あるよりもないほうがよいに決まっている。
ほっとして、コンピュータを閉じてから、日本の人には「雨に濡れる自由」すらないのか、と考えて壁をなぐりたい気持ちになった。
ウソツキどもめ。
恥知らずめ、と思うが、世界中に縦横に張り巡らされた「原子力村」ネットワークの長(おさ)役たちは、日本の人たちの健康を犠牲にして「そういえば、そんな事故がありましたな」とでもいうような穏やかな顔をつくってみせるだろう。
あれほど巨大な事故が、日本という国への心理的距離と自分達の使命として課せられたオカネ稼ぎの思惑でほぼなかったことにされてしまう。
それが日本の政府にとっても「彼ら」にとっても利益だからです。
前に、友達のもちこはんが「ガメさは、傘ささないのか?」と訊いていたことがあったが、もちこはん、わし、もうどこにいても傘さすのはやめました。
ニュージーランドにいるときに限らず、あのドキタナイ空気のバルセロナでも傘さしたくない。
服がぐっしょり濡れて、黒い筋が袖につくようになったら、きっとわしはまた日本の人がおかれた「勝利」というものも終わりもない戦いを思い出せるだろう。
ちゃんとは思い出せないかもしれないが、少しくらいは思い出すと思う。
明日、傘、捨ててくるね。
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