感情言語としての日本語

日本語は感情表現が豊富な言語だとおもう。

もともと繊細な感情など持っていない山賤は別にして、日本語は、感情のひだのひだ、その裏側、微細な動きまで表現しうる点で優れた言語で、語彙を入れ換えなくても、

わたしは、あなたを愛する。

わたしは、あなたを愛しています。

わたしは、あなたを愛しているんです。

ぼく、きみを愛している

ぼく、きみを愛してる

ぼくは、あなたを愛してます。

全部、意味はおなじだが、異なる感情を表現している。

単純な推測を述べると、漢字の「真名」は詐称で、日本語のほんとうの「まな」は、ひらがなで、そのひらがなが宮廷の女のひとびとによって次第に洗練されていった日本語を書き表す文字で、日記や、手紙の類におおく用いられて、しかも、和歌という定型を含む習慣のせいで、その定型詩の外側に広がる散文世界は、不定型な、やわらかい動きのものでよかった事情がありそうです。

その感情表現の多様さが、どれほど圧倒的なものかは、平安期の文学を読めば明らかで、近代日本語は、詩という形で、日本語の正統を受け継いだが、

鮎川信夫の初期の詩や、田村隆一、岡田隆彦、なかんずく岩田宏の詩を読めば、これを英訳するとして、いったいどうしたら、この感情の微細な機微が英語に訳せるだろうか、とボーゼンとする体のものです。

精密に出来たものを乗りこなすには訓練がいる。

日本語も例外ではなくて、例えば非母語人が母語並の文章を書けるようになるまでの労力を考えると、感覚的に見積もって、日本語は英語の十倍くらいも時間がかかりそうでした。

英語などは、案外と簡単に母語の水準に達して、その証拠に、12歳くらいから始めた人はもちろん、20歳を過ぎて英語を初めて習得しはじめて、母語人よりも遙かに優れた英語を書く人は、昔から、たくさんいて、

このブログでは、日本の人は文学と言わず音楽と言わず、古いビッグネームが好きなので、20歳で初めて独学で英語を習い始めたジェゼフ·コンラッドやドイツ帝国のミュールハウゼンに生まれた、ヴィルヘルム·ヴァイラー、後の亡命ユダヤ人ウイリアム·ワイラーの例を挙げたりしていたが、

現代の英語世界を見渡すと、非母語人の職業的な英語作家だけで、何百という数で存在して、このブログ記事でも、Arundhati Royを始め、何人も紹介してきた。

非母語人の英語の特徴を話し出したりしていた十余年の以前とは、また、状況は異なっていて、もうあんまり言挙げするほどでもないというか、

英語で考えて、英語で書くのは、普通の習慣になっていて、数カ国語を普通に母語の水準で話し、書く、Lena Boroditskyのスピーチを取り上げたときに書いたが、異なる言語によって、思考そのものも、人格も異なって、異なって、といっても、あたりまえだが、180度というような異なりかたのわけはないが、例えば日本語では青としか意識されない色彩の幅のなかで、ロシア語人はgoluboysinyの明瞭に異なるふたつの色彩として認識していて、

ほぼgpluboy+siny=青くらいの集合のおおきさになっている。

統計をとると、どういうことになるのかは判らないが、いつのまにか世界共通語に化けて、これで考えて書いたり話したり出来ないと、世界に参加できなくなってしまっている英語と、生まれた地域の言語のふたつの母語を持つ能力の人はもちろん、多言語で異なる認識空間を旅して遊ぶ人たちの数も、

誇張ではなく指数関数的に増えて、なんだか周りの若い人を見回しても、

名うての言語習得下手の英語人でさえ、イギリス語人にとってのフランス語、アメリカ人にとってのスペイン語などは、理解できて普通、判らないとなると、なんで?ということになってしまっていて、

例えばニューヨークやマイアミでスペイン語が判らない人などは、状況によって、下手をすると人種差別主義者なのではないかと思われかねない。

そういう21世紀も四分の一が経った時点での言語事情は、ヒットチャートを見れば一目瞭然で、自分が好きで、こういう歌知ってる?と引用したyoutubeの歌を見ても、歌詞の半分がフランス語やスペイン語で歌われているなんて、ごく普通で、スペイン語の歌が英語のヒットチャートに並んでいたり、もっとテキトーな人になると歌詞のセンテンスが英語で始まっているのにスペイン語で終わっている、あるいは、その逆、というようなことも、よくある。

日本語人は英語で考えて話したり書いたりすることを頑なに拒んでいるうちに、悪いこととは言わないが、どっか、他の世界に引退してしまったように見えます。

異なる精神世界に民族ごと、日本語を乗り物に、引っ越してしまった。

その結果、起こったことは言語上の生態隔離で、言語全体として感情が肥大化して過剰になって、語彙を適切に選ぶ訓練が出来ていない人たちにとっては、現実と一緒に感情を鷲摑みすることなしには、事実を記述することが出来なくなってしまっている。

散々、いままで書いてきたので、もういちいち例はあげないが、感情まみれというか、日本語ほど自他の感情を煽り、相手の感情をやわらげたり傷つけたりすることにエネルギーを費やす言語は、他には見あたらないようです。

弛緩した言語感覚で書きはじめると、濃厚に感情が浸潤してしまうのは、明治の頃から意識されていて、抒情詩人として出発して、食べるために小説家に転向しようと考えた島崎藤村が、まず自己の日本語訓練プロジェクトとして始めたのは「千曲川のスケッチ」という、感情を極力廃した、世にも退屈な散文を書くことだった。

目論見は成功で、いまでも日本の散文の名作として称揚されています。

現実を現実のままに、「ポンッと眼の前に放り出すように書けない」日本語が、生態隔離されて、野放しになって、そのうえ適切な訓練を与えられないまま日本語人として生きることになった日本語人が、どういう局所的進化を遂げることになったかというと、言語的な雑種不念、雑種死滅に弱勢、雑種崩壊というような基礎になる部分での孤立化を起こして、ついに、世界を認識する言語として不適当なところまで来てしまっているように見えます。

平たく述べると、言語集団全体として、なんだか、ものすごくヘンなことを考えて、少しも怪しまない言語世界を形成するに至った。

日本語が判る友だちが、日本語ツイッタを、ものすごく面白がっていて、なにが、そんなに面白いの?と訊くと、ツイートに対して下に連なっているリプライが、全然、返事になっていないところが面白い、という。

どれどれ、と指さしたところを眺めて見ると、なるほど、元ツイートをちゃんと判っていなくて、トンチンカンな曲解が多いが、しかし、観点を変えて感情の面から見直すと、相手がこう思っていると推定したことに対して自分の感情をぶつけているので、感情と感情の対話としてなら、ちゃんとツイートとリプとして成り立っているのです。

いつか、日本語は論理や事実の対話であるのをやめて、感情と感情の会話になりつつあると述べたことがあるが、いよいよ大詰めで、

日本語は、感情語として再生されつつあるように見えました。

無責任なことを言うと、他にそんな言語はなくて、面白いのでいいのではないかとおもうが、実際、社会の運営には役にたたない言語になってきているので、困るといえば困るとおもうが、そっちは英語でやればいいのではなかろうか、とおもってます。

日本語の外から眺めている人間にとって困るのは声がおおきいひとたちや大多数のマジョリティをなす人達の品性が毎年毎年低下しているように見えることで、例えば、日本語では、ごくごく普通で、ヘンテコでもなんでもないことに、お笑い番組やバラエティで人気があったテレビタレントが亡くなったりすると膨大な数の哀悼のツイートが並ぶのはいいことだが、「志村さん、向こうへ行っても、お幸せに!多くのことを教えてくれて、あなたから、たくさんのことを学びました。ありがとうございました!」と、親しみと敬意をこめて呼びかける日本語が並んでいるのは、小さい声でいうと、根が非母語人な人間が見ると、やはりギョッとする。

頭では、よく知られているとおり、日本はテレビタレント、特に「お笑い」タレントの社会的地位が異様に高い社会で、特に若い人にはおおきな敬意をもって人生や自分の言語の範とされていて、実際、タレントのほうも、その後、政治家になったりする人も多くて、そうこうするうちに安倍政権の面々に典型的に観られるように、政治家のほうがテレビタレントの人間性や行動を模倣するようになっている。

誤解してはいけないが、「前例がないこと」が「三度の飯よりも」好きな、ぼくとしては、日本が、この特殊な進化の道をたどって、どんな社会になってゆくか、楽しみにしています。

固より近代日本語は倫理語の語彙をすら持たず、倫理など社会として持ちようがないことは、なんども説明した。

武士の時代は美意識によって倫理を代替させていたが、近代に至って、日本語人は、西洋倫理の欠落を意識して、倫理という定型がないのだから当たり前だが、突然おおきくバランスを崩す社会のありさまに苦しみながら、なんとか社会としてのdecencyを保とうとして苦闘している。

日本社会の苦しさは比較対象をうまく持てない孤立文化の苦しさでもあるが、皮肉なことに、そうやって形成された言語的生態隔離社会の日本は、世界の側から見ると、貴重な、「他とは異なる文明社会」として機能している。

例えていえば、チェーン店とショッピングモールばかりの町に、むかしながらの天神橋商店街があるようなものです。

おお、ここに、こんなものがある!と大喜びしながら、なんだか急峻な階段を駆け上がって、眼が輝かせる若い非日本語人たちが、コロナ禍が終われば、おおぜい、日本を訪問するに決まっている。

いよいよトヨタもダメになったら、観光立国で行けるんじゃない?

と、時々おもう。

感情は過剰になると自己増殖して、腐敗し、攻撃的になる特徴もあって、現代日本語は、すでに徴候を示しているが、

そのときはそのときで、また、そうなってから心配すればいいのでしょう。

日本語、どんなふうになっていくのだろう?



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4 replies

  1. > 日本語は、感情語として再生されつつあるように見えました。
    >
    > 無責任なことを言うと、他にそんな言語はなくて、面白いのでいいのではないかとおもうが、実際、社会の運営には役にたたない言語になってきているので、困るといえば困るとおもうが、そっちは英語でやればいいのではなかろうか、とおもってます。

    ガメさん、やっぱこれはキツいかなぁ。外国人として日本を訪問するだけならいいけど、これが生活になっちゃうと、さすがにね。

    仕事だけなら、外資系の会社で英語メインの生活してりゃいいんだけど、プライベートが死ぬんですよ。
    感情に振り回されて、感情の同化を強いられるのはどうも昔から苦手だし。

    たとえばコロナワクチンの件で最近、イタリア人と話してたら、日本人は他人に迷惑をかけないようにコロナワクチンを打つのがいいんだ、日本人ならそういう感情を持つ、と横から言い出す日本人のオジサンがいて、メンドクセー、と思いました。
    他人に迷惑かける、かけない、よりもまず、自分をちゃんと守るためにリスクを避ける意味でコロナワクチンを打つんだよ、という言葉がなぜ出てこないのか、ってことです。
    そこを考えた上で、打つ、打たないという話になり、他人に迷惑をかける、かけない、はあくまでオプションでしょう。
    結果論にすぎない。

    なのに、感情的に、他人のことを考えるのが美しいからということで、いつの間にかそれが正論になっちゃうのが日本。
    だから信念もないし、インテグリティもないし、自分がない。

    やっぱそういう社会で暮らしていくのはキツいので、多少不便でも別の国に移住したいなと思うのです。
    うまくすると、今年末に頚城から逃れることができて、それができるようになるかもしれないし。

  2. はじめまして。
    ガメさんのお話に、うなずいたり、意気消沈したりしています。
    ガメさんが紹介されたコメントの類は読みませんが、お尻がもぞもぞいたしますね。

    昔、スイス人の友だちが遊びにきて近所の友だちを呼んだとき、
    「○○さんは英語の方がわかりやすい」と言われてびっくりしました。(友人も私も英語が得意とかではありません)そんなに自分の日本語が妙だったのかと思いましたが、日本語というのは微妙と曖昧がいっぱいのことばなのでしょうか。

    私は学校だけで英語と付き合ってきましたが、数冊のペーパーバックを、半分意味不明でも読み通したことが一番、実になったと感じています。小学校への英語導入策にはハテナがいっぱいなので、孫にはそう伝えたいと思います。

    • ガメさん、初めまして。
      Twitterで見てガメさんのことを知りましたが、やっぱ天才って居るんですね。と。
      漢字で表した時と仮名で表した時の感情が違う。なんならカタカナでも違う。
      主語の言い方がイッパイあることも、それをすげかえるだけで意味が変わることも……
      そういうものに気づくなんて、もはや日本語能力が半端無くて、大丈夫?天才すぎじゃね?としか思えません……。
      日本語が感情まみれで、気を使い過ぎて疲れる。
      本当にその通りです。もう、ビジネスメールの面倒臭さときたら……。はぁ…

      私の友人に、とある大学教授のアメリカ人(日本在住20年以上)と、翻訳業をしているアメリカ人、それから、5ヶ国語喋れるエジプト人が居て、その全員が日本語堪能で、喋ることも漢字でメールを書くことも出来るのですが
      その3人と他の日本語喋れる外国籍の友人全員を足してもガメさんの日本語能力には到底敵わないなんて。
      本当に驚きとしか言えません。

  3. > 日本語は論理や事実の対話であるのをやめて、感情と感情の会話になりつつある

    これはまさしくその通りで、何でそんなことがガメさんに分るのかと一瞬は思うのだけれど、あれだけの日本語を使いこなす人であるのだから、少し読んだり聞いたりすれば分るのは当り前なのでしょう。

    敬愛していた叔父が、近況を報告した我が妹の葉書の文章について、次のようなメールを私に寄こしました。

    > ○○さんから内容の濃いハガキをもらいました。末尾の「返信不要です」は、「ご返信には及びません」が無難ではないかとお伝え下さい。

    叔父としては、妹のハガキから感じ取った「ほんの少しの敬意の不足」こそが一大事であるようです。

    いや、まあ、何とも面倒くさい言語に成り果てたことだと「思わせていただく次第です」。

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