東の空が白むとき

明るさが見えてきた、とおもう。

最近、なまってきたので、自分の身体を再建しなければと考えて、早起きして、遠くまで見える海や、靄にかすむ島の姿で、水平線の向こうから太陽がのぼってくるのを眺めて、早起きもいいかも、と考えたが、ここでは、そうではなくて、日本の将来のことです。

冗談やめてください。

あんた、12年も前に、最後に日本を訪問して、曖昧な記憶で日本社会を考えるから、そうなるんですよ、どん底ですぜ、日本。

経済もダメ教育もダメ、文化も古くさいサブカルで、女びとの権利はボロクソで、政治は元からダメ、

夜の底がどんどん深くなって、夜明けは遠くなるばかり。

まことに、ごもっともございます。(一礼)

でもね、ぼくにはぼくの言葉で、日本が、深い水の底を蹴って、水面に向かって浮かびだしていることが判るんです。

勝手にそう見えてしまっているのだ、ということは当然、ありうる。

日本が両腕にいっぱい抱えている問題のうち、最も根本的なものは、日本の人には、どうやた認めることがひどく難しいのであるらしい、

「英語が判らない」という問題でしょう。

日本語に訳して判ったって、どうしようもないのよ、とか、構文なんて口走る人は言語の習得ということを頭っから誤解しているんです、とか、そういうことは、もう三桁に達しそうな数の記事で述べてきたので、ここではもう省きます。

学校英語の成績がいいということは、そのまま、謬った言語習得の道の泥沼にはまって、胸まで沈み、肩が隠れ、あら、到頭、あのひと、左の手首が泥沼から出てるだけになってしまった、という状態の症状にしかすぎないのを認められない人は、よっぽど頭がどうかしているか、学校英語の習得にエネルギーと時間を使いすぎているので、そういう極東の最果て時代の、古色蒼然としてハマープロダクション映画のミイラのようにボロくなった言語習得は、ゴミ箱に捨てて、他の、もっとうまく行っている、フィリピンでもいいし、どこでもいいんだけども、教室の代わりに、主にインターネットのなかで学ぶ英語習得に変えていったほうが良さそうです。

だって、日本のやり方は、60年かかって、このやり方では絶対ダメだと、国民を挙げて証明してみせたのでしょう?

日本の人がいかに英語がダメかは、世界的な常識になっていて、日本式アクセントでない英語を、ふつうに話す人をみると、中国の人かな?と自動的に考える。

あるいは最近では、特に若い人であると、韓国の人かも知れないな、と、独りごちる。

日本の人であることが判明すると、げげげ、ああ、びっくりした、という反応です。

いちども日本の人と判明する英語話者と会ったことは、ないんだけどね。

多分、直截にはカタカナのせいで、日本の人は、20年くらい英語社会に住んでいても、一発で日本語人だと判る。

判って悪いか、と怒る人がいそうで、別に悪くは、もちろんないんだけど、

不思議ではある。

もっと猜疑を深めると、なんだか母語っぽく話してるけど、ほんとうは外国語として話しているのかな?とおもう。

せっかく英語に習熟したのに、内部に英語人格が形成されていないのは、もったいないというか、残念な気がする。

日本語自分を、たいしてそれと意識せずに客観視する、折角のチャンスを無駄にしてしまっているからです。

英語談義は、ひとまず、置いておく。

外国語習得の方法なんてのは、例えば英語習得法を英語人に訊くくらいムダなことはないので、だって、本人は、どうして自分が英語を話しているのか、まったく判っていなくて、初めから身についているのだから、訊かれたって、もっともらしいことを、どんなふうにいえばいいか、知っているだけです。

留学や文化が異なる国への移住とおなじことで、早い話が、

留学も移住もしたことがなくて、英語はもとから母語の、この記事を書いている人などは、ついに話の成り行き上、容赦ないセールスパーソンである村上憲郎に、憲郎さんが書いた英語速習法の本を買わされたことがある。

えええー。自分だってニュージーランドに移住してんじゃん、と言われたことがあるが、連合王国からニュージーランドへの移動は、どっちかというと、口にするとクリケットバットでしばかれる可能性があるが、思い切って述べると、タイムマシンで過去に行くようなものであって、特に、わしガキのころなどは、2万キロも移動するのに、物理的移動という実感はなかった。

ある朝、眼がさめてみたら、ばーちゃんの時代に来ていた、という実感です。

まあ、いいや。

現代日本というボートの根本的な欠点は船窓が全部閉じて、ブラインドがかかっていることで、隣はなにをする人ぞ、と考えても、深まる秋にくしゃみをするくらいしかやることがない。

知ってますか?松尾芭蕉

ゴツゴツした骨太の人で、

再現された声を聴くと、太く、深い、

ああ、そうだったのか、と合点がいってしまう声の人です。

孔子が2メートルになんなんとする巨人であることを知って、ぬ、ぬわるほど、と膝を打って痛かったりするのと同じで、歴史上の人物の肉体的な条件を知って、得心がいくことは意外に多くある。

最近、日本語はサムライドラマばかり見ていて、はてはサムライの歩き方が伝染したりしているのは前にも書いたが、ネットで登場人物について調べたり、再確認したりしながら観る癖がついていて、調べていると、なにしろ歴史上の人物といえど、人間なので、人間にはつきものの不思議に満ちていて、美濃の蝮、斎藤道三の側室の深芳野が当時、天下一と謳われる絶世の美女だったのは知っていたが、今度あらためて記事を読むと、身長が188cmあったと書いてあります。

188cm。

モニさんも180cmを越える背丈なので、珍しくもない、と思うかも知れないが、当時の日本のひとは男で160cmないのが当たり前だったはず、つまり、身長差を現代に翻訳すると2mちょっと背丈がある女の人だったわけで、そこに「天下一の美人」という評判を付け加えると、神々しいばかりの姿で、いわば女神に憧れるように権力者たちは引き付けられたのだと判る。

きみは、いったい、なんの話をしているのかね。

あ。

なぜ日本語人にとって英語を身に付けることが根底的に重要であるか、という話ですね。

日本は、日本語だけで、ああでもない、こうでもない、と、ずっとやってきて、その結果、どうなったかというと、思い込みが激しい社会になっている。

前に日本の人は国民全員で狂泉の水を飲んで、いまや「皆、歓たり」の楽しい発狂状態に陥っているのだと書いたことがあるが、発狂したまま、いまだに、ああでもない、こうでもない、かつての香港名物ドッグレースのように、すさまじい勢いで、同じところをぐるぐる疾走して、疲れはてた。

事実だけを伝える建前のニューズひとつとっても、日本語と英語を較べて見ると、報道されている事実そのものが異なる、というものすごさで、いったいどうしたらそうなるのか、というべきか、どうしたら、そんなことが許されているのか、いわば政府もマスメディアも堂々とウソをつくのが倣い性になっている。

ここで、チョーおもしろいのは、ですね。

ちょっと横を観ると、インドでもいい、イギリスでもアメリカでも構わない、アルジャジーラでも、オーストラリアでもシンガポールでも、

なんなら、韓国の英語版新聞でもいいんだけど、普通に「事実」が書いてあります。

あんまり他国の話をしたがらないお国柄の新聞でさえ、「日本は経済規模に較べて極端に賃金が低く抑えられていて、ここまでひどいと経済成長を阻害するだろう」と20年も前の新聞解説記事に書かれている。

アベノミクスも、まだ始まる前に、これは英語ではなかったが、バルセロナの新聞には、「どうしてアベノミクスは成功する可能性がないか」について、インタビュー記事が出ていて、トリクルダウンに至っては、トリクルアップしかしねえよ、と造語で述べたロンドン大学教授を始め、たくさんの人が、振り返って、トリクルダウンなる考えがいかに愚かな、おもいつきの仮説に過ぎなかったか、世界中の人間に共有されたあとで、

日本では竹中平蔵という人がトリクルダウンで行きましょう、と述べていた。

疑うと、この人が英語世界の常識を知らなかったわけはないので、「なんか魂胆があって、ダメと判っている仮説を国民に対して甘言したんちゃうの?」とおもうが、証明する方法は、ありませんね。

現代の世界の特徴は、英語によって、広汎な人間の知見や叡知が共有されていることで、その、高度に発達して、多岐にわたる思考と現実の共有こそが、世界に安定をもたらしている。

そんなのは英米の謀略だ、とマジメに書いている人がいて、

ぶっくらこいたことがあったが、あのね、きみ、

インドの新聞やサイトを見たことがないでしょう。

この世界で最も激しく英語母語人を攻撃して、有効な批判を行っているのは英語に拠っているひとたちなんです。

105カラットの有名なダイヤモンド「コーイヌール」を返せ、から始まって、植民地統治時代の損害を全額補償金として払え、とか、いろいろありますね。

盛んに議論されている。

そもそも英語人そのものの、攻撃的思考そのものが世界の諸悪の根源なのでは。

なあんとなく判ったつもりの人は多いが、どこの国でも、そんなものだけど、日本の人は、だいたいガンジスから西に向かって、ボスポラス海峡くらいまでは巨大ブラインドスポットになっている。

最近はインドへの関心は高くなって、「インド」という言語も宗教も異なる集団が、ごちゃまんと住んでいるdiversityの王国みたいな国に対する「感じ」をつかんでいる人が増えたが、でも、例えばカシミールがどこにあるかと言われても、地図上で、ベンガルを指しちゃったりする人が、いそうな気がする。

余計なことを述べると、英語を身に付けるということは、思考の観点といっても、そういう地理的物理的観点が、英語国の位置に移動されることでもあって、やってみると、すぐに判る、今度は、ファーイースト、日本そのものがオーストラリアとニュージーランド、ハワイ、カリフォルニア以外の英語人にとってはブラインドスポットにすっぽり隠れているのが判ってきます。

例えば、昔から東海岸出身のアメリカ政治家が、日本に対してトンチンカンなことばかりやっているのは、どういう理由によるのか、簡単に理解される。

情報や思考や、知識、最近では感情ですら、共有に向かっていることが世界の安定をもたらしているのは確かで、最近、日本に関心を示す人が、むかし日本語人だけが「世界が憧れる日本」と有頂天になっていたころと異なって、現実に増えているのは、「日本が世界から孤立して異なっている」からでしょう。

面白いんだもん、だって。

日本でいえば、イオンモールやスシローや吉野家が、日本全国どの町にも出来てしまって、どこもかしこも風景がおなじになってしまうのに、鎌倉だけは、みなが太刀を佩いて、ナンバ歩きで歩いている、ドキュメンタリーの「鎌倉殿の13人」が流行って、鎌倉へ鎌倉へと観光客がつめかけて、馬に乗って通勤する人や、竹林のなかで、血まみれになってのたうっているおっちゃんを観にくるようなもので、日本だけが異なっている、という面白さがある。

世界の人にとっては、いいが、では日本の人自身にとっては、どうか、というと、もちろん地獄です。

地獄ですよ、だって、世界から切り離されているのをいいことに、瞞されっぱなしに瞞されているのだもの。

ロシアの人が自分たちの「祖国」がウクライナを侵略して市民を殺害したりしているのを観て、愛国心を燃え上がらせて、不人気だったプーチンが圧倒的に支持されたりするのを観て、日本の人は不思議がっているが、世界から遮断されるっちゅうのは、ああいうものなんです。

人間は自分が与えられた情報に従って物事を認識して判断するしかないので、素材がそもそも間違っていたり虚偽であれば、もう、どうにもならない。

その、どうにもならない状態のまま、30年を過ごした結果が、いまの日本の社会で、例えばオーストラリアやニュージーランドも、例を挙げれば人種差別感情において、同じようなものだったが、インターネットがやってくることで、急速に変わっていった。

自分の姿が他の英語世界が共有している鏡に映して、どれほどヘンテコリンか判ったからです。

もっと単純に、ニュージーランド人が、みんな憶えているのは、デルのサイトが到来することによって、オーストレイシアのコンピュータ小売店が、誤魔化せなくなって、一朝にして、と言いたくなる鮮やかさ、スペックがあがり価格は半分になった。

書いてきて、くたびれたので、このくらいでやめますが、どうも、いままで日本語世界と付き合ってきて、日本の殆どの問題は、別に模倣する必要もない、日常的に英語を判断のソースにすることで解決してしまうようです。

そういう言葉が好きならば、この30年、実は日本は鎖国していたのだと言ってもいいかも知れない。

賭けてもいい。

五円しか賭けないけど。

他のことは忘れて、いったん、社会の集中力を英語の準母語化に絞ることによって、経済でいえば、高齢化社会でも人口減少でも、一見、根底的に見える問題は実は「英語がわからない」という隘路が引き起こした問題に過ぎなくて、日本語人は、もともと聡い集団なので、他国がぶっくらこくスピードで問題が解決してゆくように思えます。

勇気がいるけど、報われる勇気だとおもう。

頑張ってはタブーだと、いつもいつも言っておきながら、なんだよ、と言われそうだが、

日本のひと、がんばって!

 

(画像は、国中のあちこちで「暑くて、やってらんねえ」をしているタイの猫さん。ご同情申し上げまする)



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