続ビンボ講座 その20 燃えよ、田舎暮らし

 

 

戦時中、軽井沢には様々な国籍の外国人たちがいた。

同盟国人のドイツ人が多かったが、公使館があったスイス人や、ドイツに降伏したフランス人、日本に帰化したアメリカ人やイギリス人もいたはずです。

1942年生まれのロバート·ホワイティングなどは、伝聞なのでしょう、「町ごと収容所だった」と、たしか書いていたが、

収容所だとしても「軽い幽閉」とでも言うべきもので、軽井沢のなかにいれば、憲兵隊も敵国人も、お互いに干渉しない不文律がある、不思議な空間だったようです。

戦後の研究で、スイス公使館の要請によって、アメリカ軍の空襲対象から除外されていたことも、いまでは、判っている。

案外な自由空間で、(いま見ると日本語ウィキペディアには戦後に疎開した、と書いてあるが、戦時中もすでに軽井沢の万平ホテルに続く道に面した家に住んでいたはずの)ポール·ジャクレーなども、お化粧をして、日本の女の人の歩き方をまねた、下駄履きの女ものの浴衣姿で、なよなよと歩いていて、地元の日本の人たちをギョッとさせたりしていたもののよーでした。

俄には信じがたく、ぶっくらこくことには、そういうウルトラにチャラい格好で、しなを作って歩いていて、憲兵隊にいちゃもんをつけられることもなかったらしい。

多国籍コスモスのゆるいコミュニティのなかは、意外に息がしやすい場所だったように見えるが、困ったのは食料で、戦時中の外国人ということで、

ほぼ全員ドビンボで、佐久平や御代田に伝手があればともかく、なにしろ、もともとは作物など、なんにも穫れない土地柄で、やむをえないのでキノコについて、みんなで情報を交換して、森に分け入って、食べられるものを採って飢えを凌いだという。

ちっこい、蔵書があんまりない軽井沢図書館で、むかし語りを読みながら考えたのは、「東京じゃキノコ狩は出来ないよね」ということで、そういうヘンテコリンな反応を示す人がいるから、本を書く人は油断できないが、

もしジャクレーたちが東京にいれば、多分、飢え死にしていたのではないかと考えました。

ビンボは都会に住んでいる人間にとってのほうが、つらい。

子供のとき、ニュージーランド南島の、カンタベリのド田舎に、かーちゃんが買った農場にいることも多くて、馬さんや鹿さんと一緒に、「やっぱり」と考えた、そこのきみ反省するように、テラスで踊りまくる仔牛さんなんかも一緒になって、楽しい夏を過ごしていた。

だんだん、近所のおっちゃん農場主たちと仲良くなってみると、当時のニュージーランドのこと、おっちゃんたちは、びっくりするほど貧乏で、

年収が、1万ドル、当時の円通貨レートでいえば、60万円、なんていう人もいた。

レタスをつくって、道端にならべて「この箱に2ドルいれてね」と記した箱を置いている。

近所で屋根を葺き替えると聞くと、手伝いに行って、なにがしかのオカネをもらう。

果樹園にリンゴを拾いにいったり、もう、ありとあらゆる端布仕事のあわせわざで、食うや食わずで生活している。

それで田舎のどんづまりで、暗ああああい人生を送っていたかというと、豈図らんや、四十歳や五十歳の、いいとしこいて、「あんた、いくつ?」なガキンチョぶりで、

休日でもなんでもないのに、いきなり鉛管工事や電気工事の仕事をさぼって、なかよしの4人で集まって、誰がが入手してきた「日本酒」のレシピで、裏庭で「サケ」をつくって、ところが、この「サケ」が60度ほどもアルコール分があるという代物で、4人のうち、3人は気絶して、サバイバーのひとりが必死に這って、電話にしがみついて救急車を呼んで、ようやく命を取り留めたりしていた。

ガキどもはガキどもで、崖の下に転落したクルマの車体やタイヤ、ハンドルの輪、部品が点々と転がっている崖っぷちの細い道を、最年長者の13歳リーダーが運転して、0.9車線の道をたどって丘の反対側に行く。

ここは、ぼくも好きで、賢くもクルマなんて当てにならないのを知っていたので馬ででかけたものだったが、隠れ里で、な、なんと地図に載っていないおおきな滝がある。

滝壷で、みんなで水遊びをしていれば、あっというまに夕闇が迫ってきます。

あるいは、河原や森のなかには、子供たちだけの秘密の温泉があって、

石を避け、地面を掘っていると、温泉があって、寝転がって、南半球特有の雄大な、煙るような天の川を眺めながら、みんなで子供なりに陶然とする。

もちろん子供たちだけでなくて、おとなたちも、遊びについてなら、やたら知恵が生まれて、高い橋の上で、下を見下ろして、つんおい長いゴムがあれば、飛び降りたら、びよおおおーん、びよよよおーんになって、めっちゃ面白いのではなかろうか、と考えたりする。

やってみると、これが、ものすごく面白い遊びで、結局この人、「バンジージャンプ」を考えたハケットは、事業化して、ボロ儲けで、たしか散財が過ぎて破産したときはパリで豪遊生活を送っていたはずです。

(これもついでに日本語wikipediaをバヌアツの伝統が発祥だとか、オックスフォードの学生が発明したのだとか、仔細らしく書いてあるが、へえ、そうなのかあ、お話としては聞いたことはあるが、おなじものと言えるかどうか、本旨と関係もないので、ニュージーランド人が信じている話のほうでとどめておくことにします)

大都会は経済発展のメカニズムのなかで出来上がるので、当然に、そこに生きている人のあいだに勝ち負けがあり、激しい競走が存在して、個人の懐ろ具合が経済に鋭敏に反応する。

それに較べると田舎は自分の知恵で、自分の生活を豊かにできるのは、日本でも、ほぼ自明に思える。

「夏の家」を持っていた軽井沢は、東京の飛び地のような町で、ほんとうの田舎としての軽井沢と、おフランスと同じ路線の感情で出来た、お軽井沢と、ふたつの重層で出来たように見えたが、周りの土地は純然たる田舎で、

ニュージランドで田舎遊びのコツを身に付けていたぼくとしては、落ち葉が覆って、タイヤの轍ひとつもない県道のまんなかに、やおらピクニックのマットを広げて、モニさんの歓心を買ったりしていた。

オークランドで、いまでも、人の眼から隠れたビーチに出かけるときも、おなじことをするが、ポットに紅茶やコーヒーを詰めて、サンドイッチをつくって、岩場や砂浜にでかけます。

自然の造形は、人間の感覚などは遙かに越えて巧みに出来た美しさなので、

冒頭にかかげてある画像は、カレカレの浜辺だが、自然もこれくらい美しくなると、おもしろいことに、神様がつくったCGのように、非現実と感じられる。

もう気が付いたと思いますが、あんまりビンボになってきたら「田舎に越してライフスタイルを変えてみる」という方法もあると思っています。

そのうえに、前回の記事で書いたように、細々とでもオンラインで海外に収入ソースがもてれば、もう最高の生活が保証されている。

長くなって、また悪い癖で、飽きてきたので、そそくさと書くと、

えええええー、とお下品な声で不満を述べる人がいるかもしれないが、田舎でfrugal lifeを送るコツは、クルマを持つことです。

ぼくは足が入らなくて、つまらない思いをしたが、身体のサイズが夫婦ともに標準サイズの人は、軽トラがいいとおもう。

日本の田舎暮らしに、あんなに最適なクルマはない。

オンライン収入が増えて、潤ってきたら、特に冬に道が凍る北信や東信を選んだ人は、ジムニーを買えば、誰に聞いてもカンドー的だと述べる悪路走破能力で、車体が軽いので、凍った路面でも安全に走れる。

不幸にもガタイがでかい場合は、最も軽いクルマというとジープのオープントップくらいかしら。

クルマを運転する人の欧州と、運転しない人の欧州は、まったく異なる土地で、無理をしてもシトロンのTTプログラムかなにかで、数ヶ月でいいからクルマをリースで借りて旅行したほうがいいのは、前にも書いたが、極端なことを言うと、都会は、どの都会でも、ただの都会で、意匠が異なっても、どこでも同じでつまらん、と述べる人は、例えば美術の世界には多い。

それは多分、人間の想像力に限界と型があるからで、例えばメキシコのセノーテのようなとんでもないものは、神様の頭からしか生まれない。

ちょーオンボロのクルマを駆って、近所の佐久農業高校や農家が育てた、「ただで、いくらでも持っていっていいですよ」の立派なズッキーニや、ビートルート、きゅうりになす、と直販所で買っていくあいだには、「なんで都会にいたんだろう?」と考えるようになっているとおもいます。

「田舎をそんなに好きなのはガメが外国人だからだよ」と、よく言われた。

田舎は人間関係がうるさくて、しつこい。

軽井沢でさえ、何度か出かけたコーヒー屋に次の年には行かないと店主から電話がかかってきて「どうして来ないんですか?浮気して、ほかの店に変えたの?」って言うくらいだし、だいたい、あの人たちはね、ちょと常連になると、すたすたと厨房に入ってしまうくらい馴れ馴れしくて、あんな、ちょっと油断すると居間どころか膝の上に上がり込んでくるような人たちがいる所に住めませんよ、という。

そう言われてしまうと、イギリスの田舎も、ある日、誰かがノックするのでドアを開けてみると、見知らぬおっちゃんが立っていて、「きみは、いっつも午前3時とかに起きてなにかやっているでしょう。道から見えるんだけど、いったい、あんな時間に何をやっているの?」と好奇心だか警戒心だかで聞かれたりするので、思い当たらないわけではなくて、なるほど、その点で工夫はいるよね、と考える。

よく判らないことについて解決を提案するわけにはいかなくて、無理矢理考えても「ガイジンのお面をつけて髪を金色に染めて、ガイジンのふりをする」とか、バカなことしか思いつかないが、ひとつの方法は、ちょうど結果的に、いままでに積み重ねた仕事を見て以来ずっと尊敬している年長友、巖谷國士さんがやっているように、軽井沢の千ヶ滝のように、あんまり近所の人が干渉にやってこない地域の家を買って「準都会」の土地柄の所を選ぶ、という手はありますね。

おなじ軽井沢でも、近所のひとびとのやることに四六時ちゅう眼を光らせているような南原のようなクソジジイやクソババア …. 失礼しました、良識が豊かすぎる公共良俗の意識がやや過剰なひとびとが住む地区を選ぶと、なんだか、えらいことになりそうな気がするが、千ヶ滝から西、大日向は満洲移民が集住した歴史的経緯から、あんまり仲良くしてもらえなかった、とイギリス人ばーちゃんが述べていたが、追分まで行ってしまえば、むかしから学者や文人が多かった追分は、テキトーに放っておいてくれて、

ぼくが偶々知った80歳になんなんとするばーちゃんなどは、朝から近在のばーちゃん同士、78人も寄り合って、佐久の日本酒「寒竹」の一升瓶を並べて小皿を叩いて飲んだくれていて、毎日一升は飲むから、わたしはね、お米のご飯は食べなくてもいいの、と朗らかに述べていた。

いちど近くに来たら寄ってくれ、と言うので、朝の9時に立ち寄ったら、もうすっかりみんなで出来上がっていて、ドアを開けた途端に、文字通り「あら、えっさっさあー」と歌い踊る、ばーちゃんたちの、酔いどれた、ワイルドな勇姿を見てしまった。

ついでに言うと、「寒竹」は、おいしい酒だが、さすがはビンボ生活の友というか、日本でいちばん安い日本酒のひとつでもあるそうです。

もうひとつついでで述べると、ここに集って、裾をたくしあげて踊り狂っているばーちゃんたちは、日本橋、神田、浅草、

いずれも東京の下町で生まれて育ったひとたちであるようでした。

軽井沢に夏の家を買うかどうか迷って、まず近代的なスーパーがないと困るので、鳥井原のスーパーマーケット「ツルヤ」に行ったら、駐車場が東京はもちろん、鎌倉とも較べ物にならないくらい広くて、ふつうに西洋式の生活ができそうだったので先ず安心したが、自分たちと同族のおばちゃんが買い物をしていたので、モニとふたりで、「軽井沢の生活は、どうですか?」

と聞いたら、おばちゃんは、「ここは天国よ」と言う。

いろいろ根掘り葉掘り聞き取り調査をして、家を買ったが、東京の気候が悪化したこともあって、振り返って、買ってよかったとおもってます。

日本でも素晴らしい田舎暮らしが出来て、軽井沢にいるあいだは、実際、ほとんどオカネも使わなくて、夜更けに野辺山あたりまで足を伸ばしてドライブして、フォードのトラクタが乗り捨てにしてある、なんだか風景に馴染みがある農場のわきを通ったりして、どこまでも暗い森や、月明かりに照らされた川辺を、モニさんとふたりで散歩して、満喫した。

軽井沢の南端にある発地には、夏の、ほんの一瞬の期間だが、ホタルが群棲して、冷たい炎に包まれて輝く「ホタルの木」もあったりして、都会に較べると田舎は、日本でも神様に直截に祝福されている。

ダメならダメで、都会に戻ればいいだけのことだし、やってみればいいんじゃないかなあー、とおもうんだけど。



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