エイ、エイ、オー

作りものだと重々承知はしているけれど、サムライドラマが、すっかり気に入ってしまった。

NHKの大河ドラマでいうと、古いほうは、ものものしく、益荒男ぶりが強調されていて、言葉を変えれば劇画調で、慟哭したり絶叫したりで、サムライドラマというよりは、なんだか日々辛い生活を送るサラリーマンの心象ドラマに見えてしまって、面白い面白くない以前に、見ていてくたびれるので、たいてい、50回のシリーズを、摘まみ食いして、5回くらいに縮めて観てしまうが、評判が悪かったらしい「平清盛」くらいからドラマの質が向上して、こっちは評判が悪いのかいいのか、さっぱり判らないが「麒麟がくる」「鎌倉殿の13人」は、

観ていても楽しくてたまらない。

史実と異なるとか、ネットを見ると、日本語ネット名物ニワカ博士たちが、

侃々諤々と議論しているが、こっちは、ひととおりの歴史事実くらいは知っているが、どうでもよくて、知らない人だったが坂東彌十郎の時政はイメージぴったりでいいなあ、とか、やっぱり佐藤B作は俳優として好きである、

佐藤浩市も大好き、とおもいながら、なんだかウキウキして観ている。

こういうことになると、普段は困り果てる、困惑する、としか言いようがない、日本語wikipediaも俄然便利で、トレッドミルで疾走しながら眼の前でおおみえを切っているドラマのなかの歴史上の人物をスマホでチェックして、ベルトを踏み外して、こけかけたりしてます。

なかでも気に入ったのは勝ち鬨の声で、

皆の者、勝ち鬨をあげようぞ、

えい、えい、おー

を観ていると、ぐっとくる。

まともです。

他国の風習に目鯨を立てても仕方がないが、バンザイの習慣がどうしても好きになれない。

ずっとずっと昔、明解国語辞典と首っ引きでブログを書き始めたころ、バンザイは、好きになれない、大学合格発表のような、これから学問を始めようとするひとたちの場所で、胴上げをして、バンザイを唱えるのは蛮風なのではないか、と書いたら、えらい言われようで、ボロクソに罵られて、

受験の苦労がやっと報われた人間がささやかなお祝いをしているだけなのに、そんな難癖をつけるなんて許せない、という人がたくさん来て、ぶっくらこいたが、蛮風は蛮風で、あんな野蛮なものを弁護する人も野蛮人なのではないか、と、いまでも思っています

最近は、観ないので、もうやっていないのではないかとおもうが、不合格を知って、合格したひとびとが胴上げまでして勝ち誇る姿を見つめる高校生の気持を考えても、ああいうくだらない習慣がなくなったことには良いことしかない。

バンザイは、中国のワンソイ、韓国のマンセーから来たのだろうと察しはつくが、いったいいつ頃からエイエイオーに取って代わったのだろう、とおもって日本語ネットを見ると、1889年に青山練兵場で明治天皇に向かって初めの万歳三唱が行われたのだという。

近代の、現人神としての天皇崇拝と密接に結び付いた、なんちゃって伝統のひとつで、案外新しい軍国主義的習慣であるようです。

そーれでか!と、ポンッと膝を叩こうとして机の角っこに手をぶつけてしまうが、民主制選挙で当選した議員の選挙で万歳を唱えているのを観ると、

自動的に南京陥落でバンザイを唱える帝国陸軍兵士たちの写真と重なってしまうことには、あながち理由がないわけではないようです。

ときどき思うが、いくら日本の人が「我が国は民主主義の国で」と述べても、なああに言ってんだ、薄皮いちまい、ペロッと剥げば、あんたらいまでも戦争大好きの日本帝国臣民じゃん、と言われてしまうことには、折りに触れて報道される、日本語人が「バンザイ三唱」をする姿への嫌悪感が背景にはあるでしょう。

日本では、望ましい習慣であるらしいバンザイは、バンザイ突撃、バンザイアタック、狂人の群が発狂状態で、こちらに向かって大挙して

殺されに走ってくる、というイメージの言葉で、日本人の狂性を象徴する言葉であるせいもありそうです。

そこにいくと、「エイ、エイ、オー」には、日本の人の長い歴史が培った心情がこもっている、というのは考えすぎかもだけど、観ていて嫌な感じがしなくて、やった、ついに勝った、苦労したぜ、かーちゃん、まっすぐ家に帰るからね、という、中世のおっさんたちの声が聞こえてくるような気がする。

サムライドラマを見ていると、日本の来歴について、さまざまなことを考える。

「麒麟がくる」の主人公明智光秀は、周山城という、山並みに伏した蜘蛛のような、巨大な城塞をつくったひとだが、16世紀にはもう放棄されたらしい周山城は、ヘンテコリンな言い方だが、廃墟としては、そのまま残っていて、まだいいほうだが、ISISどころではない大規模な破壊を行った明治政府は、日本中の寺院や城をぶち壊してまわって、南方熊楠の懸命な抵抗運動にも関わらず、ほとんど日本の郷里の魂のありかだった鎮守の森さえ破壊しつくした。

いま振り返れば、薄っぺらとしかいいようがない「近代化」のためで、その暴力的な浅薄さのせいで、日本社会が失ったものは、おおきくて、そういう言い方をすれば、明治が伝統日本を断ち切って、標準語をつくって方言を嘲笑してまで、破壊し尽くして、いまに続く、日本の明治以降の国家的な情緒不安定は、どうやら、この建設を伴わなかった破壊にあるようです。

エイ、エイ、オーの鬨の声が、バンザイに変わって、日本は、歴史を持たない国になった。

西洋の絶対神の代わりに天皇を座らせて、国家成長のためにムダでしかないと判断した倫理を省いた、奇妙な形の「近代」国家として、城も鎮守も、そこに民族の文明が始まって以来住み付いていたはずの精霊も否定して、破壊して、自らの歴史を恥ずべきものとしてかなぐり捨ててしまった。

民族の品性というものは、要するに、その民族の歴史によって生まれるものなので、なんのことはない、日本の人は明治以来、品性をゴミ箱に突っ込んでしまったのだと思います。

その象徴が、他国人、特にアジアのひとたちにとっては、耳を塞ぎたくなる、戦争中の悪夢を呼び起こす「バンザイ」の蛮声で、

あの声が響き渡るかぎり、いくら民主的な平和国家のふりをしたって日本の本性が変わっていないことを私は忘れない、と述べた香港人ばーちゃんの言葉を思い出す。

わし部屋に立ち寄ったモニさんが、あきれてものも言えない、という顔で、

相変わらずサムライドラマをつけっぱなしにして、トレッドミルの上でナンバ歩きをしたりしている夫を見つめているが、おっとっとなオットー1世の夫は、こういうことばっかりやっていると、オットー2世が生じて、作男に格下げされちゃうかしら、と、やや恐れながら、

祝着、至極。重畳である。かたじけのうござる。

サムライ語が飛び交う日本語頭を起動して、バンザイからエイエイオーへ、

日本のもともとの素顔を見に行こうと考えてみるのでした。



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2 replies

  1. 空想にしかならないけど「良い」近代化に成功して、素晴らしい鎮守の杜が全国を埋め尽くしている日本だったら「素顔」が喪われずに済んだのに。

    自然を殺すと心も死ぬ。歴史を捨てれば民族は死ぬ。

    いつもながら生活エッセイと日本文明批評が縦横無尽に交錯した文ですね。愉しいです。

  2. 連日素晴らしい記事を読ませていただき、ありがとうございます。パリに住んでいた頃よくギメ美術館で日本の江戸時代の版画や甲冑などを特別展示していて見に行ったものですが、ああいう作品を見て、息苦しい今の日本の世の中よりも、江戸時代の人々はもっと自由闊達に考え、振る舞っていたのではないかと思うことが良くありました。

    > 民族の品性というものは、要するに、その民族の歴史によって生まれるものなので、なんのことはない、日本の人は明治以来、品性をゴミ箱に突っ込んでしまったのだと思います。

    本当にその通りで、今こそゴミ箱をあさって失われたものを取り戻す時ではないかと思っておりました。

    学校制度をやめて、寺子屋に戻すとか、明治以来の中央集権化をやめて地方に権限と財政を委譲するとか色々とやり方はあるのではと考えています。

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