(この記事は2011年6月5日に「ガメ・オベールの日本語練習帳 ver.5」に掲載された記事の再掲載です)
1
ウクライナ人たちのダイナーで赤ワインを飲みながらザワークラウトときのこがはいったPierogiを食べたり、ヴィレッジのワインバーでうさぎのポットパイをお代わりして笑われたり、テンプラニーニョでスペイン式のポークチョップを食べて大満腹になったりしているうちに、もう欧州へでかける日が近くなった。
アパートにひさしぶりに戻って来た頃は、まだ摂氏8度くらいで肌寒かったのが、もう28度を越えるくらいになって、初夏の気持ちの良い日が続いている。
「旧交を温める」というが、舗道にはりだしたテーブルで夕食を摂っていれば、もうまる1年会っていなかった友達が通りかかって、とびかかるように抱きついて喜んでくれたり、バーにいれば、後ろから肩に触られて、振り返ると、懐かしい顔が満面に笑みを浮かべて立っていたりした。
ましてヴィレッジなどは狭い町なので、戻ってきたことがあっというまに知れ渡って、毎晩遊んで歩くことになってしまった。
いまはまだ半年、一年と続けて住む気はしないが年をとれば結局はマンハッタンに住むだろうか、とモニと話しました。
マンハッタンは人間くさい街であると思う。
同じ店に三回も行けば、もうバーテンダーはカザフスタンの故郷の町のことを目に涙を浮かべて話し、是非きてくれ、世界でいちばん素晴らしい町なんだ、という。
階上に走っていって名刺をとってくると、自分のemail accountを書いて、きみのもぼくにくれるんだろうな、と要求する。
前にあったときにメールを書くからとゆったのに書かなかったウエイトレスのねーちゃんには、書くとゆったではないかと怒られる。
郵便局に行ってさえ、「この頃見なかったなあ、いったいどこに行ってたの」とコロンビア出身のおばちゃんに半ば𠮟責されます。
「あなたがいないあいだに、Hのバカが汚い手を使って局長になったのよ」
て、おばちゃん、客に内部ポリティクスの話をしてどーするんだ(^^)
モニが女友達たちと出かけてしまった午後、わしは一階の受付の脇に隠してあるスケボーを取り出してパークアヴェニューをグランドセントラル駅からユニオンスクエアまで、ノンストップで滑りおりて遊んだ。
すげートゥーティングだったが、知るかよ。
自転車とスケボーは信号を無視するためにある。
欧州に出戻るまでに一度やりたかったので満足しました。
あるいはアパートの屋上に出て、ワインを飲みながら、天気がいいといつも隣のビルの屋上でのんびりしているじーちゃんと話しをした。
「なんという気持のいい日だろう。きみ、そうはおもわないか。
おれの年になれば、もういつでもこの世とはお別れだが、世界はとてもいいところだった。おれは神様に感謝するよ。
人間にも!」
という。
ワインを急いで飲み過ぎたわしは、なにがなし、鼻の奥がつんと来て、しばらく黙ってしまいます。
じーちゃんは上半身裸の胸に太陽の光をいっぱいに浴びて気持がよさそーだ。
マンハッタンには昼間には昼間の、夜には夜の太陽が出て、それぞれ暖かい光と闇で人間を包んでくれる。
夜の密やかな欲望や、小さな狂気、暗ければ思い切ってやれる事ども、甘いにおいがする部屋や、酩酊、物陰に隠れている神の言葉で、誰もが世界について考えてみる。
聞き取りにくい声で話されている言葉や、遠くから微かにもれてくる忍び泣きの声、もっと具体的なことならば、すれちがった二人連れの聞き違いようのない古代ラテン語の会話、地上20階の建物の上からじっと地上を見下ろしている身動きひとつしない男の影、
そういったすべてのものでマンハッタンという街は出来ていて、一度、その内側深くに出かけてしまうと、またその巨大な「柔らかな痛み」のなかに戻ってこないわけにはいかなくなってしまう。
世界でただひとつの「都会」、しかも自分自身の強烈な意思をもつ都会なのだと思う。
ここに戻ってこないひとなど、いるのだろうか?
2
先週はPaloma Herreraがジゼルを踊っているというので、アメリカン・バレ・シアターまで観にいった。朝、なんだか機嫌が悪かった(別にわしが悪いことをしたわけではない。モニは、ときどき何の理由もなく機嫌が悪くなります。モニは「女はそういうものだ」というが、わしには判らん)モニを笑わせようと思ってシャワーから出てくるときに裸で「スタート・ミー・アップ」の振り付けをやりながらラウンジにはいっていったら、モニはすっかり上機嫌になったかわりに、腰をひねってしまった。
いでえええーと唸りながら1ブロックあるくのにも脂汗を流しながら歩いて行った。
なんだかマイケルジャクソンのムーンウォーキングみたいな歩き方で歩いていて、ときどき「ぐわっ」とか「ぎゃっ」とか叫びながらコロンバスサークルから劇場に向かって歩いていた、わしの同族の水準からしても巨大なにーちゃんを目撃したひと、あれはわしでしてん。
横で言葉だけは「大丈夫か?」と言いながら、必死で笑いをこらえていた薄情なスーパー美人がいたと思うが、あれがモニというひとです。
第二幕でのPaloma Herreraは、ときどき体重がゼロになってしまうように見えた。
身体がつくりだしみせる形の美しさと羽毛のような軽さに観ているひとはみな息をのんでいた。
このひとのもうひとつの特徴は物語の解釈を肉体を使って明解に述べてみせる表現力の豊かさだが、亡霊となっても自分を裏切って死においやった恋人を守るために朝がくるまで必死に踊り続ける娘の切なさが胸にせまって、観ていて涙ぐんでしまうようでした。
わしは「ジゼル」が好きだと思ったことがなかったが、意見が変わったようでした。
「ヴィイ」の世界に似ている。
大陸の田舎のコルクの森を抜けて、中世の商人が歩いた小径を歩いて行くと、日が沈んだあと、ことに夜更けには、どんなひとでも欧州の精霊の気配を感じることが出来るが、ジゼルは、あの精霊たちが背景にいてこその物語でありバレーなのだと思いました。
前にそれが見えにくかったのはバレーの文法にある「定型」が邪魔をしていたに過ぎない。
もうひとつ自分に理解できる物語が出来たことを喜びました。
3
グラシアに行く準備が終わったので、7thAveを歩いて、知り合いの女バーテンダーが移った先の新しいバーにでかけて、またあの「反乱軍兵士」というカクテルを飲みに行った。
きっと、カクテルの名前とこれからカタロニアに出かけるのさ、という気持が意識下で影響したのでしょう、オーストラリアの友達に書く絵葉書にロバート・キャパの有名な「ラクカラチャを歌いながら銃弾に倒れる兵士」を選んでいた。
持ち主は変わってしまったが、ずっとむかし、バカ息子らしく尾羽打ち枯らして、かーちゃんと妹に出した絵葉書もこのワシントンスクエアのそばの文房具屋で買ったのを思いだした。
葉巻をくわえたディラン・トマスの肖像の絵葉書だったが、わしは、あのときもほんとうは天使の絵を探していた。
イラクからの復員兵士の乞食が蹲っている前を通りかかったら、彼は急に顔をあげて、「なあ、おれの写真を撮ってくれないか」という。
なぜ?と訊くと、理由なんかないさ、きみにおれのこの有様の写真を撮って欲しいんだよ、と言います。
おーけー、とゆって写真を撮って、ふたりでカメラのスクリーンで眺めた。
ポケットのなかにあったチョコレートバーをふたりで半分に分け合って食べました。
このひとは、「生きているというのはなんて嫌なことだろう」とゆっていた。
わしは、バカっぽいことには「なるほど」とだけゆって、他にどういえばよいか判らないので黙っていた。
しばらく一緒に座っていて、もう行かなくては、となるべく丁寧に述べて、そこを離れました。
振り返らなかった。
振り返ると、そこには復員兵士の乞食なんかいないような気がしたからです。
そういう感情は日本語ではきっとどんなに工夫してもうまく言えない。
現実というものは、どういえばよいか、人間の想像力を遙かに超えて、「現実感」など全然ないものだということが日本語ではうまく言えないからです。
4
「あなたは、いつも知っていたのだ」という。
ヴィレッジの、ゲイの男達の彫像のある、あの小さな公園でのことです。
午前2時で、モニとわしは、先々週ゲイカップルが襲撃された(日は違うが)同じ場所の同じ時間にそのベンチに座っていた。
「あなたは、いつも知っていたのだ」という。
モニが、隣のベンチのそのひとに「なんのことですか?」と訊くと、
「この世界がもうすぐ滅びるということを、ですよ」と言います。
見れば、ひどく酔っ払っているようだ。
「こんなものが長くつづくわけはない。われわれは傲慢になりすぎたのではないでしょうか?」
そう呟くと、立ち上がって、意味のわからないことを両腕をひろげて絶叫しながら舗道を走っていってしまった。
二年前にブログに書いたサンフランシスコのBARTで目撃したひとととてもよく似ていたのでびびりました。
モニまでが、(ふざけて)ガメは、ほんとうに知っているの?と訊く。
知っているわけがないではないか。
何度もいうが、わしはここには遊びに来ただけです。
生まれついて親切なので(^^) 気が付いたことは「やめたほうがいい」「変えた方がいい」と述べるが、それも自分の良心を満足させるために「言っとくほうがいいだろう」くらいのことでしょう。
わしは、聞き取りにくい声を聴きたい。
世界中のあらゆる密やかな声を聴きに行きたい。
夜、灯りを消したあとの寝室で隣の部屋の子供達に聞こえないように自分達の身の上に起きた悲劇について語り合って声を殺して嗚咽する夫婦の声や、これだけは絶対に親にも友達にも話すわけにはいかないと思い詰めて部屋の暗がりで泣いている息子や娘達の小さな声を聴きたい。
自信なげにサーバーの片隅に投げ出された言葉や、あわてて削除された言葉、消しゴムで消された鉛筆書きのつぶやきや、壁に刻まれた短い言葉、
わしは遊びに来ただけでなく、そういう言葉を聞きにきたのでもある。
日本での微かな声の採集は終わったが、まだ行きたいところがたくさん残っている。
大きな沈黙の海のなかにある「聞き取りにくい声」を聞きにいかなければ。
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