昼下がり、ボローニャ大学の中庭のベンチに腰掛けていると背中が向いている建物の二階から、悪魔の実在について議論している声が聞こえてくる。

静かな落ち着いた声ではなくて、やや興奮して、切迫して、言ってみれば、切羽詰まっている声です。

緊急の、焦眉の問題として悪魔の実在が述べられている。

幻聴だったんじゃない?

記憶が改変されているのかも?

現実の実体は、たかだか認識にしかすぎないことは、なんども書いた。

だから、どちらでもいい、ということにはならないが、

何度も甦ってくる記憶は、ベンチの傍のオリブの木が、現れたり、消失したりするくらいで、残りは同じことで、SONYショップの代わりにサムソンショップがあったり、小さなEVの郵便配達自動車が広場に群れていたり、

はては、大通りの、大学から遠くないところのジェラート屋まで、

雑多に「現実」として頭のなかに残っていることの、ひとつとして、

声高に述べられる悪魔の実在についての議論が残っている。

ボローニャなのだから、イタリア語だったはずなのだが、記憶のなかでは、スペイン語であったり、英語ですらあることもあって、これはいつものことだが、西欧語は西欧語のなかで横滑りしていて、ときどき、なにがどんなふうに語られたからは判っていても、それが何語だったか怪しくなることがある。

自分が話す方は何語だったか、たいてい憶えているので、不思議といえば不思議で、あるいは、話す事と聴くことは別の能力かと考えたり、

その言語がへたっぴなだけなんじゃないの?

とおもったり。

もう人間も30代の後半になってくると、経験したすべての現実は断片化して、廃墟か遺跡のようにして、堆く積み上げられた、それぞれの瞬間が、崩れ落ちる一瞬に、鮮やかな形象と色彩を伴って甦ったり、遠くに、くぐもった影のように蠢いていて、もどかしくて、どうしても判然と思い出せなかったりする。

誰にでもあることのはずで、辿っていくと、現実だったのかどうか、もう判らなくなってしまっているものもある。

数学の言葉で世界を理解しようとしていたころは、机に向かって手を動かすやりかたで自分が生きている宇宙を解読しようとしていたが、ふり返ってみると、ほんとうに身についたのは旅による理解で、

ただ、ふらふらしているのが好きで、大陸西欧やメキシコやアメリカ合衆国や、オーストラリアやニュージーランド、遠くは日本まで、足をのばして、

ハワイのパスポートコントロールでは、「ひとりの人間が、こんなに旅をするわけはない」という訳の判らない理由で別室に送られたりしたが、

そのころは、滑稽なことに、実際には旅先で過ごしている時間に較べると短い期間の滞在でしかない「自分が生活している場所」でないところにいるのが快適で、根無し草でいることが安定した生活だと感じていた。

旅から旅。

ラスベガス郊外の赤茶けた岩。

プラヤ・デル・カルメンの焼けつくような太陽。

クエルナバカの木陰。

ダラスの、巨大なばかりで、館内をジョギングしている人以外は、誰もいないようなショッピングモール。

Llafrancの、延々とつづく、海辺の遊歩道

脈絡のない、スナップショットのような風景が積み上がって、何千キロも離れた場所が隣り合っていたり、隣り合っている場所が融合していたりする。

カタルーニャやガリシアの小さな町に、ほんの数週間もいて、観光を目的とするでもなく、テラスでのおんびりとヴィッチ・カタランとカバのサングリアで、おおいつくすような太陽の光の下で、眼下の町を眺めていると、

世界は、たくさんの宇宙で出来ているのが判ってくる。

そのひとつひとつの宇宙は、異なる言語で、てんでに異なる世界を認識している。

解りあえれば最も理想的だが、なにしろ人間の言語も感覚も、内を探究するのは案外と得意でも、隣の人と意思を疎通するというのは苦手なので、人間がお互いに理解しあうのは、世界が判ってくればくるほど、困難であることが自明に近くなって、ではどうすればいいかというと、「ほうっておけるだけ、ほっておく」のが最もいいようです。

日本語では、どういうことなのか、頻発する、相手が自分に向かって攻撃をしかけたり、甚だしきは共謀して中傷したりする場合には、戦うしかないだろうし、ほうっておけば、かさにかかる、ということもあるだろうが、

そういう異常な人間が起こす異様な事態でもなければ、

「他人のことは、ほっておく」

「判らない事は、ほっておく」

で、だいたい人間の短い人生は終わってしまう。

日本語ではいちど、日本語世界が与えてくれたことへの恩返しのつもりで、なにが日本のネット言語世界をおかしくしているか、元凶の集団がやっていることを匿名から実名をたぐり出すことを含めて、可視化しようとしてみたが、これは大変で、なにしろカラッポの議論で、詭弁と相手を陥れる技だけを磨いてネットを牛耳って来た人びとだったので、たいへんな時間の無駄で、おまけに日本語の世界で支えてくれた人達には

「ああいうことは、よくない。愚かな人間は、みんな観て判っていて、現実の世界で対処しているのだから、公開でやってみることに意味などない」と顔を顰められてしまった。

もっとも、では、それが日本語の風景になって頭に残ったかというと、残らなくて、日本語世界自体への敬意が目減りするという、仕組みがよく判らない結果を来したが、たいしたことではなくて、日本語へいくはずだったエネルギーが、他言語に向かっただけで、日本語をあきらめてしまったおかげで、よかったこともたくさんあった。

知らない町に、風来坊として、1ヶ月か数ヶ月か、滞在して、何食わぬ顔をして暮らすというのも、自分を耕すにはよかったが、旅には、もうひとつあって、ヨットや無帆のボートで、海を行く旅もある。

人間がいない自然が言葉をもたないのかというと、そんなことはなくて、

仮託しなくとも、自分に内在する言語が湧き起こるように姿を現すのは、

ちょうど、気圧が低い容器のなかで、低温で沸騰する液体に似ている。

陸地が見えない大洋に数日もいて、ノートに自分のなかに湧き起こる言葉を書き付けたい衝動に駆られない人はいないだろう。

陸地にいると気が付かないが、地球の自然の本体は海で、当然に、海のほうが豊富な沈黙の言語に満ちている。

陸上の言語などでは到底説明がつかないことが起きるのは日常茶飯で、

静かな海面を、まるで単独航行しているような、危険このうえないので有名な三角波や、遠望して、どこからどうみても島なのに、海図をみると、そんなところにあるはずのない陸塊の幻、疾走する馬としか見えない中空を疾走する彩雲、陸の上とは別の世界で、しかも、紛いようもなく、この惑星の本然は、陸ではなく海のほうにある。

町が人間の言葉でできているとすれば、海は神の言葉で出来ていて、

人間が神の言葉を聴くためには、帆と舵をあやつって、陸影のない膨大な水の真ん中へ出て行くしかない。

もしかしたら、そういう事情は、砂漠のある土地で、神が預言を残した事情と、似ているかもしれません。

こういうと日本語では笑い出す人が多いのが判っているが、だんだんと、そうやって、数学や旅を通して、自分が住んでいる世界が判ってくると、

どうやら神も悪魔も実在するようだ、と実感されてきます。

神などいない、と人間が澄ました顔をしていられるのは、神は言葉の集合の外にいて、言語の外に存在しているということは、人間には形象が判らず、存在が見えず、存在の様式が知覚できない。

わずかに言葉によって、「暗示」されるだけで、それ以上のことは、人間には認識できないのは、人間の視覚では紫外線も赤外線も「見えない」ことと似ているかも知れません

膨大な水のまんなかで、空だけが見えるところに、ちっぽけな船の錨をおろして、夕闇が迫るころになると、知覚はもちろん出来ないが、神の存在を「感じる」ことはできる。

あっ、いる、という言い方では、いくらなんでも滑稽だが、陸上の町の灯りの空への反映がとどかない海上で、オリオンが見え始め、やがて天の川が空を横切り、無数の星が瀑布でもあるかのように、実際に降り注ぐような錯覚が起きるころになると、神が手のひらでつつむように、世界をおおいだす瞬間が判るような気がすることがある。

陸上の旅を言語の海洋を泳ぎ渡る旅だとすれば、海上の旅は、言語の外を渡る旅で、ひとりで地上との連絡もなく、惑星間を旅することが出来るようになれば、その感覚は、ブルーウォーターを渡るヨット乗りの感覚に似ているかも知れない。

人間は自分の部屋に住んでいるだけでは、どんなにたくさん本を読んでも、誤解がつみかさなっていくだけで、抜群の勘に恵まれた人でも、せいぜい物語でいえば「あらすじ」が判るだけのことです。

知識は旅の助けなしでは、やがて呼吸を停止して、死んで、無に還っていくしかない。

浩瀚な書物を読むよりも、午前の二時か三時、湖畔の、小さな教会の、

半分開いているドアから洩れてくる光を目撃するほうが、ずっと深く人間の世界を理解できることがあるように、海の、水の表面に月の光がつくる、まるで舞台への花道に似たまっすぐな回廊をみつめるほうが、この世界がなぜ存在するかについて、あるいは存在の理由をもたないことについて、

自動的に理解されることがたくさんある。

ドアを開けて、出て行かなければ、どんな意味においても、生きていることにならない理由であるとおもいます。



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