汚れた言語に

まだ日本語を、やっと書き出したころに「憎悪の王国日本」という記事を書いたことがある。

日本にやってきて観たままを書いたつもりだったが、当時は「はてな」という後で判ってみるとネットの憎悪の中心のようなコミュニティに、暢気にも、それと知らずに、「せっかく日本製のコミュニティモデルサイトがあるのだから」という理由で、ブログとして書いていたせいで、反応が大きかった。

反応が大きかった、というより、有り体に言えば、罵詈雑言、「日本が憎悪の国だなんて、書く方が憎悪の塊なわけだが」と、すさまじい怒号で、ぶっくらこいちまっただよ、というか、このとき初めて、日本の仮面の下の「素顔」に遭遇したのだと言ってもよい。

日本語社会は、悪意の濃度が他言語よりも高い社会で、悪意の濃度が比較的に低い社会から来ると、いきなり憎悪をぶつけられてびっくりするが、失礼に驚いて言い返しでもしようものなら、たいへんで、「このひと、わたしを侮辱するんです」と自分が属するコミュニティのなかを駆け回って、仲間を募って一斉攻撃にかかる。

コンテクストを追う、ということを全くしないのも日本語人の特徴で「いつもなかよくしている人」が、「この人、加害者です!」と指さすと、そりゃあ悪い奴だ、で、わっと群がって、言語上の集団暴行に及ぶ。

すっかり加害者にされてしまいます。

だんだん判ってきて、どうでもよくなってくると、呑み込まなくてもいいコツが呑み込めて、落ち着いて考えれば、相手にしなければいいだけのことだと判ってくる。

山の麓を歩いていたら、野犬の群れが猛然と吠えながら走り向かってくるときに、これに「敢然と立ち向かう」のは愚の骨頂で、自分がそのコミュニティに属しているのならともかく、ヨソモノなのだから、自分の家である英語に帰ればいいだけで、実際に、シカトして頭のなかのスイッチを切り替えて英語に戻ると、不思議なくらい、綺麗さっぱり、どうでもよくなることが判った。

距離をとって、ところどころ混じっている醜い顔が見えないところまで離れてみると、あな不思議、日本はやさしい相貌で、たおやかな社会の稜線を見せている。

当たり前だが、英語社会にも、やな奴も、愚か者も、イナカモンもいて、

ニュージーランドなどは世界のなかのド田舎なので、「身なりが立派で高いクルマに乗って良い名前の通りに住んでいる」のが立派な人間ということになっていて、さすがに30代も後半になってきた最近はやらないが、裸足で通りをスタスタ歩いていたりするので、「どうしてこんなアンタッチャブルが我々の高級住宅地を歩いているんだ」という目によく遭った。

オークランドにいくつか家を買ってみようと考えて、不動産屋のウインドウに出ている良さそうな家について訊ねるために一歩店内に入った途端に、

「うちは貸家は隣よ」と言われる。

超高級住宅専門の不動産屋に入ったときなどは、受付のおばちゃんは、汚い赤いゴジラがついたTシャツと、やや崩壊したショーツにフリップフロップの風体からして強盗だとおもったのか、真っ青になってガタガタ震え出す始末で、ことほどさように外見がすべてで、外見がホームレスのおっちゃんに「もう少し、どうにかしたほうがいいんじゃないのか」と意見されるくらい酷かった風来坊としては、苦難も多かった。

最近は、あんまり出歩かないし、出かけても、お互いに顔を知っている場所を訪問するだけなので、ネット上もおなじで、英語では不愉快な人間を見ない。

初めのころは、投資が職業といえど、人に会わなければならない用事がたくさんあったが、最近はもう、「完全に無為ならば自分の意思や邪念に煩わされず完全に正しい判断と思惟ができる」、老荘の理想、真人の域に達しているのではないか。

自分の宏壮と呼べなくもない家の裏庭を散歩して、マリーナにでかけて、うんとこしょ、とディンギーを引っ張り上げたり、給水して、マリーナ内のディーゼルスタンドで給油して、あるいは、クルマのガレージで、軽く80年は経っているジーチャンカーをオイル塗れになって直したり、要するに、いいとしこいてひきこもりなんじゃないの?な生活に明け暮れている。

英語ばっかりで暮らしていると飽きるので、あんまりたくさんはない、その言語で考えられる程度には身についた言語世界に遊びに行きます。

むかしなら、ダンテ・クラブ、なんちゃって、名前が付いた社交クラブまで出かけなければならなかったが、いまはインターネットがあるので、めんどくさいので言語別になっているコンピュータに、びょおおおん(←和音)と電源をいれて、日本語なら日本語を訪問する。

条件反射を示すのはパブロフの犬さんだけではなくて、そうすると、いかなる自然の神秘にやありけむ、こちらの頭も、びょおおおん、と日本語に切り替わって、対角50インチの隅から隅まで、見渡す限り日本語の海を逍遙することになる。

でもtwitterでは英語人もフォローしてるよね、と言われそうだが、あれは初心のころの、日本の人の悪意への対処法が判らなかったころに出来た友だちの人びとで、主にDMのやりとりに終始しているが、最近は器用にも日本語であたふたしている途中で、パチッと英語に切り替えるということも、脳が不調で失敗する場合もあるが、出来なくはないので、息抜きというか、友だちを息抜きにしては申し訳ないが、オアシス代わりになっている。

最近は日本語人友でも極めてすぐれた知性の人と会えて、普通に、英語なみに、静かに話ができるので、英語人を日本語ツイッタでフォローする必要もないが、友だちは必要でつくったり撤廃したりするものではないので、

そのまんまになっている、ということです。

ことのついでに述べておくと、あそこに並んでいるツイッタ友は、英語を書くのが仕事のひとたちで、地元の新聞に書いたり、ワークショップに加わって雑誌に発表したりしている人達だが、素晴らしい、美しい英語を書く人達で、日本の人が英語を書くときに参考にするのに最適だとおもう。

閑話休題

そうやって、ふらふらと言語世界を、ちわああーす、と呼ばわりながら歩いて、日本語を訪問すると、このごろは、あんまりこちらに向かって飛んではこないが、やはり悪意が多すぎるような気がする。

特に自分では高い学歴であるとおもっていたり、ひとよりも賢いと自己を評価しているひとたちが、なんだか張り切っちゃった日本語で、「政府を批判」したり「ジェンダー問題を語った」りするのはいいが、どうにも人が自分と異なる考えでいるのを我慢できない人もいて、

わざわざ見知らぬ他人のツイッタアカウントにやってきて、

「あんた、バカなんじゃないの?」のひとことですむ内容を、仔細らしく、もっともらしく、相手の感情がなるべき傷付くように懸命に工夫した言い回しで、言い残していく。

言われた方は、傍目にも、あきらかにムカムカして、自分の波だった感情を収めようとしているのが判るが、見ていると、まる一日かかることが多いようです。

いろいろな人が「そんなのネット上だけですよ」というが、なははは、そんなわけはないので、自分が「属している」と感じる社会のネガティブな側面を指摘されるのが嫌で、そう言ってみるのでしょう。

悪意というのはね、隠そうとしても、チラチラと覗いてしまうものなんです。

気楽に中傷するなり冷笑なりをやるほうは、時間の無駄は数分だが、言われたほうは気持を旧に復するのに一日、どうかすると数日かかる。

何日たっても気持が解決されなくて、弁護士に相談したりする。

その数日で書けたかもしれない物語や論文や、絵は、彫刻は、たいていの場合、永遠に姿をあらわすことなく、脳のなかの沈黙の闇に消えていきます。

傍からみていると、日本の沈滞の原因はこれで、西洋式の理屈を適用すれば、そんなバカな原因はなくて、人口が単調に減少してマーケットが縮小しつづけているのが原因ということになるが、その人口の減少にしても、悪意によって生きづらくなった社会が原因かも知れないでしょう?

日本の人は「自由社会」を勘違いしていて、誰でも、おもいついたことをなんでも言っていいとおもっている。

そりゃ、法律上は、もちろんそうですけど、人間は法律で生きているわけではないので、たいていの場合は、単に「おれはあんたを認めない」というだけの、失礼なことや、もっと深刻ならば、性差別、人種差別的なことを気楽に述べていいわけはない。

何度も引用する、中村伸郎の

除夜の鐘 おれのことならほっといて

には、字面以上の、独歩の俳優だった中村伸郎の、日本語社会への苦々しさと、うんざりした気分がこもっているのでしょう。

スペイン語人やポルトガル語人は、驚くほど他人を放っておいて余計なことを言わないですませるひとたちで、バルセロナの生活の心地の良さは、そこから来ている。

そういうと、驚くべし、日本語では、「それは間違っている。バルセロナはカタロニア語ですよ。あなたの偏見と無知には飽き飽きした」とオオマジメに述べる人が現れるが、この人自身は「オラ!」も言えない人であるのは判っているので、事情を説明する気が起こらない。

後で、そうか、あいつはなんでも判っているようなことを言っているが、

カタロニア語も知らないほどスペインについて無知だそうだ、と述べあっているひとたちを発見して、いやあああああな、気持になるだけです。

バルセロナのギターバー(←カラオケバーのギター版です)で目撃したカタロニア人たちの、びっくりするような「異なる他人」への許容度の高さは、以前に何度も書いたので、もう繰り返さないが、自由な社会は、一方では

他人のことは、何も言わずに、ほうっておける、「自分には判らないこと」への許容度の高さを必須の条件としている。

英語社会も、やや異様な社会であるアメリカ都市部を別にすれば、やはり「他人がやることに口出ししない」が前提だが、こちらは文明の深みから来ているスペインとは異なって、「余計なことはやらないで無駄を省く」、英語特有のビンボ症から来ているのでしょう。

ドイツ語は判らないし、妹によれば3ヶ月もあれば身につく言語だそうでも、あんまり、身に付ける気も起こらないが、お節介野郎揃いで有名で、集団に属すことを強制される社会であるようで、なんだか日本に似ていて、それでどうやってあんなに効率的な社会が出来上がるのか判らないが、これは、それこそ知らないからに決まっていて、考えるだけ無駄なので、ほっぽらかしになっている。

「警視庁物語」というテレビ時代以前の映画シリーズがあって、菅井きんや花沢徳衛、加藤嘉という日本映画ファンなら「こたえられない」俳優たちが、レギュラー刑事役の花沢徳衛以外は、入れ替わり立ち代わり、役どころを変えて、定食屋のおばちゃんだったり、肺を病んだ内職主婦であったり、宝石商や大学教授になって現れる、一時間半の宝石のような時間をもらえる。

むかしの銀座や数寄屋橋が、長回しで撮られていて、例えば日比谷のいまはゴジラ像が建っているところには、「日比谷ドライブイン」なるレストランがあって、いまの意味の「ドライブイン」ではなくて、クルマで乗り付けると、ドライブスルーで並ぶわけでもなくて、ウエイトレスがクルマにやってきて、注文を取って、客のほうは「ハムサンド、頼むよ。あとコーヒー。急いでね」なんて言っていて、ぶったまげてしまう、というような楽しみに加えて、犯人の面が割れないまま、列車乗客の誰かが犯人というところで、田中邦衛が出てきて、あっ、この男が犯人だな、とおもって観ていると、な、な、なんと田中邦衛はただの端役で、その場面切りだったりして、

波乱万丈、面白いことこのうえない。

結局、24作のシリーズを全部観てしまったが、1956年に始まって1964年まで続いたこのシリーズを見ると、いまの日本の人とは全く異なっていて、他人のことは詮索しないのが不文律になっていたのが判ります。

刑事が聞き込みに行くでしょう?

いまの刑事ドラマと異なって、ていねいな敬語で折り目正しく話すところに、もう驚かされるが、遊び人の情夫が、「あんなバカな女、結婚なんて、しゃらくさい。その死んだ子供、おれの子供のわけないじゃないですか。なに、夢を見てるんだ」と悪態をついても、表情も変えずに、「なるほど」と述べて、それきり黙っている。

全編がunderstatementで、言葉も物腰も抑制されていて、それが見るからに貧しい社会全体に、decencyを与えている。

もしいま、この映画を多少でも能力がある投資家が観たら、日本に飛んでいって、有り金を投資するでしょう。

その居心地の良さから家も購入するに決まっている。

と書いて、気が付いたが、考えてみると、この時代にはシャーリー・マクレーンを初めとして、世界中の、あちこちの土地を知っているハリウッドの有名俳優たちが東京に別宅を構えていたはずで、ああ、そういうことか、と考えます。

残念なことだけど、多分、日本は、国民の悪意の蔓延によって亡びた社会として歴史に残るでしょう。

地球の反対側にはカルタゴという有名な例があるが、日本の場合は滅亡のためにローマが必要だとも、おもえない。

悪意が日本語社会ほど異常な増殖を遂げたのには、さまざまな理由があると、おもっていますが、それには一冊の本をなすほどの日本語を費やさなければ説明しきれない。

せめても50年代と60年代の日本語という、追加された「居心地の良い家」を訪問して、静かでdecentな言語世界を楽しもうと考えました。



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3 replies

  1. > スペイン語人やポルトガル語人は、驚くほど他人を放っておいて余計なことを言わないですませるひとたちで、バルセロナの生活の心地の良さは、そこから来ている。

    ガメさん、これ書いてくれてありがとう。昨晩はpreachersが周りにたくさんいて面倒臭かったので、このことに言及してもらえたのがちょっとうれしかった。

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