イギリス人がニュージーランドに来て、いちばんぶっとぶのは、空港で早くも聞こえ始める「二世代古い英語」です。
ショート・ショーツに、クロップ・トップのチョーかっこいい若い女の人達が、自分の祖母の言葉で話している。
「昨日の夜のパーティはいかがでした?」
「ええ、とっても愉快な夜でした。招いていただいて、ありがとう」
ニュージーランドでは高校生が夜会を開くのか、と一瞬おもう。
Gin Wigmoreという、すごいシンガーがいる。
この人がSmashproofというバンドと一緒に出した「Brother」はマヌカウのマオリ族ギャングの抗争を歌った、ニュージーランド人なら、誰でも泣きたくなるような、たいへんにたいへんにニュージーランド的な歌だが、
この人のSNSが、なんだかマジメな高校生の日記みたいな英語の調子なので、
読んでいると、ふつふつと、可笑しさがこみあげてきて、次の瞬間、圧倒的な好感が押し寄せてくる体のものでした。
最近は、主にインターネットのせいで、それほどの差異は、ほぼなくなっている。
テレビを観ていて、あるいは町を歩いていて、聞こえてくる英語で、単語数語でも並べば、
「あ、この人はオーストラリア人」
「アメリカ人だな」
「この人はカナダから来たのだな」
くらいは歴然と判るが、
「この人はタイムマシンで過去からやってきたのだろうか」という人は、少なくなった。
俳優は厳しいレッスンと切り離せない商売で、ドラマWithout a TraceのMarianne Jean-Baptisteなどは、当然のようにニューヨークの人だとおもっていたのに、あるときインタビューを受けているのを聴いていたら、ばりばりのイギリス英語なので、ぶっとんだことがあった。
ちなみにニューヨークが舞台のテレビドラマだったWithout a Traceは、Anthony LaPagliaやPoppy Montgomeryたちオーストラリア人たちも出ていて、やっぱりちゃんとアメリカ英語で話している。
名前はあげないが不器用な人も、もちろんいて、カリフォルニアで生まれて育った設定なのにオーストラリア英語で、どうも、この人は俳優に向いてないね、とおもう人もいます。
一般に言語は、知的レベルが高い人ほど、あるいは(階級がある社会では)階級が高い人ほど「古い」言葉で話す。
砕けた英語で話したがる人が外国人には多いが、なにをやっているのか判らないので、本来、出会って、自分の成長を助けてくれるはずの人と、この人は一生縁がないだろうな、と横で見ていて余計なことを考える。
周りは黙っているだけで「これは、ダメな人だ」と思っているからです。
ときどきツイッタやなんかで、英語習得の話題がTLで出てくると、
「苦笑されるくらい古い折り目正しい英語のほうがよい」と述べるのは、そういう理由によっている。
この記事が書かれている日本語は、よく「古い」と言われる。
ぼくが住んでいる風変わりな英語世界の片隅では「書く文章のスタイルが古い」というのは、褒め言葉なので、日本語の悪意としての表現に翻訳しても、いまいちピンと来ないくらい気にならないが、薦めてもらった「ラノベ」を見ても、こんな言語で書くくらいだったら日本語以外のほうがいいな、とおもうくらいで、文体を「新しく」しようとする気持は起こらない。
何回か書いたことだが、ぼくの日本語は、普段の会話やテレビで日本語に触れる機会はゼロなので、せいぜい戦後現代詩や60年代の映画くらいが最も新しくて、そういう言い方のほうが判りやすければ「日本語人が、だいたいは読んで判るガメ・オベール語」なのかもしれません。
本を読んで、自分の日本語の「芯」が出来てくると、母語とおなじように、だいたい、どんな表現がダメで、どんな表現が言語の美としての感覚を呼び起こすか判って来て、ある種の文章を読まなくなり、ある種の文章を書く著者のものを読まなくなり、ある種の著者を胚胎する母体になった文化潮流をまるごと読まなくなる。
テレビと漫画という、社会がまるごと、そのふたつで出来ているような日本語文化のスタイルを両方とも判らないまま闇雲に自分が好きな言葉の方角に進んだので、なるほど、言われてみれば特殊になっているわけで、趣味なので、まあ、ほっといてください、ということになっています。
さぼらないで、ときどき、「日本語で表現できないことの一覧」をつくろうとおもうが、根が怠け者なので、なかなか、やれない。
ツイッタ上での経験では、判っている人は例がなくても、十分以上に判っていて、いまの日本語では、表現できないことが世界には多くなっていて、しかもそれが年々加速度的に増えていて、語彙や表現が存在しないことは、つまり考える事も意識の対象にもならないことなので、困ったことになった、と感じているようでした。
日本語は、もともと無数の微妙に意味することがずれた語彙の集積でできている。
最近の出来事でいうと「ロシアのウクライナへの侵略」といわずに「ロシアとウクライナの戦争」という新聞記事は言い換えによる欺瞞だ、といろいろな人が述べていた。
普段から敬意をもって読んでいる高い知性と洞察を持つひとたちです。
言わんとすることは正しい。
ただ「英語新聞はどれもinvasionと書いている」という論拠は正しくない。
Invasionという言葉は、めんどくさがらずに、ちゃんと説明しようとすれば、「こっちから他国の地へ出かけていって戦う」という、言わば物理的なベクトルだけを意味していて、それが正義なのかどうか、という意味を含まない。
例を挙げると西側からのヨーロッパの解放として大陸欧州人たちに歓喜をもって迎えられたノルマンディ上陸戦は「Normandy landings」ともいうが、これはOperation Overlordそのものを指していて、より広い歴史的事件としてはinvasion of Normandyという言い方のほうが、ずっと多く使われる。
漫画的なおかしみのある例もあって、オリンピック作戦の本を読んだ日本の人が「日本本土のinvasion」と書いてあったのを見て、喜んでしまって、
ほおら、アメリカは自分で侵略戦争だったと認めているではないか、と書いた例もあります。
前に語彙集合がずれていて、特に倫理や宗教の部分では共有している語彙が少ないことの例としてintegrityを挙げたことがあったが、翻訳語を基礎にしている近代日本語では、翻訳者が苦労して意味するものを近づけようとして見つけて来た、あるいは、どうにもしようがないときには造語すらやらざるをえなかった、だいたい同じような意味だが、滲み出てしまうように意味が異なっている語彙や表現は、無数にあります。
許容度をゼロにしてしまえば、ナイフとフォークのように目の前に現物を置けるものですら、誤訳しか出来ないのは和包丁もknifeであることを考えれば判りやすいかも知れません。
日本語が話者の人口規模と地理的条件にもかかわらず、普遍語として、狭隘な世界の言語に陥らず、科学が見ている世界を数学の言葉である数式とともに詳述できて、一方で、世界の人と共有できる思想や感覚を記述できたのは、翻訳者たちが、日本語の創造者あるいは更新者の役割を果たしてきたからでした。
本来、その時代の日本語では言い表すことが出来ないはずの感情や思想、あるいは事象を表現するために明治の初期から困り果てていた様子は、見るのにも気の毒なほどで、例えば悪魔という言葉が造語されるまで、devilの最も一般的な訳語は「天狗」だった。
日本語のなかで存在感が強いものを使うと、本来の西洋語の意味を遠く離れてしまうと悟った明治の翻訳者たちは、当時の日本語人の「漢文と中国語に対する曖昧な理解」に乗じて、どんどん漢語を当て嵌めて、必要があれば意味を捩じ曲げるという荒技に出ます。
ちょっと思いつく言葉を並べるだけでも、
権利、自由、社会、個人、美、恋愛、芸術、愛… 現代の日本人の思考の中心を占めていそうな語彙がいくらもある。
彼、彼女、という言い方すら明治人の発明です。
その結果、日本語が意味する内容は、いつも、ふらふらしていた。
あんまり説明をつくさなくても
「わたしはあなたを愛する」と「I love you」を並べてみるだけで、事情は明らかで「わたしはあなたを愛する」のほうから言うと、
これが自然な日本語だと感じる人は、かなり日本語の感覚が悪いと言わざるを得ない上に「愛する」が、どんな感情を指しているのか、
恋なのか、包み込むような慈愛に近い気持なのか、意味の部分で、もうすでに揺れてしまっている。
近年になって、もっと大きな問題は、漫画やアニメという本来サブカルチャー的な役割を担うべき「マイナー芸術」が、文学やシリアスな題材の映画の衰退と、もうひとつ、視覚的理解を喜ぶ日本の人の好尚によって、市民権を認められた途端、爆発的な成長を遂げて、本来は中心に腰を据えているはずのメジャー芸術の居場所がなくなってしまった。
例えば英語世界から見た日本文化は、日本がまるごとサブカルチャー化しているように見えている。
悪いことであるわけはなくて、少なくとも英語人にとっては、つげ義春や宮崎駿のような極めて質が高い作品が視界のなかに入って、後者などはNetflixの一ジャンルをなすほどアクセスが簡単に出来ている。
ところが当の日本語人のほうは、いまでも明然とメジャー文学(というのもヘンな言い方だが)が中心になってもっかは非母語人のインドの人やアフリカ大陸のひとびと、韓国や(こっちは二世以降が多いが)中国系人ベトナム系人が参加して熔鉱炉のように活動している英語世界からは切り離されていて、サブカルチャーと自分たちの生んだサブカルチャー作品への称賛だけが視界に入るという微妙なことになっている。
いわば中心が端っこに移動してしまったので、中心が彼方の地平の向こうになって見えなくなってしまっている。
その結果は、考えて見れば当たり前でも、言語としては致命的で、日本語では「サブカルチャー的なものの見方」しか出来なくなってきているように見えます。
サブカルチャー的なものの見方というのは、簡単にいえば、おもいつきによる、ちょっと変わった角度で、才気はあれども叡知なし、ものごとの本質を小才の利いた、変わった角度から評価できればよしとする見方で、
いつか「アルキメデスの大戦」という映画を観ようとおもって、半分も見られなかったが、本質はどうでもいい、おもしろければいい、という態度と言い換えられるかもしれません。
(自分で書いていても、うまく言えてないので、この部分は、あとで書き換えそうだけど)
マリリン・モンローが出る映画を性差別の観点から批判して否定する、というのは70年代くらいからよくあって、性差別や人種差別の視点から書評や映画評を書く、というのは、いまでもよくあります。
人種差別や性差別を観点にして本や映画について述べるというのは、ケーハクでも、日本でもありそうな気がするが、多分、逆に日本語にはないんじゃないかな、と感じられるのは、英語世界ならば、いまでも中心をなしている「社会制度の矛盾から文学を見て、それが批評といえるのか?」という、これも昔からよく行われる批判のほうでしょう。
また書くのに飽きてきてしまった。(ごめん)
日本語が最も手っ取り早く文化の相貌のバランスを取り戻して健康を恢復するには、主にインターネットのせいで環境が激変して、現に、多言語話者がどんどん増えている言語習得革命と呼びたくなるくらいの言語習得の環境を利用して英語やスペイン語で考えるようになるのが近道でしょうが、ジレンマとして、直截、英語なら英語で考えるようになってしまえば、いまでも瀕死としか呼びようがないほど質が低下している翻訳文化が、多分、オダブツになってしまう。
そうすると日本語がもっている、ゆいいつの言語再生装置である翻訳が停止することによって、日本語はたぶん、日本の人自身が「使いものにならない」と感じるところまで落ちて、テレビのバラエティショーを観てゲラゲラ笑ったり、愚かなタレントがしたり顔で述べる政治評にカクカクと頷く層だけの言語に変わり果てる可能性が、かなりありそうです。
なにを日本語でおこなって、なにを英語でおこなうか、その都度、考えて頭のなかで考えに使う言語を切り替えていくのが、妥当な行き着き先なのだとおもうが、考えて見ると、これは、インドの人たち、例えばベンガル人たちが日常に行っていることです。
サタジット・レイやラビンドラナート・タゴールの名前を持ち出すまでもなく、偉大な近代文明を築いたベンガル語は話者人口が2億2000万人で、日本よりも多いが、言語世界として世界に占める位置は、だいたい同じくらい。
普通に考えて、ベンガル人に出来たことが日本人に出来ないということは、ありえないはずで、日本語の再出発は、だいたいにおいて、そんな形で始まるのではないかとおもっています。
その出発点が、いまの苦しい片肺飛行の終点になることを祈って。
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私の年齢は20代前半です。
実をいうと、だいたい90,80年代より前に書かれた小説(主に翻訳版)が難解に感じます。
意味は知っているのに、理解できないという状態になることがあります。
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今日本人の若者の国語能力が低下しているという調査結果があります。
国語力は偏差値を上げることが難しい分野ですが、それと同時に大幅に下がることがないとも言われています。
しかし、それがおきてしまった。
これから日本語はどうなってしまうのか、恐怖を感じます。
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I don’t have confidence about my feeling is to communicate to you. (日本人なのに日本語が上手くないので)
I want to have skill to make understanding by English way to think.