ある物理学者への手紙 8

 

日本語というとサムライドラマばかり観ているので、頭のなかがサムライドラマ語で、当然、本来のお侍の言葉とは異なるが、サムライドラマ語はサムライドラマ語で、戦前のトーキー以来、長い伝統がある人工語で、

奇矯な感じがしないのは、日本語の、隠れた財産です。

考証は、やりすぎるとドラマにならないし、鷹揚でありすぎると、ワインだろうがクルマだろうが、なんにでも蘊蓄がある、衒学おっちゃんがやってきて「事実と違う!」と、お手紙ならまだいいが、手軽に電話をかけてきてがなり立てそうで、苦労が忍ばれるが、最近のものは、やはり60年代あたりのものより、格段によく出来ていて、装束だけでなく、歴史蘊蓄おやじたちも、「おお、ちゃんと史実を踏まえているではないか」と、巧くスノビズムをくすぐられるようになっている。

例えば「麒麟がくる」というテレビドラマの桶狭間の戦いでは、いちいちナレーションをいれて解説したりはしないが、土砂降りの雨で、今川義元の本陣を目指す、織田信長たちの、実際の馬を知っている人がいれば、すぐ得心がゆく、文字通り地をゆるがす、怒濤のような駈け音も、姿も、かき消されて、今川方に発見されないですんだ、いま現在信じられている「史実」が反映されていたようでした。

なにしろ日本語は日常つかう機会がないので、修正のチャンスがなくて、サムライドラマ語が流入すると、日本語で考えているあいだじゅう、画面のなかのお侍になってしまう。

Twitterを眺めていて、巖谷さん @papi1889 や登希彦さん @ishikitokihiko が、おいしそうな手製料理の画像を並べていると、

「おお、馳走じゃな!」と考える。

ヘンテコリンなやりとりを目撃すると、

「おぬしらには議論というものが判っておらぬ」

と頭がひとりごとを述べている。

おなかが空いて、キッチンに行くときも、ホールウェイを、ドスドスと、ナンバ歩きをしそうな勢いです。

だから、きみが、表裏のある、今様思想の教条ばかり述べている輩を次々に引用して、あまつさえ、RTしたりして、左派系の教条さえ述べていれば大歓迎とでもいいたげなタイムラインをつくっているのを見て、

「ひとを、ひとの世というものを、なんと心得る。このうつけ者めが」

と考えたのでした。

あんまり知らない人なら、なんともおもわないけどね。

もう十年以上、友だちやってんでしょう?

嫌と言うよりも、耐えられないというか、きみの考えが浅いダメっぷりは、

「どうして、あんな人をフォローしているんですか?」というDMが来てしまうという日本らしい、なんとなくゾワゾワするような小事件があったりして、馴れてるんだけど、いいかげんにしろよ、というか、

いったい、いいとしこいて、大学の教授という、たくさんの若いひとを教える立場に立って、自他ともに認めるペドフィルおやじのフェミニズムツイートをRTしていたりして、閉口して、もういいや、と考えたのでした。

いくらなんでも、浅慮であろう。

きみは処世が上手で狡いところがあるので、「知らなかった」というだろうけど、それはあまりに幼稚な言い訳というべきで、

日本語人が日本語で述べられたことを読んでいるんだから、

述べてある日本語を見れば、どんな人間かくらいは見当がつくはずです。

前にもどこかに書いたおぼえがあるが、

「文は人なり」という、繰り返されすぎて、擦り切れて、陳腐化した言葉は、陳腐語なりに、表面よりも、ずっと深く、本質的な意味を持っている。

日本語は、自分の考え/言葉であるよりは、そのときそのときの意匠で、

みなが受け入れた教条を述べる人が圧倒的に多い、という特徴をもっているが、教条を述べているに過ぎないにしても、やはり言葉には、例えば品格の低劣さが滲み出てしまう。

自分ではふざけているつもりで2ちゃんねる語を使う人が、まず例外なく、

日本語に復讐されて言葉の戯れた使い方のほうから逆に、病魔が骨を冒すようにして、人格が腐ってゆく。

ぼくは自分の母語である英語世界でも、むかしから人に会いたがらないので、ほんとうは頭から角が生えて、尖った尻尾があるのではないかと、ヒソヒソされているが、会う必要を感じないからで、送ってきたemailを見れば、口述したものでも、自分で考えて書いたものでも、どういう人間かは、如実にあらわれている。

あんまり英語では頻繁には使わない単語とおもうが、SNSでは、

というかtwitterは、現実社会の人間関係に似ているところがある。

「どういう人間かは、周りにいる人間を見れば判る」というでしょう?

初めの23年は、そんなこと言ったって、たかがツイッタなんだから、とおもっていて、まあ、世の中にはいろんな人がいろんな考えがあるのだから、と考えたが、長い間には、現実の友人関係に似てきて、その人間の言葉に耐えられなくなることがあるのが判って来た。

そうおもって周りを見渡すと、ツイッタは、ときどき、ついでに覗いて見る、というような使い方をしている人は別にして、活発に発言している話題になるような人たちは、述べている教条がもっともであったり、良い観点を持っていたりして、どんな人だろうとおもってフォローしている人やされている人を眺めてみると、ぼくですら名前を知っているゴロツキや人間のクズがずらっと並んでいたりして、慌てて画面を閉じて、

「ああ、びっくりした。見なければよかった」とおもう。

簡単にいえば、ツイッタでも、長い間には、「友だちを見れば本人がわかる」という現実世界の、例の状態に近付いていくものであるようです。

これは初めから述べているように、ぼくは昔から

「友など要らぬものじゃ」とおもっている

死なうは一定、生まれてくるときも、去って行くときも、

人間はひとりなので、友だちなどは要らないが、

それでも、「友だちが出来てしまう」ことはある。

それは日本語であっても、ネットの世界であってもおなじことで、

出来てしまうものは仕方がない。

じゃれあったりするのは趣味じゃないし、まして、頭がカラッポのおっさんたちが言いたがるような「カルト」なんて、要するに感情が感情を伝えようとしているだけで、現実は、たいてい自分たちのほうがカルト的な、そういう感情攻撃語彙を使うのが嫌ならば、郎党的な、気持のつながりなどは、興味がないだけではなくて、鬱陶しいと感じる。

気が付いていると思うが、英語世界では、イーロン・マスクの考えが明らかになるにつれてtwitterはいよいよヤバいらしい、ということになっていて、

使っているほうは、別に気にやむことはなくて、文字通り囀る鳥の群がtwitterの茂みから、他の茂みに移っていくだけのことで、案ずるには及ばないが、それでも変化というのは、そういうもので、人と人との関係は変わって、疎遠にしていた相手は、見失ってしまうことも多い。

それはそれでいいのだけど、ただの勘で、きみの場合は、それではダメなような気がしたんだよ。

だから、ちゃんと何を考えているのか、述べておこうと考えた。

初めはDMで書いたんだけどね、我ながら、見るからに、バカバカしいほど長いので、ちょうどver.5のときから、いくつか書いた手紙もあることだし、

その続きの体裁にして、手紙を書くことにしました。

また、次の茂みで会えるよ。

また再び、まみえようぞ



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