ピエモンテの畦道

 

この記事は2013年6月15日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です。

 

アウトレットへは意外に遠くて片道で100キロ近くある。
運転しているのはウクライナ人のAで、助手席にはAの奥さんLが座っている。
情報工学に進路を変えて修士号を取る前はダンサーだったAが運動神経抜群でクルマの運転が上手なのは経験から判っているのでモニとわしは後部座席でのんびりシャンパンを飲んでいる。
イタリアのドライバーは相変わらずで、状況に関係なく反対方向車線を突進してきたり、一時停止のはずの脇道から飛び出してきたりするが、Aは持ち前の反射神経で、悪態をつきながら、それでもモニとわしが安全と感じる巧さで運転してゆく。

ミラノ空港を過ぎてしばらくするとピエモンテにはいった。
ロンバルディアとは打って変わった美しさで、へえ、と思います。
美しい田園風景を見たとたんにバローロという人口500人に過ぎないイタリアでも最小の「コムーネ」がピエモンテにあるのを思い出した。
ワインで有名な村で、イタリアのワインの代名詞のように思う人もいる。

しばらくして両側が森林になると、風景はモニの母親の別荘が立つ湖のあるパリの郊外に似てくる。
ウクライナ人夫婦が嘆声をあげるので、「どうしたんだび?」と聞くと、
「ウクライナにそっくりの風景なんですよ、この道」という。
ウクライナと聞くと一面の麦畑のところどころに油井があって、道路の脇に3号戦車のまだ煙をあげている残骸が点々としているというドアホな風景しか思い浮かばないわしは、
へえええー、という気の抜けたマヌケな相づちを打つのがやっとである。

コモのあたりではあまりみかけない広大なヴィンヤードやオリブの林がみえて、ピエモンテは結構綺麗な土地だのお、とモニに述べていると、びっくりしたことには広大な水田地帯がみえてきた。
初めは半信半疑だったが、少しいくと道の両側に水を満々と張った美しい水田の広がりがすぐそばに見えて疑いの余地がない。
まるで、日本のようだ、とモニがつぶやいている。
日本になど、これっぽっちも関心がないウクライナ人夫婦は、「日本は米しか作物がないって、いいますものね」という。

それに日本の農民には移動の自由がない、とAの奥さんのL、いや、それとも選挙権がないんだったっけ?というとAが運転しながら、移動の自由はあるよ、たしか選挙権が与えられてないんだよ、と応えている。

ここは日本に似ているなあ、とふたりの会話を遮るようにモニがいう。
わしも、ほんとうに似ている、という。
ウクライナ人夫婦がびっくりしたように、「日本て、こんなに綺麗な国なんですか?」と振り返って聞いている。

畦道をひとりの老人が歩いていくのがみえる。
小さくて、腰をわずかにかがめていて、日本のひとのようです。
ひょこひょこといえばいいのか、人形のような歩き方といえばいいのか、
歩き方まで日本のひとに似ている。

あのひとはフクシマの事故をどう考えただろう?
と唐突なことを考えた。
どうとも思っているわけはなくて、フクシマのことを知っているかどうかも怪しいが、しかし、イタリア人だけは、そう思ってくれていなければいけないような(というのは言い方がヘンだが)気がしたのは、ついさっきのウクライナ人たちの選挙権や移動の自由への誤解が頭に残っているからでしょう。

ミツバチの巣箱が見えたところで、ウクライナ人夫婦が、ウクライナの蜂蜜がいかにうまいか話し始める。
モニがイタリアの蜂蜜もおいしいぞ、種類も豊富で、わたしはエミリアロマーニャでchestnutの蜂蜜を生まれて初めて食べた、と述べると、英語が得意のウクライナ人夫婦であるのに「chestnut」が判らない。
castagnoのことだよ。ロシア語ならкаштан
というと、「ああ、カシュタン!」と言って喜んでいる。
あれから蜜がとれるなんて知らなかった。

ウクライナ語でもほぼ同じという。
ウクライナは面白い国で500キロしか離れていないのにAはロシア語で育って奥さんのLはウクライナ語で育った。

そうであるのに、あるいはそうだからなのかもしれないが、Aはロシアが大嫌いで奥さんのLは「ロシアにもいいところがある」という。

アウトレットはウクライナ人夫婦とロシア人たちの希望なので、モニとわしはモカ(エスプレッソをつくる伝統的にはアルミ製の器具のことです)の専門店とモニの靴をみたりして1時間足らずを過ごしただけで、残りの二時間近くをアウトレットのなかのカフェの通りに面したテーブルに腰掛けて、アウトレットでこんなにすごい人出はアメリカでもどこでも見たことがない、と言いたくなるような数の人間でごったがえす通りを眺めていた。

「イタリアの人は小さいのお」とわしがおもわずつぶやくと、モニも不思議がっている。牛乳が不味いからかな、と言うとモニが「ガメはまたすぐそういうことをいう」と言って笑っている。

男も女も小さなひとがおおくて、なんだか日本の人達を見ているような気がする。
実測してみると、もしかすると日本の人よりも平均身長が小さいのではないか、と思うほどである。
ウクライナ人のAなどはわしより10センチ低い程度なので巨人のように抜け出して見えて、かなり遠くにいてもどこにいるか判って便利である。

さっきの水田、日本みたいだったな、ガメ、とモニが言う。
うん、と、わし。
ガメは日本のことを考えているんだろう、と可笑しそうに見ている。

モニはなんでもお見通しなので困る。

近代の歴史からいって、イタリア人はアルデンテのペペロンチーノとメッツォリトロ(0.5リットル)のワインがあれば、他には何もいらなくて満足なひとたちだった。
北アフリカ戦線でイタリア兵にももっと頑張ってもらわねば困る、と憤るヒットラーに対して、イタリアの将軍が、しかし総統閣下、われわれイタリア人は、おいしいスパゲッティがあれば、それだけで満足な国民なのです、と思わず述べて、ヒトラーの激怒を買ったのは前にも述べたことがある。

いま書いていて軍隊が戦争をすれば強姦はつきものでやむをえないと述べる、わが友オダキンとのツイッタでのやりとりを思い出したので、余計なことを書くと、エチオピア侵略戦争ではイタリア兵による強姦事件は皆無だった。
理由はオダキン理論に従ってさえ簡明で、イタリア兵は妻やガールフレンド(その頃のイタリア人の「ガールフレンド」は婚約者に限られていただろうが)を連れて戦場にやってきていたからです。

わしは「ドイツ製工業製品は廉価だが粗悪だ」という当時の欧州での常識をぬぐい去ることをおおきな目的のひとつとしていたナチス政権の「効率的で完璧な」兵器を装備したかっこいいドイツ軍よりも、旧式な対戦車砲や登場年代をおよそ5年ほど間違えていた鋲だらけのお釜のような砲塔をもったマヌケな戦車の兵器で装備されたイタリア軍のほうが好きである。
トリエステ師団のように劣弱な装備にもかかわらず勇戦奮闘した師団もあったが、妻や恋人を同道することを禁じられたイタリア兵たちは、イギリス軍の正面に立つとあっけなく敗走することも多かった。

自分を祖国と同一化して「父なるドイツ」のために自分自身を一個の兵器とおもいなして、いわば自分を機械と幻想して戦ったドイツ兵たちに較べて、雨あられと降る連合軍の榴弾に恋人の写真と恋人がくれたロザリオを必死で握りしめて恐怖のあまり塹壕で泣いていたイタリア兵のほうが、わしの頭では、どうあっても文明的であるような気がする。

ありえないことだと判っていても、日本にいた頃、日本人が軽躁な遣欧将校達やエリートの尊大な意識に固まった派欧留学生たちの口車に乗らずにイタリアを社会のお手本にしていればなあー、と思うことがあった。

近代日本人はイギリス人やドイツ人、北海系のアメリカ人たちがなかなか物事をうまく要領よく切り抜けていけないイタリア人たちを軽くみて嗤う口ぶりがすっかり板についてしまったが、当のイタリア人を嗤う「優等生欧州人」たちは、無論、口にはださないだけで、イタリア人こそが文明の母であることをよく知っている。
あのイタリア人たちの非生産性を哄笑する頭が悪いがわに属する北海人たちの笑声は、自分達が拠って立つ文明がすべてイタリア製であることへの無意識な鬱憤晴らしなのである。

帰り道にもウクライナ人夫婦は、まだローマ人の国に水田があることについて、ほとんど不服ででもあるような違和感を述べていた。
米作はアジアのものであり、遅れた地域の貧しいひとびとのものであって、イタリアという、自分達が焦慮するほどに追いつきたい欧州の、そのまた文明の母なる国にあってよいものではない、と感じるようでした。
モニとわしがいくらリゾットに絡めて説明しても、やはり釈然としないようだった。
わしは相手が信じるはずのないほんとうのことを述べて他人をからかうのが好きなので、よっぽどスパゲティは仲の悪いウクライナ人とロシア人たちが共通して軽蔑・憎悪する中国人たちに起源があることや、マトリョーシカは日本のこけしが元であること、などを述べてからかおうかと思ったが、運転中に後席を振り返って激論されるとイタリアの道路ではいのちに関わるので思いとどまることにした。

ふつうの欧州人の頭のなかには「日本」という国など存在しなくて通常だが、なかでもロシア人やウクライナ人は特に日本には無関心であると思う。
どうでもよい、というか、ヒットラーが「猿」と呼んで日本人を軽蔑した、その十分の一も日本人への人間としての関心をもっておらず、ロシア人たちと話していると、日本人側からみれば信じられないような「信義に悖る」行為である1945年8月8日の対日参戦は、要するに(口に出しては言えないが)「彼らは人間ではないのに、なぜ約束を守る必要があるのか」という欧州人よりも一層明瞭で露骨な一種の名状しがたい対アジア人意識の結果であったことがよく判る。
「それならロシア人など嫌いだ」と言われてしまうと困るが、
たいていのロシア人にとってはアジア人は自分達と違う生き物だ、というのは、人種差別意識というようなものよりも遙かに自然な「公理」のような意識であると思う。

帰り道、ピエモンテの畦道には、今度は自転車に乗った中年の女のひとがいて、イタリアに住んだことがある人は知っているとおもうが、イタリアの自転車は大半が要するに「オバチャリ」です。

オバチャリに乗った、おばちゃんが、夏の照りつける太陽の下、水田の輝くばかりの照り返しのなかを、えっちらおっちら、大儀そうにこいでゆく。

わしはおもわず「日本はいいなあ」と考える。
それから正気に返って、あ、ここはイタリアだったな、と思うが、また次の瞬間、
日本の田園はなぜこんなに美しいのだろう、と思う。

こんなことを言うのは月並みだが、地平線までずっと続いているピエモンテの畦道は、ほんとうは望月かどこかにつながっていて、畦道の向こうの端では、「ガイジンさんは、いっそ気持ちがいいほどおおきいのお」とモニとわしをみあげていた、いつかの、あのばーちゃん
http://gamayauber1001.wordpress.com/2013/02/15/buon-soggiorno/
が立っていそうな気がして、ウクライナ人のAに、ねえ、A、ちょっと次の角で左に曲がって、ずっとまっすぐに走って、日本まで行ってみてくれないか、と言いたくてたまらなくなってしまうのでした。



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